月のない夜③
「そういえば、グレイは、ティアに良くしてくれていたらしいな。いつも彼女から話を聞いていた」
「あぁ。それがどうした?」
「君たち<狼>にはない風習だろうから、あまりピンと来ないかもしれないが――私たちは、こういうとき、世話になった相手を呼ぶのだ。だから、君もぜひ、と思ってね。もうティアから、日程などは聞いただろうか」
「……?」
「忙しい身だろうが、これも一生に一度、娘にとって特別な、祝いの席だから――」
「なんで……グレイ……」
ティアは、ベッドに突っ伏すようにしてはらはらと涙をこぼしていた。
どうして急に、グレイが冷たくなったのかはわからない。夜の時間帯に来た最後の日を境に、急にグレイは忙しいと言って来訪頻度が少なくなった。
まるで、避けられるようにして必要最低限の時間しかここに滞在しないグレイに、ティアは大事なことをもう何度も言い損ねている。
ガチャ……
「――!グレイ!」
扉が開く音がして振り返り、驚愕に涙が引っ込む。
神が造形美をいかんなく発揮したとしか思えぬ美青年が、そこに立っていた。
「戻ってきてくれたの!?ありがとう!」
急いで駆け寄る。てっきり領主との会話のあと、そのまま転移で帰って行ってしまうだろうと思っていた。
「あ、あのねっ……あのね、私、グレイに話したいことが――」
「――聞いた」
ぽつり、と。
どこか虚ろにも聞こえる静かな声が響いた。
「領主に聞いた。――結婚、するんだろう」
「ぁ――……う……うん……」
自分の口から伝えたかったため、間接的に伝えられてしまったことに気まずさを覚えながら、ゆっくりと頷く。
「我々<狼>に、結婚という制度はない。故に、詳細はよくはわからないが――女にとっては、生涯を捧げる相手を決める、ということなのだろう?」
「へ!?……あ……う、うん……」
<狼>の独特の表現に少し驚きながらも、大きくは間違っていないので、戸惑いながら肯定する。
一瞬――一瞬だけ、目の前の黄金の瞳が、苦し気にゆがんだように、見えた。
「そうか。……領主に、人間界では、それは、祝い事なのだと聞いた」
「う……うん……」
なんだろう。妙に、グレイの声が淡々としている。
いつもとどこか違う様子にも思える彼の態度に、ソワソワしていると、グレイは軽く瞳を伏せてから、ゴキッと指を鳴らした。
「ぇ?――――わ――!」
「……おめでとう。ティア」
まるで手品のように、グレイの手の中にこぼれんばかりの色とりどりの花が現れた。結婚を寿がれ、そっと手渡される。
「あ……ありがとう」
受け取ると、ふわりと香しい香りが鼻腔を擽った。心が緩むその香りに、ほっと思わず頬を緩ませ笑みを作ると、目の前の男がぐっと息を飲んだ気配がした。
「……グレイ……?」
「ティア――っ……お前はっ……」
一瞬、何かを堪え切れないように、激しい口調で声を上げたグレイは、すぐに我に返ったようにぐっと言葉を飲み込んだ。
苦悶の表情を浮かべて飲み込んだ言葉が何だったのか、わからない。しばらくの沈黙ののち、グレイは絞り出すようにか細い声で、言葉を紡いだ。
「――相手の男を……愛して、いるのか……?」
「えっっ!!?」
まさか、そんなことを聞かれるとは思っておらず、羞恥に頬が染まる。それを見て、さらにグレイはぐっと目を眇めた。
「わ……わかん、ない……」
「わからない……だと……?生涯を捧げる相手だろう?」
「そ、そう……だけど……でも――顔も、見たことない、人だから……」
「何――?」
黄金の瞳が、驚いたように何度か瞬く。ティアは、少し困った顔で、言葉を続けた。
「ずっと……何度も結婚の話は来てたんだけど、そのたびに、まだ結婚なんてしたくない、って断ってたの。戦いが終わるまでは、そんなお祝い事の気分じゃない、って言って――……でも、もう、私も二十歳を過ぎて、婚期を逃したらどうする、って言われて」
「婚期……?」
「女の人は、結婚するのに適しているとされる期間があって、短いの。ルナートでは、普通、女の子は皆、十七歳くらいで結婚するのよ。……私は、ルナート領主の娘だから、領の発展のためになるような結婚をしなきゃいけないし」
