お姉ちゃん③
しん……
一瞬、周囲の音が全て凍り付いたような錯覚に陥る。
「――――ぇ――?」
鼓膜が拾った音の意味を理解できず、呆然と顔を上げる。懐かしい紅の瞳が、いつもと変わらない笑顔を浮かべてにっこりとマシロを見つめていた。
何も、何も変わらない顔。いつもと同じ、軽い口調。
なのに――言葉の意味が、わからない。
「お姉、ちゃん……?それ、どういう――」
困惑に瞳を揺らすマシロをそのままに、くぃ、と首に下げた夜水晶をも一度、少し強く引かれる。
「ん?聞こえなかった?だから、コレを――」
バッ
「――――!」
突然視界に割り込んできた背の高い背中に、ハッと息を飲む。
「――――――――」
「ナ……ナツメ……」
マシロを背に庇うようにして、シュサとの間に割り込んだのはいつも儚い笑みを浮かべている無口な美女だった。
毅然とした表情で、しっかりとシュサを見据え、その前に立ちはだかる。長身の系統の違う美女が睨み合うさまは、それだけで異様な雰囲気を醸し出した。
「何、あんた。あたし今、マシロと話してるんだけど?――姉妹水入らずの会話に、横やり入れないでくれる?」
ピコ、と煙草が言葉と共に揺れる。軽く歪められたその口の端は、確かに不機嫌を露わにしていた。
「ナ……ナツメ、あんた、何して――」
ハッと我に返ったマシロが、慌てて後ろからその肩をつかむ。
ナツメが姉属性の強い女だということは知っているが、いくら何でも、これは無謀だ。赤狼がいかに戦闘向きの種族でないといったところで、さすがに『人間』に後れを取るわけもない。
もしもシュサが襲い掛かってきたとき、ナツメに何ができるというのか――
(――――え……?)
自分で自分の考えに、一瞬戦慄する。
(あたし……何を――)
何を、考えたのか。
もう一度、ナツメの肩越しに緋色の髪をした姉を見る。
世界で一番大好きだった姉。誰よりも信頼していた姉。
その彼女が――襲い掛かってくる、という想定をした自分が、信じられなかった。
(待って――でも……)
無意識でそう判断したには、必ず理由がある。人工的に造られた頭脳が、そう導き出した背景がある。
マシロはゆっくりと思い出す。
(待って……そもそも、お姉ちゃんは――どこから、来た――?)
いきなり、声がしたのだ。ふぉん……という、無音の夜出なければ気づかないほどの、微かな不可思議な音と共に。
その音には――聞き覚えがあった。
「おやぁ?あんた、もしかして――東の<月飼い>?水晶持ってるじゃん」
ふと、シュサがナツメの首にかかった首飾りに目を止めた。
「ラッキー!普段の行いって大事だねぇ。わざわざ集落まで行く必要なくなったわ」
にやり、とシュサの頬がゆがむのと。
「っ――ナツメ!」
マシロが声を上げてナツメの身体を横に突き飛ばすのは、同時だった。
ヴン……
耳障りな音は、戒の発動音。
「ガッ……!」
ザシュッ……
ナツメが一瞬前まで存在した場所に入れ替わるようにして踊り出たマシロは、不可視の刃に喉元を切り裂かれ、悲鳴にならぬ悲鳴を上げてその場に頽れる。喉を裂かれたときに一緒に切られたのだろう。夜水晶を下げていた紐がちぎれ、視界の端にキラリと光った。
「あらら。びっくりした。急に出てくるから」
ヴヴヴヴ……
意識を失う前に、必死に治癒の戒を練り、全力で回復させる。意識が落ちたら終わりだ。出血多量で死ぬことはもちろん――ナツメが、死ぬ。
(なんで――今のは、灰狼の戒だった――!)
目に見えぬ不思議な力を圧縮した刃のようなそれは、半分血を混ぜられた自分にも使える戒だった。見間違えるはずがない。
「あーぁ。せっかく、昔のよしみで、あんたからは穏便に貰ってあげようと思ってたのに。……ま、仕方ないね」
いつものような軽薄さでうそぶいてから、マシロの血だまりに沈んだ夜水晶を拾い上げる。マシロという<狼>の血に濡れた夜水晶は、不気味に黒々と光っていた。
(どうして……お姉ちゃんは、赤狼――混血じゃ、なかったはず――!)
