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月のない夜④

 永遠に吐露する機会を失った、堪え切れぬほどの深い深い愛情を、独りぼっちで持て余しながら抱きかかえて生きる――……

 それは、グレイにとっての第二の地獄であり――同時に、第一の地獄を救う、幸いでもある。

 愛しい。愛しい。番いたい。誰にも渡したくない。本能に任せて、その身を全て自分のものにしてしまいたい――その衝動に耐え続ける地獄と。

 自分を置いて次々に先立つ同胞の屍を超えて、<狼>の長としてあるべき姿で毅然とふるまい続け、時に非情な判断をする地獄の中で――その地獄と全く関係のないところで、花が綻ぶ様に笑うその表情に、言い知れぬほどの幸いを感じる、楽園と。


「貴様――!必ず再び復活し、悲願を達成して見せる――!」

 怨嗟の言葉を吐きながら長い長い眠りについた、始祖が愛した息子を見送ろうとも。

「小童が……一丁前に痛ましげな顔をするでないわ……」

 本来白狼と同等の寿命を持っていた黒狼の寿命を他の二つの<狼>と同じ寿命にすることを代償に、自分と同じくらい始祖を敬愛していた最年長の族長が、不敵な笑みを残して命の灯を幻のように消していくのを見送ろうとも。

「なぜあの『人間』どもに、そんなに執着する?俺はお前ほど賢くはないが、お前がいつになく頑なだということくらいはわかる」

 無数の戦場を共に駆けた戦友から、不審の目を向けられようとも。

「――わかった。それが、我らルナートの民の取るべき道だと、他でもない君が言うならば、我らはそれに従おう。今日から我らは<月飼い>と名乗る」

 長年で信頼を築いた大恩ある無垢な『人間』を偽り、森へ導く理不尽を強いることになろうとも。


 どれもこれも、死にたくなるような地獄――

 吐き気がして、もう一歩も歩きたくないとその場に立ちすくんでしまいたくなるほどの、地獄――……


 それでも歩み続けよう。

 この世のどこかに、愛しい『月の子』がいてくれるなら――それを胸に、始祖の願った未来を叶えるため、無限の地獄を歩み続けよう―――……



「グレイさん」

 <月飼い>と森で過ごすようになって早数年――

 呼び止められて振り返ると、北の<月飼い>の族長である穏やかな顔をした青年が立っていた。

「――カズラ」

「今日も、村には寄っていかないんですか?」

 何度、呼び捨てでいい、敬語などいらないと告げても、「誰にでもこの喋り方なんです」といって改めてくれない青年は、少し困った顔をしていた。

「私の昔馴染みが多い東の集落では、<狼>の皆さんも近くに群れを構えて、互いに利を享受し合い支え合って生きていると――」

「あぁ。東の<月飼い>は優秀な職人が多いからな。灰狼は、戦闘においては右に出るものがいないが、日常生活はからきしの者も多い。単純に、助かっているのだろう。泉のほとりの建造物も、彼らの助けなしには完成しえなかっただろうからな。おかげで四種族の中でも灰狼の群れは一番最初に一気に発展した」

「……では、グレイさんも」

「昔、言っただろう。他の<狼>たちと違い、北の集落を守るのは私一人だ。群れを抱えているならともかく、私一人くらい、お前たちの世話がなくとも生きて行けるし――お前たちに、故郷を捨てさせてまでこの森で暮らしてもらっているのだ。<狼>の関与などないところで、お前たちはお前たちの『人間』らしい幸せな楽園を築いてほしい」

