<太陽>の夢①
「んー……弱ったねぇ……あたし、鼻とか利かないしなぁ……」
咥え煙草をピコピコと揺らしながら、シュサは自分が最初にセスナとハーティアを転移させた部屋でゴリゴリと後ろ頭を掻く。
「探偵にでもなれって?やだなぁ……メンドクサイ」
言いながら、ぐるりと周囲を見渡す。
窓がなく薄暗いその部屋は、ひやりとした石造り。床には、ハーティアが転移したときにぶちまけたらしい血の混じった吐瀉物と――少し離れたところに、大量の血痕。
「なるほど。……<夜>は無事復活したみたいね」
ふっ……と吐息で笑うと、紫煙が揺れる。
「血痕は――あぁ、女の子に向かっていって――何かを、したのかな?」
血だまりから足跡と点々とした血痕が、吐瀉物のある方へと向かっているのを見て、考える。
そして、そのまま、二つある扉のうち、一方向へと血液が点々と落ちて――途中でふっと途絶えている。
「……あぁ。もしかして、あの坊やと同じで、自然治癒の力があるのかね?……"器"でも、魂が入ればそんな特殊体質になるなんて、とんだ化け物だけど」
坊や、とシュサが呼ぶのは、<夜>の片割れ――千年前、世界を大混乱へと陥れた元凶の一人だ。
「こっちは――あの爺さんが最期、臥せってたでっかい部屋の方かな?」
遠い記憶をたどりながら、とりあえず<夜>が向かったらしき方向へと向かう。
(まぁでも、爺さんの部屋に陣取るのは悪くない選択といえばそうかもね。……あの白狼が万が一結界を張り終える前に転移してたら、間違いなくあの部屋に直接現れるだろうと思って、わざわざ別の部屋に飛ばしてあげただけだし)
結果として、グレイはシュサが結界を張り終えた直後に転移をし、結界に阻まれてその憂いはなくなったのだ。敵を迎え撃つのに適している構造という点では、明らかに向こうの部屋の方が有利だ。
「転移させた施設の兵隊さん達には、赤狼の血が混ざった最後の<狼>もどきを一匹だけつけてあげたし……臭いでちゃんと<夜>の元にたどり着いてるでしょ、今頃」
転移直後は、呼び寄せた兵士全員が嘔吐し苦しむ阿鼻叫喚の地獄絵図だったが、赤狼の治癒ですぐに動けるようになったはずだ。
「思考停止しただけの木偶っていうのは、従順でいいねぇ」
にぃ、とルージュを引いた唇が笑みの形に吊り上がる。
千年前――『施設』を造ったのは、他でもないシュサだった。<狼>との戦争を始めるにあたり、いかに奇策を講じようとも、個体の戦闘能力では圧倒的に劣る人間では、<狼>が数で押し寄せれば勝ち目がない。戦争を仕掛ける前から、<朝>の力を借りて少しずつ<狼>を攫ってきては実験施設に送り込み、<狼>もどきたちを量産する仕組みを作り上げた。すでに国のすべてを手中に収めていた<朝>とシュサには、莫大な金も権力もあったため、そんなことは朝飯前だった。
ゆえに、未だに彼ら『施設』の連中は、創始者でもあるシュサの命令に従順に従う。
森の中の<月飼い>の集落に夜襲を掛けろという命令も――建物の中にいる片眼鏡の男の言うことに従え、という命令も。
「まっさか、相手がかつての戦争のときの総大将とは思いもしないだろーけど。ほんっと、馬鹿って扱いやすい」
ケラケラ、と笑いながら足を進める。
世の中は、いつもたいてい、思い通りだ。
千年前――<朝>と名乗る少年に出逢った、あの日から、ずっと。
――<朝>が使役する不思議な力は、それはそれは便利だった。
どんな悪事を働こうとも、痕跡を残すことなどない。仮に捕まったとしても、その力で暗示をかければ無罪放免なのだ。何一つ遠慮などする必要はなかった。
今までとは比較にならないほどのスピードで、加速度的に金がたまっていく。
「シュサのためなら、何でもするよ!」
出逢ったときと何一つ変わらぬ無垢な瞳で、少年はえげつない悪事に手を染めていく。
「坊やはいい子だねぇ……ほら、こっちに来な。明日は早いんだから、そろそろ寝るよ」
「うん」
手招きして寝所に導けば、素直に隣に丸まった。出逢った頃は粗末で寝心地の悪い狭いベッドに二人で身を寄せ合って寝ていたが、金がたまれば豪華なものへと買い換えられた。二人分のベッドを買うことだって簡単だ。
