<朝>と<夜>の匂い②
「ふぅん?人質、ってこと?」
「……ありていに言えば」
目の前で交わされる会話に、ひゅっとハーティアは息を飲む。
「っ……離してっ……!」
「君も懲りないね。話聞いてた?」
自分がグレイの足手まといになるかもしれないという事実に、悔しさに歯噛みしながら暴れるも、セスナはあきれた声を出しただけだった。
二人のやり取りを、無感動な瞳で見ていたシュサは、顎に手を当てて何かを考えている。
「……ふぅん……でも、さ」
「?」
「白狼の戒では、知ってる座標にしか飛べないっていうことは変わらない。――北の襲撃の時は、虫の知らせとやらで、既知の場所でもある集落に簡単に飛ぶことが出来たのかもしれないけど、今回は、そうはいかないわけじゃない?」
「そ、そうだけど――」
「だったら、さ。<夜>を復活させたら、どっちにしろあの<狼>とは戦わなきゃいけないわけだし――その前に、絶望を味合わせてやる、ってのも、面白くない?」
ニィ、とルージュを引いた朱唇が、不気味に吊り上がる。
ぞわっ……!とハーティアの背筋に悪寒が走った。
「やることは単純で簡単。ここに、この女の躯を転がしておくの。――転移が使えない以上、あいつは明け方になるまで足跡を辿れない。やみくもに当てずっぽうで飛んで、残された唯一の手掛かりを失うことの方を嫌がるだろうしね。……今、ここでこの女を殺しておけば、きっと、明け方には随分と冷たくなった状態で発見されるはず」
フフっ……とルージュの隙間から不気味な笑みが漏れた。
「虫の知らせまで使って守った女が――<狼>の長らしさを崩してまで守ろうとしていた女が、夜水晶も奪われた状態で、冷たい死体で転がっている――……その時のあいつは、どんなことを思うんだろうね?」
「っ――――!」
昏い笑みを刻んだシュサに、本能的な恐怖を抱いて、ハーティアは後退る。
「なるほど……それは、なかなか面白いね……」
「でしょ?――どうせ、<夜>を復活させたら、どっかであの白狼とはやり合うことになる。自分のところの<月飼い>の最後の一人も守れなかった――これは、あの義理堅い<狼>にはとんでもない精神的ダメージでしょ。それでまともな判断が出来なくなってくれればあたしたちとしては万々歳。<狼>たちが、たかが一人の<月飼い>も守れないのか、と失望してくれても、ラッキー」
「年長の<狼>はともかく、最近の若い<狼>は、マシロを筆頭に、<月飼い>なんか不要だと思ってる連中もいるからね。<月飼い>ごときを後生大事に守ろうとしてたあいつに、失望する奴は多そうだ」
セスナもまた、その面にシュサと同じく昏い笑みを刻み込んだ。
(どうしよう――!)
ハーティアの脳裏に、感情豊かなグレイの姿が思い浮かぶ。
<狼>が一人命を終えるだけで、そのたびに心を痛めるような男だ。
千年前の盟約に、律儀に殉じる義理堅い男なのだ。
何より彼に――必ず後世に血をつなぐと、約束した。
将来、必ず、彼が愛した北の<月飼い>に再び逢わせてあげる、と約束したのだ。
(こんなところで――死ねない――!)
ォオオオオオオオオオオオオ
「「「――――!」」」
突如、遠くから夜を切り裂く低音が響いた。
東の方角から届いたそれは、紛れもなく<狼>の遠吠えに他ならない。
「おんやぁ?……何て言ってるかわかる?」
シュサがセスナを振り返ると、セスナは軽く片眼鏡を指の腹で押し上げる。
「クロエの声だね。君に夜水晶を奪われたと報告してる」
るぉぉおおおおおおおおおおお
今度は比較的近くから、先程聞いたのと同じ遠吠えが轟いた。十中八九グレイの物だろう。内容まではわからないものの、両者が何かしらの情報のやり取りを交わしているだろうことは、人間のハーティアにも容易に想像がついた。
「どこにクロエとマシロがいるか、場所を聞いてるみたいだね……」
「ふぅん……?なるほど。二人をこっちに転移させるつもりでしょーね。場所のイメージさえ出来れば、自分が飛ぶことはもちろん、そこの場所にあるものを自分のところに転移させるのも簡単だから」
セスナによる遠吠えの通訳を聞きながら、シュサはハーティアに向き直り、軽く右手を掲げた。
「二人がこっちに来たら、非戦闘員のマシロを、君らを見失った場所に目印において、捜索の最終手段をキープした状態での人海戦術が可能になる。そうなったら――ここを見つけられるのも時間の問題、ってこと」
ヴン……
耳障りな音が、闇夜に響き渡る。
それは――シュサの手に、不可視の刃が宿る音。
「フフッ…悪いね。あんたに何か恨みがあるわけじゃないんだけど――死んで、くれる?」
非情な声が、あっさりと告げて、その凶悪な右腕が振り下ろされる――
(グレイ――――!)
心の中で叫ぶ。今度は、助けを乞うのではなく――謝罪したかった。
足手まといになってごめんなさい。
貴方の心を傷付けることになってごめんなさい。
約束を守れず――また、貴方に寂しい顔をさせてしまうことになってごめんなさい――
「っ……」
じわり、と目の前に迫った濃厚な死の恐怖に、自然と涙が眦に浮かんだ。
涙で滲んだ視界に、緋色の髪の女が狂った笑顔を浮かべて――――
ふぉん
――その背後に、修羅の顔をした白銀の<狼>が、幻のように、現れた――