「ですが――…」

 カズラはなおも困った顔をする。首元には、四つに分かたれたうちの一つの夜水晶がキラリと陽光を弾いて輝いた。

「ティアが――妻が、しきりに、貴方に逢いたいと」

「――――――……」

 今度困った顔をするのは、グレイの方だった。

「ついこの間まで、臥せっていただろう」

「いえ、もうつわりは落ち着いたみたいです。だからこそ――」

「万が一があってはならん。子供が生まれるまで安静にしていろと伝えておけ。――あのお転婆娘が、家の中にこもっているのは性に合わない、というのは確かなのだろうが」

「ハハハ、それは間違いないですね」

 笑う青年に、苦味の交じった力ない笑みを漏らす。

 己が統べる集落の者たち――それが年上であれ年下であれ――すべてを敬称付きで呼び、丁寧な言葉づかいで語る青年が、ただ一人、例外として一人の女を呼び捨てで呼ぶのを聞くたび、グレイがどんな気持ちになるのか――きっと生涯彼が考えを巡らすことなどあるはずもない。

「あなたと逢う日は大変ですよ。朝は出立ぎりぎりまで一緒に連れていけとごねられ、帰ってからはあなたの様子はどうだったと根掘り葉掘り聞かれて――いつも通りだった、と答えてもなかなか信じてくれなくて」

「……ほう……?」

「他の集落が<狼>の群れで守ってもらっているのに対し、一番人数が多い我々の集落を一人で守っているのだから、大変に決まっている――無理をしていないか、ちゃんと聞いてこいと言われるのですが」

「……ふむ。相変わらず、人のことを子ども扱いするのは変わらんな。私をいくつだと思っているのか」

「本当ですよ。白狼の――<狼>すべての頂点に立つグレイさんに、『人間』がそんな心配をするなんて、烏滸がましいにもほどがあります」

 カズラのこれ以上ない正論に苦笑いをしながら、記憶の中の少女の姿を思い浮かべる。

 相変わらず――グレイを心配するなど、稀有な存在というにもほどがある。世界広しと言えど、間違いなく、世の中に一人きりだろう。

「私の心配をする前に、己の心配をしろと伝えておいてくれ。元気な赤子を生み、育てることだけを考えろと」

「わかりました」

 カズラは素直にうなずく。仮に昔馴染みであったとしても、誰か一人に肩入れしたりしないグレイの振る舞いは、統治者として完璧な対応だ。同じく集落を束ねるものとして、通じるものがあるのだろう。

「……ん……?誰か来るな」

 耳が微かな音を拾い、スン、と鼻を鳴らしてグレイが頭を巡らす。

 しばらくして現れたのは、<月飼い>の集落から全力で走ってきたらしい若い男だった。

「かっ……カズラさん!大変です!」

「どうした!?」

「村が巨大な熊に襲われて、住民が――!」

「「――――!?」」

 若者の言葉を聞いた途端、グレイとカズラの顔色が変わり――

 ふぉんっ……

「グレイさん!?」

 その場から、グレイの姿が一瞬で掻き消えた。



「みんな、走って!お年寄りと子供には手を貸して、村の裏手に逃げるの!」

 ティアは、必死に村人の避難誘導を行っていた。夫である村長が不在の今、代わりに統制を取るのは自分の仕事だと言わんばかりに声を張り上げる。チラリと視線をやると、村の男たちが必死に矢や剣を使って熊の注意を引いている。子供たちの遊び場に子熊が迷い込み、うっかりとその愛らしさに手を出してしまった幼子がいたようだ。母熊が怒り狂い、逃げまどう子供たちを追いかけるようにして集落の中まで入ってきてしまった。

(どうしよう――!私が、みんなを守らなきゃ――!)

 そっと新たな命が宿っている腹に無意識に手をやってから、ぐっと唇をかみしめる。

 第一誘導が終わった後、ティアはくるりと踵を返し、家から逃げ出すときにとっさに背負った弓矢に手をかける。

(大丈夫――大丈夫――!)

 昔から何度も何度も練習し、極めた弓術は、村の男たちに引けを取らない。村一番の射手との自負もある。

 身重の身体では、素早い動きは出来ないだろうが、遠方から狙うことくらいは自分にも出来るはずだ。

「ティアさん!?何を――!?」

 ギリギリギリ……と弓を引き絞るティアの姿を認めた男が驚いた声を上げるが、無視して矢を解き放つ。

 ビュンッ――

 ドッッ!!!

(命中!)

