月の子④
グレイが一週間後を指定したのは、族長選抜期間が終了するタイミングを考えたからだった。
三日間の音沙汰がないまま行方をくらませていたグレイを、死亡扱いにされる直前で群れに戻れたのはよかった。そして、ヒト攻略の足掛かりを見つけたかもしれない、という報告を持ってきたのだ。
族長は、満場一致でグレイに決まった。
その日の午後、すぐに族長会議を開き、白狼の新しい族長として顔を売るとともに、今後についての話し合いをした。
「まさか……こんな子供が族長とは。白狼の風習は理解しがたい」
頭に手を当てて神経質そうに眉間にしわを寄せたのは、黒狼の族長であるセシル・ラウンジール。長い白髪を背中でひとまとめにしてくくっており、その顔には深いしわがいくつも刻まれている。現在の族長たちの中では断トツの年長者だ。
血筋をどの種族よりも重要視する黒狼は、代々族長は世襲制だ。セシルが退いた後は、息子のセナが継ぐだろう。白狼の、完全実力主義で選ばれる族長選抜方法は、特に理解しがたいのかもしれない。
「ま、いいんじゃない?可愛い坊やだね、とは思うけど。あの選抜試験を切り抜けたんだ。実力は折り紙付きでしょ」
明るく笑い飛ばすのは、赤狼の族長レシィ・アスマン。目を引く萩色の髪は豊かに波打ち、母性の象徴のような自己主張の激しい胸を、恥ずかしげもなく露出させた服を着て、上から白衣のような上着を羽織っている。学術的側面を強く持つ赤狼らしく、生粋の研究馬鹿との呼び名は伊達ではないようだ。
「ふん……戦場で足を引っ張らなければ、なんでもいい」
烏の濡れ羽色の髪をした三白眼は、小さく鼻を鳴らして面倒くさそうに瞳を閉じる。灰狼の族長クロード・ディールは、戦闘時以外は常に怠惰な生粋の戦闘狂というのは、偽りではないようだ。
(やれやれ……これは、骨が折れるな)
序列の最上位にいる<夜>の元、一枚岩にならねばならないこの状態で、全くタイプの異なるこの族長たちを前に、グレイは軽く頭を抱えたくなる。
「私の見た目は気にするな。先日、五十の声を聴いたところだ。正式に族長にも選ばれたのだから、十年もすれば成体になるよう自分自身に戒を掛けよう」
昔から、実力とは関係のない見た目のせいで、とにかく侮られ続けてきた。戒で成長させてやろうと思ったことも幾度となくあったが、五十よりも前に戒で無理やり成長させると、体への負担が大きすぎて、きちんとした成長にならないと言われ、しぶしぶ我慢してきたのだ。
少しでも子供らしく見られないような口調を心掛け、実力ですべてを黙らせられるだけの力をつけ――その努力も、やっと報われる。今日からの成長は五倍速だ。見た目ごときで、誰にも文句は言わせない。
「へぇ!?通常の五倍速ってこと!?面白いわ、ぜひ研究対象にさせてほしい」
「レシィ」
急に目を輝かせるレシィを制したのはセシルだ。どうやら、年長者らしく、今の三人のまとめ役は彼らしい。チラリと目をやると、クロードはくぁ、とあくびを漏らして眠りの世界に入ろうとしていた。
「今日はお前たちに話したいことがある。――この大戦の戦局を大きく返ることが出来るかもしれぬ、博打だ」
グレイは、力強い声でそう宣言した。
「……話はわかった。――だが、そのルナートの民は本当に承諾すると思うか?」
グレイが先日の戦闘の中で『人間』に助けられたこと、それがルナートの民であること、彼らが協力を申し出ていることを告げると、案の定最初に口を開いたのはセシルだった。
「わからん。結論を聞きに行くのは明日だ。――博打だといっただろう。勝つ見込みは高いとはいえん」
「話にならんな」
嘆息するセシルとは裏腹に、レシィは興味深そうに目を輝かせた。萩色の髪をかき上げ、グレイへと視線を投げる。
「あたしは面白いと思うけど?こっちが個の戦闘力では圧倒的なのに、後手後手に回ってるのは、どう考えても情報量の差だもの。相手は<狼>の知識を死ぬほど持ってるのに、こっちはヒトの知識がほとんどない。閃光弾、音響弾、火矢に毒矢――……いつも戦場で、初めて見る武器に右往左往して、こっちが得意の連携攻撃を崩されて、孤立した部隊から順番に、伏兵だの<狼>もどきだのに強襲される……こっちの負けパターンはわかり切ってるのに、打ち手が「未知への対応策」だから、事前に講じようがない。ヒトとの戦いっていうのは、狩りと違って、情報がものをいうってことなんでしょうね。――それを考えれば、『人間』側の知識を得るきっかけになるのは、いいことだと思うけど」
「あぁ。私もレシィに同感だ」
グレイはしっかりと頷く。