朦朧とする頭でも思考を止めない。
何が起きているのか、冷静に判断する余裕はないが――ただ、今が、絶体絶命のピンチであることだけはわかる。
「ま、治癒の戒だけは優秀だったし、死にはしないでしょ、あんたも。とどめは刺さないでおいてあげる。優しいなぁお姉ちゃんは」
飄々とうそぶくシュサが、視界の端でその靴のかかとを向け、彼女が踵を返したことを悟る。
(だめ――そっちは――ナツメが――)
激痛と朦朧とする頭で、必死に最善を考える。
「ガ……ゥ……」
(早く――早く、声帯だけを優先して回復させて――)
立ち上がる力すらないまま寝そべって必死に頭を巡らすと、やや霞む視界に、ナツメを追い詰めようとしているシュサが目に入る。
(お願い――早く――あたしの、もう一つの戒の発動条件は――)
施設を出てからは、もう二度とつかわないと決めていた、力。
赤狼として生きていくことを決めたとき、封じた力。
他者を治癒する<狼>に――他者を傷つける力は要らないと、捨てた力。
「あんたは初めましてだからね。残念。<月飼い>に生まれたことを後悔しな」
ヴン……
シュサの軽く掲げた右手に、不可視の力が宿るのと。
「ガァッ!!!」
マシロの喉から獣の鋭い咆哮がほとばしるのは、同時だった。
「――――――!?」
ヒュンッ ヒュンッ
マシロの咆哮に驚いたシュサがとっさに振り返るのと、二つのかまいたちのような刃が迫るのは同時だった。
一つは、シュサの右手に。
もう一つは――ナツメの首元に。
「ぉっ…とぉ!」
危なげなく飛び退ってそれをよけたシュサは、横たわったままかまいたちを生んだマシロを見て、愉快そうに口の端を吊り上げる。
「忘れてた!そういやあんた、そんなのも出来たね!」
嬉しそうに、楽しそうに。
高揚した笑顔で言ってのける姉に戦慄しながら、ゆらり、と立ち上がる。――戒を放った時に変身したままの、獣型で。
ぉぉおおおおおおおおおお
「ん?」
空に向かって吠えたマシロに、再び不可視の刃が来るかと思ったのか、シュサは一瞬身構えてから、様子がおかしいことに気づく。
「――――あぁ。なるほど、かしこいね。さすがあたしの妹」
チラリ、とある方向を見やった後に口の中でつぶやいて、足元を見る。そこには、マシロのかまいたちによって切り離されたナツメの首元から跳ね飛ばされた夜水晶が転がっていた。
ナツメ自身は、胸元を切り裂かれて出血し、気を失っているようだが、そもそもマシロの戒は殺傷能力が高くない。驚いて気を失っただけで、命に別状があるようなことはないだろう。
「水晶はやるから撤退してくれ――ってとこかな?愛しい妹の主張としては」
「グ……グルルルル……」
「あははっ……そっか、施設の<狼>は、獣型じゃ喋れないんだっけ。所詮まがい物だもんね」
マシロの灰狼としての戒の発動条件は、獣型の咆哮。人型で行使できないという最大の欠陥が、『失敗作』のレッテルを張られて廃棄されるに至った理由だ。
「ま、いいよ。久しぶりに会った妹の頼みだからね。アンタに免じて、言うとおりにしてあげる。――あたし一人で怖い怖い<狼>さんと事を構える気はないしね」
ひょいっと肩をすくめてから、足元の夜水晶を拾い上げる。
「じゃあね、マシロ。今度こそ、さよならかな。――達者で暮らしなよ?」
懐かしい表情で姉が微笑むのと――
「ガァッ!」
ヴォンッ
獣型のクロエが全速力で広場に飛び込んできてシュサへと不可視の刃を放つのはほぼ同時だった。
マシロの戒も、シュサの戒も、鼻で嗤い飛ばしたくなるくらいの、規格外の殺傷能力を持った刃が最速で迫る。
とても、視認して避けられるようなものではないそれを――シュサは、あっさりと避けて見せた。
ふぉんっ…
「「――――!」」
マシロとクロエが、同時に息を飲む。
軽く視線を遠くへ投げたと思ったシュサの姿が――掻き消えたのだ。
そして、すぐに先ほど視線を投げたあたり、少し離れた場所へと姿を現す。
(やっぱり――あれは!)