 グォォオオオオオオオオオオオオ

 放たれた矢は、狙い違わず一直線に巨大熊の右目のど真ん中を射抜いていた。空気を轟かすような断末魔にも近しい雄叫びが周囲に響いた。

(もう一矢――!)

 サッともう一本番えて構え、左目を狙おうと――

「――――!」

「危ない!ティアさん、逃げろ!」

 命の危機を悟った巨大熊は、全力でこの場にいる最大の脅威――矢を放つティアへ向かって走り出す。

 一瞬、逃げるべきか、このまま矢で迎え撃つべきかを迷う。熊は、恐ろしいスピードでティアへと肉薄し――

 ふぉん……

「全く、あいも変わらず、勇ましい――が、身重の身体でそれは、無謀だ」

(――――ぇ――……)

 その、音らしい音ともいえぬ不思議な空気のうなりと、響いた声音には、聞き覚えがあった。

 一回の瞬きの間に、熊からティアを背に庇うようにして、見覚えのある背中が幻のように目の前に現れる。

 熊の凶悪な爪が、ターゲットを白銀の青年へと変更して迫り――

「……ふむ。喜べ、『月の子』よ。――今夜は熊鍋だ」

 パキッ……と軽く指を鳴らす音が響くと、あれほど集落を混乱と恐怖の渦に叩き落した巨大熊が、断末魔すら上げず、白目をむいて絶命し、どぅっ……と倒れ込んだ。

「――……ぐ……れい……?」

「……ふむ。久しいな、月の子よ。息災か?」

 振り返った横顔は、最後に見た数年前と、何一つ変わらなかった。――人間ではあり得ぬほど、何一つ変わらない。

「……どうした。腰でも抜けたか?」

 少しグレイが心配そうな顔をする。言われて、自分がぺたん、と地面に座り込んでいたことに初めて気づいた。

 軽く嘆息した美青年は、助け起こそうと手を差し伸べ――

「グレイ――グレイっっっ!」

 気づいたら、体ごと、美青年の胸へと飛び込んでいた。ぶわっと涙腺が壊れて、一気に涙があふれだす。

「――――!」

 ぎゅぅっと首に縋りつくように抱き付かれ、グレイは虚を突かれたように目を見開き――その体が、カタカタと震えていることに気づいて、ゆっくりと背中を安心させるように撫でた。

「――……ふむ。……そんなに怖かったか」

「っ……こ、こわっ……怖かった……!」

「ならば、お前も避難すればよかった。なぜ身重の身体で無茶をする。遠くから、お前が熊に矢を番える姿を見たときは、肝が冷えたぞ」

「ち、ちがっ……違っ――グレイがっ……」

「?」

 ティアは、ぎゅぅっと渾身の力で抱き付き、そのぬくもりと鼓動を確かめる。

「グレイが、私を庇って――怪我したらどうしよう、って――!」

「………ふ……私を誰だと思っている。たかが野生動物ごときに、遅れはとらん」

 ボロボロと涙をこぼすティアに呆れながら失笑する。ポンポン、と安心させるようにその黄金の頭を撫でた。

「ぐ、グレイっ…グレイ――!」

「あぁ」

「逢いたかった――――逢いたかった、逢いたかった、逢いたかった!!!」

「――……あぁ」

 ぎゅうっとさらに力を込めて抱き付かれ、そっと瞳を閉じて静かにうなずく。

(――ティアの匂いがする)