「『人間』側の協力が得られるならば、敵の情報を多く仕入れることが出来る。戦場になる地形の詳細がわかれば伏兵の位置にあたりをつけられるし、どんな武器かがわかれば、対応策もわかる。私が一番期待しているのは、薬の効能だ。――先日の戦いで、何かの薬を塗られた矢を受けた私を、戒も使えぬ脆弱な『人間』が、たった三日で完全に回復させた。『人間』が使う薬の知識は非常に興味深い。赤狼たちに分析させれば、赤狼が同行できぬ戦いでも、長期戦に耐えうることが出来るかもしれない。そうすれば、戦略の幅は圧倒的に広がる」
「へぇ!それは面白い。ぜひやりたいね。赤狼は、その『人間』と組むの、賛成だよ、坊や」
レシィは目を輝かせて二つ返事で頷いた。グレイはチラリとクロードへと視線をやる。
「……俺は、どうでもいい。戦いの邪魔にならないのであれば」
「薬の進化があれば、戦場で最前線で切り込んでいく役割の多い灰狼たちの生存率が上がるのだ。手を組んで一番利があるのはお前たちだぞ。――賛成、ということでいいな?」
「ふん……好きにしろ、坊主」
レシィにしろ、クロードにしろ、グレイを完全に子ども扱いしている様子にカチンとくるが、必死に面に出さぬように努める。――これからゆっくり、実力でわからせていけばいい。
「さて、残りは黒狼だが――どうだ、セシル」
「……利はわかった。だが――どうにも、そいつらが信用に足るものなのかがわからない。現状では賛成しかねる」
「……ふむ。信用に足らぬ……とは?」
「例えば明日、結論を聞きに行くというが――そこで武装した兵に取り囲まれる、という事態が起きないか、ということだ」
「ふむ。……なるほど。懸念はもっともだな。私もそれは考えている」
言って、少しグレイは考えた後、口を開く。
「では、こうしよう。――万が一に備え、今回の交渉がうまくいこうが行くまいが、彼らとのやり取りは全て、白狼が――私が請け負おう」
「何……?」
セシルがピクリ、と白い眉を跳ねさせた。
「転移の戒が使える白狼であれば、仮にだまし討ちに遭おうとも、いくらでも逃げられる。だが、さすがに一族に『人間』を信用しろといっても難しいだろう。故に、私が請け負おう。――何か不測の事態があろうと、私一人なら、何とでもなる」
「――……ふん……小童が、よくもほざく……」
(小童、と来たか……)
各々の子ども扱いの語彙にいっそ感心しながら、グレイは苦笑を刻んだ。
「お前たちを危険にさらすのもはばかられる。――明日の返事を聞きに行くのは、私一人で向かおう。協力を取り付けられたとしても、相手は『人間』だ。いつ裏切るかわからん。もしもに備えて、連絡は私が請け負う。……もし、明日、交渉が決裂し、だまし討ちに遭ったとしても――その場にいる全員を皆殺しにして帰ってこればいい。話は単純だ」
さらり、と告げる幼年の<狼>に、セシルは軽く顔を顰めた。
「その自信――虚勢でないことを祈るぞ」
「ふむ……では、黒狼も賛成ということで」
自然にその場を仕切りながら、グレイは一癖もふた癖もある族長たちをまずはまとめることに成功したのだった。
ふぉん……と音らしい音もたてずに、約束通りの時間に転移する。部屋の中では、一週間前に見た少女がたたずんでおり、グレイの姿を認めた瞬間、ぱぁっと顔を輝かせた。
(――本当に待っているとは)
転移した途端、武装兵に囲まれることまで予想していた身としては、少し拍子抜けだ。
「グレイ!」
――しかも、しっかり名前まで憶えているらしい。
「本当に来てくれたのね!ありがとう!」
ぱぁっと花が咲くように笑う顔は、全身で喜びを表していることを示していた。夜にしか見たことがなかった彼女の髪は、明るい場所で見ると、より一層美しくまぶしい黄金の色をしていた。
「こっちよ。お父さんが、直接話したいって」
パッと当たり前のように手を取られ、思わずあっけにとられる。
「……お父さん……?」
「うん。ルナートの領主――えぇと、<狼>さんたちの言葉で言うとなんていうのかな。長……族長?だっけ?――グレイがなりたい、って言ってたのと同じだよ。みんなのリーダーなの」
「……ふむ。合点が行った」
子供に過ぎないティアが「明日でもいい?」と聞いたとき、違和感を持ったのだ。そんなことをすぐに話せるような大人がいるのかと。
(そういえば、姓が『ルナート』だったな)
ここの領地の名前を冠している時点で気づくべきだったかもしれない。
嬉しそうに前を行くティアの背中を見つめ、ふ、と微笑ましい気持ちがこみ上げる。
彼女の様子では、どうやら交渉はうまくいく予感がする。
(泣いたり笑ったり――忙しい娘だな)
