月の子⑤
初めてティアに出逢ってから、五年の月日が過ぎた。
今夜もまた、グレイは音もなく少女の部屋へとやってくる。
「グレイ……?」
「あぁ。すまない。眠っていたか」
「うぅん……大丈夫」
目をこすりながら、寝起きに甘い声を出すのは、出逢ったときから変わらない。二十歳の声も近くなってきたティアは、ずいぶんと大人びて美しく成長していたが、いつまでも変わらぬこの寝起きの甘ったれた声は、グレイがティアの中でも好きな要素の一つだった。
(いや――声だけではなく――)
身を起こしたティアの寝台に腰掛けて、愛し気にその黄金の髪を撫でると、ふわり、と花が綻ぶようにティアが笑った。
ぎゅ――と胸が締め付けられるような感覚。
(――愛しい……)
共に過ごした五年間――グレイは、その感情に名前を付けることを知っていた。
グレイにとって、ティアはずっと『特別』だった。
族長としての重責に潰されそうになった時。大切な同胞を戦場で失ったとき。ヒトへの憎しみに心が支配されてしまいそうなとき――
弱音の一つも吐くことが出来ないグレイが、唯一心を許せる場所が、この部屋だった。
最初は、何のかんのと用事をつけては来ていたが、次第に何の用事もなくともここに寄る日が増えていった。
『完璧』の名高いグレイを、この世で唯一『心配』してくれる、稀有な存在。大丈夫だ、と強がっても、ティアにだけはなぜか見抜かれる。酷いときは、グレイが心配なのだと大粒の涙を流される。
そのたびに、愛しさが溢れて、堪らなくなるのだ。
「お前の髪は、相変わらず美しいな……」
「え……?」
「初めて逢ったときから思っていた。――まるで、月光を溶かしたように美しい」
さらりとひと房手に取って、偽りのない本心を囁くと、ぼっとティアの頬が真っ赤に染まった。
「へ!?……あ、ああああありがとう……」
五倍速で身体が成長する戒をかけているグレイは、すでに十代半ば程度の外見をしている。昔と異なり、声変りをしてぐっと低くなった声で愛しそうに囁かれれば、ティアも驚いたように頬を染めてしまう。
(本当はもっと、男として意識してほしいところなんだが)
幾度となくこうして口説いているのだが、いかんせん出会いが少年の姿だったせいか、どうにも彼女が自分を異性として意識してくれているそぶりはない。
(いや……もしかしたら、いっそ、愛玩動物くらいに思われている気もする……)
部屋に来るたび、うずうずしている彼女の意向をくみ取って、獣型になってやると、そのたびに嬉しそうにその毛並みに手を伸ばされた。愛しく思っている異性に身体を全身撫でまわされるのは酷く複雑な気分なのだが、彼女は完全に獣型のグレイを動物扱いしているので、そんな彼の気持ちには気づくはずもないだろう。夜遅くにやってきたとき、獣型のまま一緒のベッドで寝ていかないかと誘われたときは頭を抱えそうになった。――男として意識されていないにもほどがある。
「ティアに初めて出逢ったのは、月が出ていない夜だった。――お前の髪が、月光のように美しかったことを覚えている」
自分が、愛する女性を口説くために、こんなにも甘い声を出せるなどということは、ティアを愛するまで知らなかった。
「月のない夜も、お前がいれば安心だな。――まさに『月の子』だ」
ふ、と笑みを漏らしてから、そっと手に取ったひと房の黄金に口づけると、ティアは恥ずかしそうに、それでも少し嬉しそうに笑っていた。
(あぁ――早く、私のものにしてしまいたい――)
美しい笑顔に締め付けられる胸の苦しさは、今日も変わらず同じ気持ちを訴える。
大人の<狼>の誰に聞いても「天啓のように、ある日突然わかる」と言われていた"番"にしたい相手、というのも、今ならわかる。
理屈も何も関係ない。
白狼の族長として、必ず反対されることはわかっている。『人間』との混血を生むなど言語道断だと糾弾されることも、痛いくらいにわかっている。いくら実力主義の白狼と言えど、族長の座を降りろと言われるかもしれない。
それでも――あんなに全てを賭けてでも成りたいと思った、族長の座を捨てることになったとしても。
この、世界で唯一無二の愛しい存在と、生涯を共に生きていきたいのだと――本能が、ただ、切ないほどに訴えるのだ。
「ティア――……」
「うん」
切ない気持ちを持て余し、名前を囁くと、ふわりと笑って答えてくれる。
――これでは足りない。