 久しぶりに至近距離で嗅ぐ懐かしい香りに、ふっと心が緩み――切なさに胸が締め付けられる。

 どれほど望もうと――もう永遠に、この匂いを、自分の匂いに塗り替えることは、出来ないのだ。

 今、この場で、目の前にある首筋に歯を立てるだけで、それが叶うというのに――…

「……お前と、お前の腹の子が無事で、よかった」

 それは、心からの言葉。

 永遠に続く絶望の淵で、道しるべになってくれる愛しい黄金をさらりと撫でてから――グレイは、ふっ……と再び、幻のように愛しい女の前から姿を消した。



 そして、一つで良いと告げた己の言を覆し、もう一度、銀水晶に願う。

 もしも同じようなことが起きたとき、絶対に、手遅れになるようなことがないように。

≪それならば、力を授けよう。白狼の理を超え、始祖の魔法を使えるように――"人"を目印に、空間を渡れるように。ただし、いくつか制約がある。一つ、お前の意思で飛ぶことは出来ない。条件が満たされたとき、その時お前がどんな状況下にいても強制的にそれが発動する。一つ、発動条件は他者に命が脅かされたときのみ。病や事故での命の危機には発動しない。一つ、魂が生まれたら、お前がその魂に戒で目印をつけること。それが出来ねば、その魂の生において、魔法は発動しない――それでも良ければ、授けよう≫

 構わなかった。

 彼女の命が脅かされたとき、それ以上に優先するべきことなど、この世に何も存在しない。

 それが<狼>の種族に関する重大事であったとしても――きっと、彼女を永遠に失うことと天秤に掛けたら、自分は、彼女を取ってしまう。

 彼女は、グレイにとって、この永遠に続く地獄の底を歩むための、唯一無二の『特別』なのだから――……



 そして、月日が流れる。

 愛しい女は、可愛らしい子供を三人産み、立派に育て、幸せな家庭を築いた。出逢った頃は、弓矢を番えて女だてらに戦うような少女だった彼女は、立て続けの妊娠と出産を経て、部屋の中で出来る趣味を見つけて、絵を描いた。なかなかに上手だと評判になり、彼女の描いた絵が挿絵に使われる書物は飛ぶように売れた。

 最初のきっかけは、子供向けの絵本だった。後世に<狼狩り>の歴史をわかりやすく伝え残すためにと作られた絵本に登場する<狼>の挿絵に、ティアが文句をつけたのだ。

「<狼>さんは、こんなんじゃない!もっと――もっと――!」

「……は、はぁ……」

「もっと、気高くて、強くて、凛々しくて、雄々しくて――それでいて――誰よりも寂しくて、哀しい――それが……<狼>さんなんだよ……」

 作者に直談判した彼女は、何度も描き直しを要求したが、出来上がってくる<狼>像に最後まで納得しなかった。美しい銀髪と黄金の瞳を持つその美青年の姿に、どうしても納得しなかった。結局最後は、もう任せられない、自分で描く、と絵筆を執り――それをきっかけに、彼女の絵の才能が開花する。

 出版された絵本は飛ぶように売れ、集落の誰もが知ることとなり、<狼>に対して以前にもまして好意的な眼差しを持つ者が増えた。

 グレイは、集落の生活に介入することなく、基本的には外から見守るばかりだった。時折訪れるトラブルにさりげなく力を貸しても、あくまで長であるカズラに求心力が集まるように取り計らい、陰でその集落の平穏を守ることに徹した。

 集落の裏手の巨木の上に気配を消して佇み――愛しい子らを眺めるようにして、見守った。

 そして――――"その日"が、来た。



 ふぉん……

 草木も眠る深夜帯――集落から明かりが全て掻き消えて寝静まったのを見計らって、そっとグレイは目的地へと転移した。

 その部屋に降り立つと、カサ……と足元で小さく音が鳴った。見ると、窓から入ってきた風に飛ばされたのか、数枚の紙が床に散乱しているようだった。そっと足をどけてそれを拾い上げ――苦笑する。

「……ふむ」

 紙に描かれているのは、白銀の毛皮を纏う、美しい獣。部屋をぐるりと見渡すと、壁に掛けられた絵も、描きかけのキャンバスの絵も、同じモチーフで描かれているようだった。

「全く……本当にお前は、私を愛玩動物か何かだと思っているだろう……」

 移動すら転移で事足りる白狼が、獣型で過ごすことなどほとんどない。故にグレイが獣型を見せた<月飼い>は、ティアしかいないが、この絵が集落中で出回っていると考えると、<狼>の基本はこの獣型だと思われかねないなと苦笑する。――グレイは、決して集落の表舞台に出ないのだから。