最初に見た瑠璃の瞳一杯の涙を思い出しながら、グレイは無意識のうちに口の端に笑みを刻んでいた。
ルナート領主は、酷く穏やかな好ましい壮年の男だった。誠実な立ち振る舞いも、領主としての責任ある発言も、全て、リーダーとしてふさわしいと言わざるを得ない。
その領主が、責任をもって、<狼>に協力すると申し出てくれた。ヒトが<狼>を裏切り、虐げている状況に心を痛めていると真摯に訴え、惜しみない協力を約束してくれた。
交渉は、想定の何倍もスムーズに、そして<狼>側に有利に、締結された。
(――こんなに簡単でよかったのか……)
人望も厚いだろうと予想される領主が、その責をもって締結したのだ。そうやすやすと覆されぬだろうとは思うものの、グレイはあまりにスムーズに運んだ事態にむずがゆさを感じていた。
交渉成立の信頼の証として、手始めに幾つかの薬品を早速持ち帰ってもいいと言われたのだ。ありがたい限りだが、ずっと憎むべき敵だと思ってきた『人間』からの親切に混乱するのも事実だ。
(だが――事実は、事実だ。受け止めるべきだろう)
グレイは、薬品が保管されている部屋まで案内を買って出てくれた、前を行く金髪の少女へと静かに声をかけた。
「――ティア」
「うん?なぁに、グレイ」
ぱっと黄金がはじけて、可愛らしい顔が嬉しそうにこちらを向く。
名前を呼んだのは、それが初めてだった。――それが嬉しいのかもしれない。
「……礼を言おう」
「……ぅん?何に?」
「お前のおかげで、『人間』に協力を取り付けるという<狼>にとっては奇跡のような一手が叶った。これで、今後たくさんの同胞が救われる。――その礎を作ってくれたお前には、感謝の意を示したい」
「ん……そんな、全然、いいのに……」
一週間前のような上からの物言いではなく、誠実に礼を告げたせいだろうか。少女は照れくさそうに頬をほんのりと桜色に染めた。
(――美しいな)
ふと、無意識にそんなことを思う。
白狼は、<狼>の中でも色素の薄いものが多い種族だ。一族の中にも美しいものはたくさんいるが、ティアはその白狼と比較しても引けを取らないほど、白く透明感のある肌を持っている。それが、ふわりと淡く色づく様は、なんとも言えず美しかった。
「約束だ。何でも、好きなものを言え。このグレイ・アークリースが、責任をもって必ず叶えよう」
「え!?……いやいやいや……私のお願いは、もう、今日、叶えてくれたよね?」
驚いた顔で聞き返してくるティアに、呆れた顔を返す。
「本気で言っているのか?――今回の件、お前に何か利があったとは思えない」
「え?」
「利があったのは我ら<狼>だ。――ティア自身に、何かの利があったわけではないだろう」
「そんな――そんなこと、ないよ」
ティアはぶんぶんと大きく首を横に振った。美しい黄金が弾け、宙に舞う。
「私たちが協力することで――<狼>さんたちが、少しでも命を落としたり、痛い思いをしたりすることがなくなるなら、私はすごく嬉しい。もう――あの日のグレイみたいな<狼>さんを、見たくないから……」
「だが――」
「ずっとね。大人から話を聞いたことしかなかったの。<狼>さんたちのこと。ずっと、ずっと、何かしたいって思ってた。だから――あの夜、グレイと初めて逢えて、私、すごく嬉しかったの。本当だよ?」
ふふ、とはにかんだ顔で笑うティアに、グレイはぎゅっと眉根を寄せる。強情な彼女に、どうやって借りを返せばよいのか。
「――では、こうしよう。……今日の約束の締結は、お前の言う通り、前回、助けてもらった礼だということにする。……未だに、あまり納得は行かないが」
「うん」
「……だが、お前に交渉の場を設けてもらったことに関しての礼を、まだしていない」
「へ……?」
「お前がいなければ、ルナート領主と直接対話することなど叶わなかっただろう。――その分の礼をしたい。好きな望みを言え」
ぱちぱち、とティアの瞳が何度か瞬かれる。
子供騙しのような主張だが――こうでも言わないと、彼女に礼をする機会を金輪際逸してしまいそうだった。
「えっと……」
「なんでもいい。遠慮せずに言え」
まっすぐに瑠璃の瞳を見つめると、ティアは何かを思いついたのか、一瞬瞳を揺らし――慌ててそれをかき消すように視線を逸らした。
「……ふむ。何か思いついたのか?」
「えっ!?えええええっと……いやでも……」
「何でもいい。口にしてみろ。――<狼>は義理堅い生き物だと教えただろう」
やっと強情な少女の望みをかなえる糸口を探り当て、必死で促すと、さぁっと再びティアの頬が淡く色づいた。
(……ん……?)