「っ……そんな――そんな理由で、愛してもいない男と、添い遂げるのか!?」
カッとグレイが激昂したように声を荒げ、驚く。
「ぁ……う、うん……家のために結婚する、っていうのは、人間界では珍しくないの。私も、領主の家に生まれたときから、それはずっと覚悟してた……」
「っ、だが――では、それでは、その男を愛せなかった時はどうする!?」
「ん……愛せるように頑張るのよ、って、お母さんは言ってた、かな」
あいまいに、困ったように笑うティアに、グレイはぐっと痛ましげに顔を歪めた。
「そんな単純なものではないだろう……!」
「ふふっ……グレイは優しいね」
いつも笑っていてほしい、と言った彼の言葉が蘇って、笑みがこぼれる。
「<狼>さんの恋愛事情ってどういう感じなのかわからないけれど――『人間』たちは、恋はするけど、結婚は必ずしも好きな人と結ばれることじゃないの。……結婚と恋愛は別なのかな。ううん。一緒になるように、努力していくんだと思う」
「な――」
「好きだったら誰とでも結婚できる、ってわけじゃ、ないから」
ティアは笑う。
それは、いつもの花がほころぶような笑いではなく――少し陰りを帯びた、寂しそうな、笑みだった。
「ティア――」
「ねぇ、グレイ。――祝言に、来てほしいの」
なおも痛ましげな表情で何かを言い募ろうとした<狼>を遮り、ティアは伝えたかったことを申し出た。
「グレイと逢うときって、私、いっつも、寝巻だったり、部屋でくつろいでるときだったり、油断してる姿ばっかりで、女の子らしい格好してる時がなかったでしょ?初めて逢ったときは、弓を持ってたくらいだったし。……祝言では、お化粧もして、きらきらする花嫁衣装に身を包んで、人生で一番着飾ってもらえるの。だから――グレイにも、見てほしい」
「――――――」
ぎゅぅっとグレイは苦しそうに眉根を寄せた。
「――……ティアは」
「……ぅん?」
「何もしなくても、美しい。――世界で一番、誰よりも」
「へっ……!?」
「愛しい――愛しい、私の、『月の子』だ――」
そ……と不意打ちで赤く染まった頬に指を添えられ、ドキン、と胸が鳴る。
囁く声は、熱っぽくて――飛び切り、切なくて。
ドキドキと、勝手に心臓が走り出す。
「……祝言とやらには、時間を割くと約束しよう。――おめでとう、ティア」
「え――あっ……!」
ふぃっと顔を背けるようにして早口でつぶやくと、引き留める前にふぉんっ……とその姿が掻き消えた。
「……び……びっくり、した……」
部屋には、不意に色気をまき散らした美しい<狼>の口説き文句に翻弄され、ドキドキとひとりでに走り出した心臓を持て余したティアが、腰を抜かして残されただけだった――
言われた通り、その日のティアは、世界で一番美しいといっても過言ではない美しさを振りまいていた。
金銀の糸で織り重ねられた真紅と純白の花嫁衣装は、伝統装束と呼ばれるものらしく、ルナート領内で見かける刺繡がいたるところに施され、キラキラ輝く宝石を上品にちりばめられている。
「グレイ、来てくれたの!」
化粧を施し、普段の何倍も美しくなったティアが、ぱっと顔を輝かせて、こちらへと駆け寄ってくる。
「……約束しただろう。言ったはずだ。<狼>は、意外と義理堅いと」
「ふふっ……ありがとう。嬉しい」
嬉しそうに微笑んでから、ティアはくるりと周囲を指し示す。
「今日は、祝宴だから――誓いの儀が終わったら、ここにあるもの、なんでも食べて、飲んでいいの。……<狼>さんに食べられるものがあればいいけれど」
「気にするな。適当に過ごす」
「そっか。ふふ……じゃあ、楽しんでね」
くるり、と踵を返すティアに、後ろから呼び止める。
「ティア」
「ん?」
「――――今日のお前は、いつにもまして美しい。相手の男も驚くだろう。自信を持て」
「っ……あ……ありがとう……」
その真っ白な頬をほんのりと淡く染め上げて、恥ずかしそうに礼を言ってから、去っていくのを見送ると、グレイは会場の端で気配を消してぼんやりと目の前の光景を眺めていた。
きっと、この浮かれ切った会場の中で、こんなにも死んだ目をしているのは自分だけだろう、と自嘲したくなる。