毎日、毎日、傍にいたい。常にこの手で守れる範囲へと、囲ってしまいたい。
そっと甘えるように身体を引き寄せ、スン、と鼻を鳴らすと、なじんだ愛しい香りがした。
「ティアの匂いがする……」
「ふ、ふふ……グレイ、時々そう言うよね。私の匂い、好き?」
「あぁ――だが――…」
(私の匂いに、塗り替えてしまいたい――)
ぐらぐらと沸騰するマグマのような気持ちをぐっと抑え込む。恋人同士のようなこの距離も、ティアは無邪気に笑っている。異性として見られていない哀しさに、ため息すら漏れそうだ。
<狼>は一夫一妻制の種族だ。一度番った者たちを、他者が寝取ることは決して許されない。
だから――<狼>同士であれば、誰と誰が番か、明確にわかるようになっている。雌の匂いが、番になった雄の匂いに、染まるのだ。
(ここへきて、また――この、いつまでたっても成長しない身体がひどく恨めしい――)
番にする方法は簡単だ。雄が、雌の首筋を噛む。ただそれだけだ。噛む、といっても、血が出るようなことはしない。軽く歯を立てるだけでいい。
首は、これ以上ない急所の一つだ。そこを、噛ませるほどに晒すというのは、相手を信じて受け入れるということの証に他ならない。それはまさに、真実の愛の証明なのだ。
だが、その行為があれば、愛がなくても番えてしまうという問題もある。
何かの拍子に、愛し合っている男女でない個体同士で、雄の歯が雌の首筋に触れてしまった場合――それでも、その二人は番になる。一般に、"事故"と呼ばれる哀しい出来事だ。
例え"事故"だとしても、一度番った相手を変えることは、どちらかが死ぬまで、許されない。雄が残った場合はまだましだが、雌が残った場合は悲惨だ。――他の男の匂いが染み付いた、元”誰かの番”だったそれを、自分の番にしようと思う<狼>など、存在しないだろうからだ。
だから、そうした痛ましい事故を避けるための生存本能なのか知らないが――<狼>は、完全な成体になるまで、首筋に歯を立てても番えない。子供同士のじゃれ合いの中で、万が一にも番が出来ては困るから、という理由なのだろう。
(五倍速の戒をかけているこの状態でも――完全な成体になるまで、あと五年くらいか……)
それまでは、どんなにティアを愛しく思おうが、その細く美しい首筋に食らいつこうが、決して番になることは出来ない。
(絶対に、ほかの<狼>には会わせまい……)
仮に、成体の<狼>とティアを逢わせてしまい、グレイが番えないことをいいことに、その<狼>が番ってしまったら、と考えると、こうしてティアの一族との連絡係を一手に引き受けたのは結果として正解だった、とすら思える。少女だったころから美しかった彼女の面差しは、成長し、年々その美しさにどんどんと磨きがかかっていく。もし、逢わせてしまえば、この美しさに絆される<狼>もいるかもしれない。
そんな風にして、もしティアが他の<狼>に取られるようなことがあれば――グレイは間違いなく、嫉妬のあまり相手の男を殺す自信がある。例えそれが慈しむべき同胞だったとしても、だ。
ティアと出会うまで知らなかった感情が、たくさんあることに苦笑しながら、グレイはさらりと黄金を撫でた。
「……ティア。愛しい私の『月の子』」
「ふふっ……うん。何?」
甘えるように身体を摺り寄せ、抱きしめると、くすぐったそうにティアは笑ってぎゅっと抱き返してくれた。
目の前に、黄金の髪の隙間から覗く、白いうなじが見える。
(あぁ――このまま、噛り付きたい)
本能、というのは恐ろしい。今ここに齧りついても、何も起きないとわかっているのに――それでも、今すぐここに歯を立てて、生涯変わらぬ愛を誓いたいと思う自分がいる。
「ティア。私が、大人になったなら――」
「ぅん?」
する……と僅かにのぞくその白い首筋を辿るようになぞる。
「――――お前の首筋を、噛みたい――――」
は……と熱い吐息を漏らし、熱に浮かされたように、至近距離で囁く。
それは、<狼>の社会において、最大限の愛の言葉。
『人間』の世界で言うならば――プロポーズに相当する、大事な大事な、一世一代の、愛の告白。
今までの関係を壊す覚悟で、なけなしの勇気を振り絞ったその告白に、ティアは一瞬びくりと肩を震わせ――
バッと両手で首を覆って、慌てて身体を引いた。
「――――!」
涙目で、怯えたような蒼い顔をされて、熱に浮かされた頭が冷水をぶっかけられたように現実を思い出す。
「ティ――」
