月の子①
一瞬、奇妙な浮遊感と息苦しい圧迫感が身体を支配する。
なんとも言えない強烈な不快感は一瞬――ふっとそれが掻き消えたと思うと、いつも通りの重力と開放感が襲ってきた。
それは、瞬きの一瞬だった。その刹那の間に、ハーティアは――今まで見ていた視界が完全に切り替わったことを知る。
つい先ほどまで視界いっぱいに広がっていた、白狼が自然破壊を行った戦場ではなく――目の前に広がるは、まばゆい朝日に照らされた、ただ視界いっぱいの、緑の森。
「――――!?」
空中に放り出されている――と現状を理解した途端、ぐいっと乱暴に襟首をつかまれて何者かに引き寄せられる。空中浮遊のパニックから立ち上がるより先に、ぼふんっと予想より早く何かに着地した。
体の下にあるのは、少し長い毛束の痩せた<狼>の体躯だった。グレイの背に乗った時のようにふかふかで安心感のある巨躯ではないが、全力で駆けているのか、スピードは目を見張るものがある。
「ぐ、グレ――――ぅっ……!」
なじんだ白狼の姿を探そうとして、急に目の前がクラクラとし、耐えがたい頭痛が襲ってきた。同時に
、強烈な吐き気を催す。
「ぅ………ぉえっ……」
「ちょっと!!?」
こらえきれず、情けなく黒狼の背に吐瀉物をまき散らすと、セスナの焦った声がした。
「あーぁー。なるほどね。『人間』を連れて転移できるかどうかは賭けだったけど……ふぅん。こうなるんだ。初めて知ったわ。……ま、死なないってわかってよかったよかった」
のんびりとシュサがつぶやき、ぽんぽん、とハーティアの頭を軽く叩く。
「もう少し、人質として役に立ってね、お嬢ちゃん」
「っ……ゲホッ……」
喉の奥からせり上がってくる酸っぱい胃液に涙目でせき込みながら、ハーティアはシュサを睨む。
グレイが、何度も「生身の『人間』が転移に耐えられるかわからない」と言っていた言葉をぼんやりと記憶の底で思い出す。結局彼は、ハーティアを慮って一度もそれを行わなかったから知らなかったが――あの、上下左右がめちゃくちゃになった奇妙な浮遊感と、全身の骨が圧迫されるような苦しさが、生身の『人間』が転移する代償なのだとすれば、確かに「耐えられる」とは言い難い。
当然、シュサもそれくらいは想像がついていただろう。彼女の口ぶりでは、彼女もまた『人間』を伴って転移をしたことはなかったらしい。ハーティアが転移に耐えきれずに死んでしまう可能性も、当然頭の片隅にあったはずだ。
それでも彼女はハーティアを伴って飛んだ。
もしも転移に耐えてくれれば、グレイへの人質を確保したまま作戦を続けられる。仮に死んでも、あの場から逃れることが出来るだけで御の字だと思ったのかもしれない。
「さて、シュサ。僕はどこへ行けばいい?」
「どっか、落ち着いて<夜>を復活させられるところがいいね。あとは――敵を待ち受けることが出来れば、最高だ」
「難しいオーダーだね」
セスナが、苦い声でつぶやくと――
るぉおおおおおおおおおおおお
遠く後を引いて響く号令のような遠吠えが森にこだました。
「二人をこっちに呼ぶみたいだよ。……厄介だな」
セスナのつぶやきに苦味が増す。"二人"が誰を指すかは、ここにいる誰もがすぐに理解していた。
「なんで?一回あの白狼からの視界からは外れたんだから、もう、あいつは追ってこれないでしょ。あたしらが、もう一回このお嬢ちゃんを殺そうとしない限りは」
「いや。――たぶん、臭いで辿られる」
ふるっ……とセスナは頭を振った。シュサは、ぴくりと眉を跳ねさせる。
「君の転移には"制限"があるんだろ?……苦手、って言ったんだから」
「あぁ――うん。でも、あの白狼くんはそれを知らないわけだから――」
「関係ないさ。――君が、生粋の白狼と違って、自分が向けた視線の先にしか転移が出来ない、っていうからくりに、グレイが気づいていなかったとしても――匂いと音は、風に乗ってかなりの距離を渡る」
セスナは言いながらチラリと背中を振り返った。
「わざとなのかと疑いたくなるくらい、強烈な臭いを発する"目印"を僕の背中にぶちまけてくれたからね」
「あー。なるほど、コレか……確かに、人間の鼻でも、かなり臭うもんね。そりゃ、<狼>からすりゃ、すごい目印になるか」