「あの……あの、ね……?」
「あぁ」
「その……な、なんでも、いいん、だよね……?」
「ああ。何度もそう言っているだろう」
もじもじと言い辛そうにするティアに焦れる気持ちを抱きながら、先を促す。
ティアはなおも恥ずかしそうに躊躇った後――そっと、その花弁のような唇を開いて、願いを口にした。
「グレイの――毛並みを、触りたい――」
「――――――――――――は――――――?」
思わず、間抜け極まりない声が出るのを止められなかった。
(こいつは――いったい何を言っているんだ――?)
「その……前に触った時、グレイの毛並みが、すっごくふかふかで、もふもふで……も、ももももう一度だけ触りたい、ってずっと思っててっ……!」
何の冗談だ、と思い半眼で見返すも、目の前で恥じらう少女は、どうやらどこまでも本気らしい。
(……馬鹿なのか、この女は)
望めば、いくらでも――富も若さも、何でも手に入るというのに。
よりによって望むのが――毛並みを触りたい、などという下らない願いだとは。
「……そんなことでいいのか」
半眼のまま聞き返すと、真剣な顔でこくこく、と何度も頷かれた。
「……はぁ。好きにしろ」
何せ、<狼>を助けたいと言い出すような少女だ。常識では測れないようなところがあるのは知っていた。
グレイは、瞬き一つで獣型になると、面倒くさそうにティアの傍に寄り添う。
「わぁ――!」
感極まったような、嬉しそうな声が響いたと思ったら、思い切り首のあたりに抱き付かれた。
「ありがとう、グレイ!」
わしゃわしゃわしゃわしゃ
「――……くすぐったい」
好き勝手に撫でられて、目を眇めながらぼやくと、毛並みを梳くような手つきに変わる。
(あまり変わらないのだが――まぁ、好きにさせるか)
そもそも、日常生活で獣型になることなど殆どない。当然、こんな風に誰かに撫でられる経験など、あるはずもなかった。
少女は、いったい何が嬉しいのかわからないが、頬を緩ませ切って毛並みを両手で楽しみ、時に顔をうずめて堪能しているようだ。軽く嘆息して、サービスで尻尾でふわりと頭部を撫でてやると、きゃっきゃと声を上げて嬉しそうな歓声を上げる。
(度し難い――……が、不快でもないな)
いつだって、気持ちを張り詰めていた。
族長になるために、白狼の一族を守るために。偉大な族長だった先代は、戦地で命を散らした。彼の遺志を継ぐため、必ず自分が長になると決意を固めていた。
子供だと侮られては、それを実力で跳ね返した。ライバルばかりの一族の中で、必死に隙を見せないように生きてきた。戦場では、一時も気を緩めるときなどなかった。癖のある族長たちの間を渡り歩くのも、緊張の繰り返しだった。
だが、こうして邪気の無い少女に無心に撫でられているこの時間は――何も、考えなくていい。
面倒な考え事の存在を頭から排除して、安心し、心が緩み切っているのを感じる。毛皮に顔をうずめる少女の体温が温かい。嬉しそうな笑い声が、耳に心地よく響いてくる。
(――なんだろうな、この感覚は)
言葉で表すことは出来ないが――酷く、この少女を、好ましく思っている自分がいる。
どれだけ聡いと言えど、まだ人間に換算すれば十歳の少年と変わらない白狼には――"愛"が動き始めるその感覚を、きちんと自覚することは、まだ出来なかった――