――何が悲しくて、生涯の番にしたいと思っている相手の結婚を祝福などしなければならないのか。
結婚という制度はいまいちよくわからないが、<狼>に当てはめて一番近いのは、やはり、番になるということなのだろう。『誓いの儀』とやらが、<狼>でいうところの首筋を噛む行為に値するのかもしれない。
(人間は、ああして美しく着飾って、愛を誓うのだな)
だとすれば、今日、あの世界で一番美しい花嫁の隣にいるのが、なぜ見ず知らずの男なのか。最愛の女が、どこの馬の骨ともわからぬ男に愛を誓うのを、何が悲しくて見届けなければならない。
(……いっそ死にたいと思ったのは初めてだ)
疲れて瞳を閉じる。永遠の命をもらったばかりなのにこんな気持ちになるとは思わなかった。まだ地獄は始まって十年も経っていないというのに。
(――わかっている。血をつながせる、ということは、こういうことだ)
眉間にしわが寄るのを自覚しながら、何とか冷静になろうと努める。
愛しい女が他の男のものになることを嫌がっていては、血が繋がらない。生命としての繁殖行為の結果、血が繋がっていくのだ。他の男との間に子供を作るその行為を許容しなければ、グレイは永遠の孤独をさまよう。――それだけは、何としても、耐えられない。
(……血を吐きそうだ……)
嫉妬が胸を渦巻き、胃がむかむかして堪らない。理性では、何度も答えが出ているのに、感情がそれを邪魔しようと何度も責め立てる。
必死に吐きそうになる衝動を堪えていると、周囲からワッ――と歓声が上がった。
ゆっくりと瞼を押し開くと、着飾った二人が現れ、惜しみない拍手と歓声を贈られているところだった。
(あれが――ティアの――)
素朴で優しそうな、穏やかな笑みを湛える青年だった。スン、と軽く鼻を鳴らして匂いを嗅ぐが、嫌な感じはしない。
かつて聞いた、シュリ帝国の玉座でふんぞり返って無数の女を囲っては肉欲の限りを尽くしている男のような人間では無いのだろう。
(よかったではないか。ティアはきっと、幸せになれる)
そう思う一方で、不穏なことを考える自分もいた。
もし、相手の男がどう見てもティアに相応しくないようだったら――無理矢理にでも、この結婚を辞めさせられたのに。
ふるっ…と軽く頭を振って馬鹿な考えを追い払う。
望むのは、愛しい女の、生涯に渡る幸せだ。
結婚をして、愛し愛され、子供を生み、育てて――幸せに笑って暮らす、そんな彼女を見たいのだ。
今度こそ祝福を――と思い、顔を上げると。
男がティアの頬に手をかけて、寄り添う二人の顔がぐっと近づいた。
ティアの頬が、恥ずかしそうに淡く色づく。
そのまま、歓声の高まりと共に両者の顔が重なって――
「っ――――!」
ゴキンッ…
気づいたら、千年樹の森へと転移していた。
「っ………くそっっ!」
目の前が緑に染まった途端、口汚い言葉と共に、衝動に任せて戒を最大出力で解き放つ。
ベキベキベキベキッ―――!
空間が軋み、大規模な自然破壊が行われた。
ハッ…ハッ…と荒い息をつく。
――あの会場であの男に向かってこれを解き放たなかったギリギリの理性を褒めたい。
「ティアっ――!」
――殺したい。
殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい。
あの男に何の罪もないことなど百も承知だが、抑えきれない凶暴な衝動がその身を暴れ狂う。
抜けるような白い頬が、恥ずかしげに淡く色付く様が得も言われぬ美しさであると、初めて逢った頃から知っていた。この五年の間に、幾度となく見せてくれたその美しい表情を他の男を相手に見せたことが、どうしようもなく耐え難い。
何より――口吻、など――
「っ…………!」
先程の光景が蘇るだけで、相手の男を八つ裂きにしたい衝動に駆られる。
胸中で醜く暴れ狂う嫉妬で、気が狂いそうだった。
「っ……ティア――愛しているっ………!」
それは決して――決して、告げられぬ言葉。
永遠に、相手に伝えることを許されぬ言葉。
耳にした者の胸を締め付ける程に切ない告白は、誰に聞かれる事も無く、ひっそりと無人の森に溶けて、消えた――