シュサの苦笑する声を聴き、心の中でざまぁみろ、と行儀悪く罵る。本当は言葉にして言ってやりたかったが、まだ転移による不調が続いているのか、音を紡いだら再び盛大に吐瀉物をまき散らしそうだった。
「たぶん、さっきの転移で、姿を見失ったことに気づいたグレイは焦ったはずだ。まさか、『人間』を連れて転移するなんて暴挙に出るとは思ってなかっただろうしね」
人質は、殺してしまえば利用価値がなくなる。グレイと渡り合うための切り札を失うかもしれないその最終手段を取るとは、グレイも思っていなかったはずだった。
だが、彼の予想に反して、シュサは危険を冒してもその手段をとった。――このシュサという女は、どうやら、酒と煙草に加えて、博打好きの一面も持っているらしい。
「焦って、すぐに臭いを辿ろうとしたはずだよ。君が生粋の転移が出来るなら意味をなさないけど――きっと、グレイはすぐに気づいたはずだ。微かに臭いを辿れる距離に僕らがいること。何となくの方角はそれであたりがつくから、すぐにその方角に駆け出しただろうね。念のため、あいつにすぐに振り返られても大丈夫なように、森の深いところに方向転換しておいたのはよかったみたいだ。――あいつが振り返った先で僕らの姿を見つけてたら、白狼の転移で追いかけっこは一瞬で終わってた」
言われてみれば確かに、セスナはあえて森の深いところを走っているようだ。時折、木々が邪魔するように葉っぱを伸ばしてくる。
「二人を呼んだのは、最悪見失ったときに人海戦術をするためだと思うよ。クロエは野生のど真ん中で生きてるような奴だから、めちゃくちゃに鼻が利く。まぁ、鼻が利かないんじゃ、マシロはあまり役に立たないだろうけど……」
「マシロは、人質対策に呼んだんだろーね」
シュサは嘆息しながら面倒くさそうにつぶやく。
「もし、灰狼くんと一緒になったことで、この追いかけっこが早く終わって、その先の戦闘でこの子が人質に取られても――マシロの戒の才能は本物だからね。かなり酷い状態からでも復活させられる。――人質を盾に脅されても、取れる選択肢の幅が広がる。……まいったなぁ。となると、お荷物じゃん、この子」
「っ……!」
ギッと意思を込めて睨むも、シュサはどこ吹く風、といった様子で肩をすくめただけだった。
「まぁでも、ここで捨て置いたとして――そしたら、白狼は本当に何の憂いもなく全力を出せるだろうから、それはそれで厄介だねぇ……一度この子を人質に取った、ってことで、そりゃぁもう激昂して、あの化け物みたいな戒を使って、何が何でもぶっ殺す!って襲ってくるだろうし。――ま、<夜>が復活して夜水晶を使うなら、強力な力が使えるはずだから、何ができるのか確認して――うまく活用方法を見出すしかない、か」
カチャ、とシュサはつぶやきながら眼鏡を上げる。
「何でまた、他の<月飼い>とも明らかに差別するくらいに、この子だけあんなに特別扱いしてんのかはさっぱりわからないけど――コレがあの最強の<狼>の弱点だ、ってことだけは明確なわけだし」
「――――――特別、扱い……?」
ぽつり、と胃酸で焼けた喉を抑えながら目を眇めてシュサの言葉を反芻する。
その言葉は、どこかで聞いた言葉だった。
グレイの口から――どこかで――
「ぉや?ちょっとは復活した?――じゃ、もっかい飛ぼうかね」
「――――!?」
シュサにぐっとしっかりと腕をつかまれ、反射的に顔を上げる。シュサは、反対の手でセスナの長い毛並みをしっかりとつかんでいた。
ふっとシュサが、遠くを望むようにして前方に目をやる。
「っ…………!」
再び体を包む、耐えがたい不快感。
ぐちゃぐちゃに思考をかき乱される中で――ハーティアの耳に、自嘲と苦笑の響きを伴った声が響く。
『……まぁ、多少、特別扱いをして守りたくはなるかもしれないが。それくらいだ』
(あぁ――あれは、何の話をしていた時だっけ――)
骨が軋み、前後左右上下すべてがごちゃごちゃになる浮遊感の中では、考えがまとまらない。
胃がひっくり返るような不快感と全身を襲う圧迫感の苦痛の中で、ハーティアの思考は、靄の中に霧散していった――