「……ん……グ、レイ……?」 

 掠れた――ほんの少し、甘えた響きのある、声が響く。

 ドクン……と胸が小さな音を立てた。

「――すまない。起こしてしまったか」

 数十年前――何度となく繰り返した、懐かしいやり取り。

 甘く切なく疼く胸に気づかぬふりをして、グレイはそっと寝台へと近寄った。

 そこに横たわるのは――かつて、見るものすべてを魅了した絶世の美女ではなく、枯れ木のようなやせ細った、命の灯を今にも吹き消そうとしている、老婆だった。

「来て……くれた……の……?」

「あぁ。――顔を見に来た」

「ふ……ふふ……何年振り……かしら……もう……グレイは、いつも……」

 ケホッケホッと乾いた咳の音が、静かな夜の空気に響いて、消える。

「女の子の――気持ちが、わからない……ん、だから……」

「……ふむ。そうか?」

「そう、よ……女の子はね……男の人に、寝顔を見られたり、寝巻やすっぴんを見られたり、したくないの……」

「……ふむ」

「ちょっとでも――美しい私を、見て、ほしかったのよ……馬鹿……」

 掠れた声を紡ぐのすら辛そうに、しかし顔は笑みを作る老婆に、グレイはかすかに眉根を寄せる。

 その痛ましげな表情を見て、老婆――ティア・ルナートは、なおもふわりと皺だらけの顔で笑顔を作った。

「何か――あった……?」

「……何か、とは?」

「グレイが、夜に尋ねてくるときは――何か、あるとき、だから――……」

「――――……そうか。そう、だな……」

 何十年経っても変わらず、<狼>の長に心配の色をにじませる老婆に、グレイはぎゅっともう一つ眉間にしわを深く刻んだ。

 そして、ゆっくりと、口を開いた。

 ――数十年前と、同じように――誰にも明かせぬ弱い心を、吐露する。

「何かがあったわけではない。だが――これから、起きる」

「――……そう……」

「不安で――怖くて、仕方ない。寂しくて、仕方がないんだ――『月の子』よ……」

 老婆が横たわる寝台の傍らに膝をつき、そっと枯れ枝のような手を取る。

 <狼>には、魂の匂いがわかる。――その魂が尽きようとする独特の匂いも、しっかりと。

「ふふ……グレイが、私のことを、『月の子』って呼んでくれるの――大好きよ。嬉しい……」

 咳き込むように笑ってから、少し切なげに眉根を寄せる。

「でも、もう――あなたがほめてくれた、髪も……真っ白に、なっちゃった……」

「――――」

「本当に、女心が、わからない<狼>さん……こんな、おばあちゃんになってから来て――もう、昔みたいには――」

「美しい」

 ティアの声を少し強い声音で遮る。

 驚いたように言葉を切ったティアを前に、ぎゅっと握った手に力を込めた。

「年齢など、外見など、関係ない。昔、言ったはずだ。お前は――世界で一番、美しい。誰よりも――その美しい魂がある限り、愛しい、愛しい、私の『月の子』だ――」

「――ふ……ふふ……嬉しい……ありがとう……グレイ……」

 痛いくらい切ない声音で真摯に告げるグレイに、ティアはふわりと笑みをこぼす。

 花が綻ぶようなその笑みは――どれほど年齢を経ても、決して変わらず、心を惹きつけた。

「ね……グレイ」

「……あぁ。なんだ」

「私の名前……ちゃんと、憶えてる……?」

「何を馬鹿な――」

「だって。――いつも、『月の子』って、呼ぶから」

「――――……」

「そう呼ばれるのが好きなのは本当だけど――でも……名前を呼ばれるのも、好きよ。……ね、グレイ」

 催促されるように呼ばれて、ぐっと言葉に詰まる。

 勿論、忘れるはずなどない。きっと一生――終わりのないこの人生において、生涯、決して、一瞬たりとも、忘れることなど出来ない。

 だが、それを呼ぶと――未練が、募りそうで――

「――――ティア」

「――うん」

「っ……ティア――!」