「おっ――おおおおお<狼>さんって――に、人間、食べるの――――!?」
「――――――――――は――――――?」
ぷるぷる、と震えるティアの涙目は、明らかに肉食獣を前にした草食動物の怯えるそれだ。
ティアの言葉の意味が分からず怪訝に眉を寄せると、彼女は必死に言い募る。
「おっ……おおおお美味しくないよ!?たぶん!!!」
「――――――……ふむ」
どうやら、何やらこちらの意図とは異なる捉え方をしたらしい。
「……なるほど。伝えるなら、人間の文化に合わせるべきだったか」
「っ???っ……????」
混乱して目を白黒させているティアを前に、口の中で反省をする。
――フラれたわけではない、と知ってひとまず安堵した。まだ可能性はあるはずだ。――たぶん。きっと。
次回のリベンジまでに、人間界で使われる告白の言葉を調べておこう、と心の中で密かに決意していると、ティアはおずおずとグレイを覗き込んだ。
「あの、ぐ、グレイ……何か、あったの……?」
「ん?……何がだ」
「夜にグレイが訪ねてくるときって、何か……あるときが、ほとんどだし……今日のグレイ、いつもとちょっと様子が違うし……」
「あぁ――」
様子が違う、というのは、いつも以上に熱心に口説いているせいなのだが、どうやら全く気付いていないらしい。それに虚しさを覚えるものの、「何かある」のは本当で、グレイはかすかに苦笑を浮かべた。
「少し、な。――始祖狼の様子が、いよいよ危ないらしい」
「――――!」
ハッとティアの顔が慌てたように上がった。
「すべてのオオカミを、<狼>へと変え終えてから、ずっと臥せっていることが多かった始祖だが……いよいよ危険な状態らしい。明日、独りで病床へ訪ねてこいと言われた。――何を言われるにせよ、遺言に近いものだろう。あまり気は進まないな」
のちに<狼狩り>と呼ばれる戦いが本格的に激化したのが、三年前。五年前にグレイが白狼の族長になり、<狼>側にも『人間』の知識が入ってきてから、戦いが泥沼と化したのを見て、始祖は心を痛め、床に臥せったままグレイを枕元に呼び、<夜>の補佐をするようにと任命したのが三年前だ。それ以来、<狼>のリーダーとして据えられていたのは<夜>だが、リーダーとしては無能極まりなかった彼の代わりに、始祖の命令を受けて堂々と<狼>をグレイがまとめられるようになり、<狼>側の本格的な反逆が始まったのだ。
とはいえ、三年、順調だったとはとても言いがたい。劣等感をこじらせ、グレイの言うことに耳を傾けようとしない<夜>に酷く手を焼きながらも、始祖の命を守るためにと、何とか騙し騙し三年やってきただけだ。
前回枕元に呼ばれたのが、それである。――今回は、いったい何を言われるというのか。
「話の内容が気にかかるのはもちろんだが――敬愛する<狼>の始祖が命を落とす、というのは、やはり辛いものがある」
ティアの前でだけこぼせる弱音を、グレイは静かに吐露した。
先代の白狼の族長と、始祖狼。この二者だけが、グレイが心から敬愛し、真の意味で自分よりも序列が上だと心から認める存在だった。その始祖が命の灯を消そうとしているのは、さすがに精神的に来るものがある。
少し痛ましげな表情をしたティアは、ゆっくりと手を伸ばして、そっとグレイの頭を撫でた。
よしよし、と撫でる手は、子ども扱いをしているようにも、愛玩動物扱いされているようにも思えて不本意ではあったが――それでも、初めて逢った日から変わらない、少しひんやりとした慈愛に満ちたその手の感触に、心がゆっくりとほどけていくのを感じる。
ふっ……と静かに瞼を落としてから、グレイはそっと獣型に変身した。
「わっ……!」
「どうせ撫でるなら、お前はこちらの方がいいんだろう」
苦笑と共に告げると、ティアが気恥ずかしそうに頬を染めて、小さくこくりと頷いた。
「大丈夫。――大丈夫だよ、グレイ。グレイは、独りじゃ、ないからね」
「――――あぁ」
初めて逢ったときからは、だいぶ獣型も大きくなったが、それでもぎゅっとその首筋に縋りつくようにして、なでなでと頭を撫でるティアの手は変わらなかった。
(ティアがいる限り――私は、独りになることはない)
始祖が命を落とそうとも、どれだけの同胞が戦いで命を散らそうとも。
愛し気に、毛並みに頬をうずめて優しい手つきで何度も愛情を注いでくれるこの存在がいる限り――きっと、どんな地獄の底も、いつまでだって、歩いて行けるから――