「白狼――だと――!?」
クロエの驚愕の声が響くのと。
「じゃ。――まったね~」
のんきで軽薄な声が響いて、片手を振ったシュサが踵を返し、再び空間転移によって姿を消す。
しん……と一瞬、不気味な沈黙が下りる。
(お姉ちゃんは、群れにいたとき、普通に赤狼の戒を使ってた。――ってことは……赤狼の戒も、灰狼の戒も、白狼の戒も、使えるってこと……!?)
信じられない思いで、考え事をしながら獣型から人型に戻ると、広場にクロエの悲痛な声が響いた。
「ナツメっっ!!!」
人型で移動しても大して変わらないだろう距離を、焦ったのか少しでも早くと気が急いたのか、獣型のままで流血して気を失っているナツメのもとまで距離を詰め、瞬き一つで人型に戻ってナツメを抱え起こすと、すぐさまその息を確かめる。
「マシロ!!」
「わかってるわよ……大丈夫、命に別状はないわ。……っていうか、あたしの方が数倍致命傷……ちょっと回復させて……」
怒号に近いクロエの必死な声音に、人型に戻ったマシロは呆れたような声でうめき、その場に座り込む。傷を負った瞬間から治癒を開始したからよかったものの、もしも一瞬遅れていたら、かなり危うかっただろう。
チッと離れた距離でも聞こえるくらいに大きく舌打ちした後、ナツメを抱えたままマシロのもとまで急いでやってくる灰狼は、最強の名高いくせに、驚くほどに取り乱している。
「さすが番……いいわね、めちゃくちゃ愛されてて……」
「ぁあ!?」
「何でもない。ちょっと、今、血が足りなくて頭回ってないのかも」
完全に子供にちょっかいを掛けられて怒り狂っている母熊状態のクロエがうるさいので、自分の最低限の治癒を終えてすぐにナツメの治癒に取り掛かる。
「おい、あいつはなんだ。――白狼か?北の果てにいるはずのそれが、どうしてここにいる?」
「さぁ……あたしにもわかんないわ。でも、赤狼と、灰狼と、白狼の戒を使えるみたいよ」
黒狼が使えたらコンプリートね、と口の中で頭が痛くなるような皮肉をお見舞いする。マシロの言葉に怪訝な顔をするクロエを置いて、ナツメの胸元に静かに手をかざすと、ヴウヴヴ……と羽虫が羽ばたくような微かな音を立てて、淡い光が闇夜に浮かんだ。――治癒の戒の発動。
「でも――ごめんなさい。あたしも、ナツメも、夜水晶を奪われたわ」
「……ナツメの命が無事なら、いい」
「ははは……ぶれないなぁ、クロくんは。――グレイが聞いたら、怒るよきっと」
「知るか。――あいつも、番が出来たら俺の気持ちがわかるだろう」
「そぉ?……あたし、自分がグレイの番になれても、グレイは有事の際にはあっさりあたしを切り捨てて<狼>の未来を優先させそうって思っちゃうわ」
ふっと鼻で嗤ってつぶやく。
優しくて、懐が大きくて――それでいて、<狼>の種の存続のためなら、どこまでも非情になれる男だ。
どれだけ「あなたのために」と女が尽くそうと、決して最後はその心に、本音に触れさせてもらえない、そんな男だ。
「クロくん、グレイに報告しましょ。……ここまでくると、もう、あたしたちだけじゃ判断できないわ。……あの人が黒幕なら、太刀打ちできるのはグレイくらいでしょうし」
夜水晶を使って北の集落にたどり着く術を考えたのは、マシロ以上の頭脳の持ち主だと仮定したが――シュサが敵にいたとすれば、納得だ。彼女なら、様々な事象から仮定して、それくらいのことは思いつくだろう。
(お姉ちゃんは、あたしが夜水晶を持ってることを「言いつけ守って」って言ってた。じゃあ――この計画は、もしかして、あの十年前から仕組まれていたこと……?)
一度、自分が死んだと思わせれば、群れに縛られることもなく自由に動くことが可能になる。また、仮にマシロより頭が回るものが犯人だという仮定にたどり着いたとて、死者と認識されているなら、容疑者からは外されるだろう。シュサであれば、大いに考えそうなことだ、と苦い気持ちでうめく。
「西の水晶がすでに敵の手にわたっているとしたら――グレイが守ってる<月飼い>が持ってる夜水晶が心配だわ。すぐに、知らせないと」
「あぁ」
ナツメの出血が止まり、穏やかな顔色になったことを確認してから、クロエは短く頷いて獣型へと変貌する。
月のない闇夜に、力強い<狼>の咆哮が一つ、轟いた。