「うん。――ふふ……うん。グレイ」

 名前を呼ぶ。――返事が返ってくる。

 これだけが――愛を告げることも、番になることも許されないグレイに出来る、唯一の、愛情表現。

「ティア――っ…!」

 苦しい。辛い。寂しい。――愛しい。

 名前を呼んだことで、必死に今日まで押し殺していた感情の蓋が開いて、胸中で暴れ狂う。

 『月の子』はきっと、これからも生まれてくるだろう。今、ここにある魂と同じ輝きをもって、外見も、声も、何もかもそっくりになって、この地獄を照らす存在として、生を受けるだろう。

 だが――"ティア"は、今、ここにしか存在しない。

 月のない夜、瀕死のグレイをわが身を顧みず勇気をもって助け、涙を流し、子ども扱いして、愛玩動物扱いをして――笑って、泣いて、白狼の族長ですらなかったグレイと出逢い、ともに苦しい大戦を生き抜いた、この思い出を共有する"ティア"にだけは、二度と、逢えない。

「行くな――行くな、ティア――私を置いて行かないでくれ――!」

 この魂の匂いはきっと――今夜か、遅くても明日の朝には、命の灯を消し、天寿を全うすることを意味しているだろう。最期のお別れをしたくてやってきたはずなのに、みっともなく決心が揺らぎ、手を握ったまま、横たわる老婆の首筋に顔をうずめた。

 このまま、ここで歯を立てれば――愛しい唯一の存在が、"永遠"へと変わる。

 次の生まれ変わりが誕生するまでの百年余りの孤独を耐えることなく、今、この、唯一無二の存在を、"永遠"にして手元においておけるのだ。

「ごめんね、グレイ……先に逝ってしまって、ごめん……」

「ティア――!」

「でも、貴方は独りじゃないわ。私たち<月飼い>がいるもの。みんな――みんな、貴方のことが、大好きよ。全員が、貴方の家族なの」

「っ……!」

「ね……だから……独りで、思い詰めないで……辛いときは、立ち止まっても、いいの……苦しいときは、現実から目を背けてもいいの」

「ティア――……」

「そのあと、また、歩き出せばいいんだもの。だから――辛かったら、眠って。おなか一杯食べて、ゆっくり眠れば、不安なことなんてすぐに無くなるわ」

 言いながら、優しく手を伸ばし、そっとグレイの銀髪へと手を差し込む。幼子を慈しむような手つきに、グレイはぐっと息を飲み――瞳を閉じると、ふっ……と獣型へと姿を変えた。

「――――!」

「お前は――こちらの姿の方が、好きだろう」

「――ふ――…ふふ……ふふふ……もう……グレイったら……」

 最後に見送るときは――最初に出逢ったときの、彼女が大好きな姿で。

「いつのまに――こんなに、大きくなってたの……?」

「巨大な<狼>は嫌いか?」

「ううん。顔をうずめたら、前よりずっと気持ちよさそう。――でも、もう、昔みたいに一緒には寝られないかな……?」

「……いや、隣で寝よう。今夜だけ、私もお前と共に眠ろう。――今日だけは、優しい『夢』を、見たい」 

 言いながら、そっとその隣に寝そべる。ティアは嬉しそうに笑って、その毛皮に顔をうずめた。

「――あのね、グレイ」

「――……あぁ」

「――――――大好き、だよ」

「――――――――――あぁ。私もだ、ティア」

 これくらいは、許されるだろうか。愛が呪いへと変わる自分にも、これくらいの言葉であれば――許される、だろうか。

 グレイは、ゆっくりと黄金の瞳を閉じる。

 すぅ――と眠りに落ちていく中で、頭の片隅で考える。

 きっと、朝起きたとき――もう、この毛皮に顔をうずめる彼女の熱は、失われているだろう。

 それでも――今日は、『夢』を見よう。飛び切り幸せな、『夢』を見よう。



 ――それが、グレイ・アークリースが、最愛の女ティア・ルナートと交わした、最期の言葉だった――


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