しかし少年は、頑なにシュサと一緒のベッドに眠ることにこだわった。
「僕は、造られた存在だから、父親しかいないんだけど――でも、お母さん、っていうのがいたとしたら、シュサみたいな感じなのかな」
「お母さん――って、アンタね。うら若き乙女を捕まえて失礼な。せめてオネイサンと呼びなさい」
半眼でツッコミを入れながら、ふわりと布団をかけてやり、柔らかなマットレスへと身体を沈み込ませる。
「なんで?……シュサは、僕のお母さんになるの、嫌?」
「嫌だね。あたしは自分の子供にしか『お母さん』なんて呼ばせないよ」
「……子供?欲しいの?」
「ま、あたしも女だし、そのうち、ね。――あったかい家庭、ってどんなものか、ちょっと興味はあるよ」
幼いころから、母の愛も父の愛も受けた記憶がないシュサは、家庭の温かさを知らない。そもそも、家族と呼べる存在がいなかった。
ゆえに、どこかで憧れを持っていた。いつか、自分が家庭を持つときが来たら、その子供には自分が歩んだような寂しい道を歩ませたくない。温かで穏やかな、幸せな家庭を築くのだ。
(――ま。こんな、悪党にそんな資格がないことはわかってるけどさ)
心の中で一人苦笑する。
シュサの手は、真っ黒だ。幼いころから、生きるため、這い上がるため、必死になって生きてきた。決してお天道様の下を笑顔で歩けるような人生を送ってきたとは言えない。
そんな自分を愛してくれる男がいるとも思えなかったし、そんな自分が、まともに子育てを出来るとも思えなかった。
「ま、いつか、そんなのが作れそう、って思えたら、そのうちね」
曖昧に言葉を濁して、ポンポンと隣の小柄な身体を撫でてやる。
「じゃあ、シュサにとって、僕はどんな存在?」
「ん?――んんん……そうだねぇ……」
困った声で呻き、考える。
これ以上なく便利な手駒――とは言えない。
少し不安そうな瞳で、じっと答えを期待しながら待っているのを見れば、適当に答えを濁して逃げるというのも難しいだろう。
軽く嘆息をして、シュサは口を開いた。
「――ま。家族、じゃない?」
「家族……?」
「息子っていうより、弟、って感じ。あたしも家族ってのには縁遠いから、よくわからないけど――いたら、こんな感じなのかな、とは思うよ」
微苦笑を刻んで言葉を乗せると、ぱぁっと少年の顔が輝いた。興奮したように体を起こし、シュサの顔を覗き込む。
「本当――!?」
「あぁ、ほんとほんと。だから、さっさと眠りな。ったく……大して眠らなくても食べなくても生きていけるくせに、道楽者なんだから……」
ぶつぶつと言いながら、跳ね上げられた布団をもう一度被せ直して、少年を寝台へと導く。
この少年が、ヒトではないことは、もうこの数年で嫌というほど思い知らされた。
人間であれば確実にぶっ倒れる、という期間、不眠不休で活動しても、ケロっとした顔をしている。極めつけは、自然治癒の能力だ。シュサの荒事に巻き込まれ、彼女を庇うようにして怪我を負ったとき、すぅ――と幻のようにその傷があっという間にふさがったのには驚いた。
もちろん、完全に無敵という訳ではないらしい。傷の深さによっては回復に時間がかかるし、内臓系の不調には効果を発揮しないらしい。腐った肉を口にしてしまった日は、トイレの住人になっていた。睡眠や食事に関しても、いつまでも不眠不休でいつづければぶっ倒れる。そもそも彼がシュサと出逢ったのも、空腹で行き倒れていたのが原因だ。限界はある。
だが、それは人間の常識からは考えられない境地にあることは確かだ。
「シュサと一緒に食べたり寝たりするのが、楽しいんだ」
「ふぅん……変な子だねぇ」
クスクス、と笑いを漏らす。
確かに少年は、いつだってシュサの後をついて回る。食事も、睡眠も、シュサと一緒でないと取ろうとしない。
まるで、ひな鳥が親鳥を無条件で信頼するようなそれは――歪でも、確かに愛情なのだろう。
誰かに"愛情"というものを向けられたことがないシュサには、時折それが居心地悪く感じることもあるけれど。
それでも――少年と一緒に暮らす日々は、さほど、悪い物では、なかった。