お姉ちゃん②
まるで、燃え盛るような緋色の髪が印象的な女だった。
眼鏡をかけた奥の眼光鋭い瞳は、不思議な魅力を宿す、左だけで光るたった一つの紅。右目は潰れてしまっているけれど『申し子』としての能力と引き換えだったと言われれば、片方の視力だけで得難いギフトを得られたことに感謝すべきと言えるだろう。
<狼>の癖に、『人間』に興味を持って彼らの生態を研究し、彼らの嗜好品などを積極的に取り入れる、誰から見ても明らかな変わり者。<狼>ならその匂いの強烈さに顔を顰める煙草も酒も、「これを知らないなんて損してるよなぁ」なんてニヤリと皮肉っぽく笑いながら嗜む、そんな変わり種。
それでも、集団行動が当たり前の<狼>の群れにおいて、そんな変わり種がいつだって輪の中心にいるのは、不思議で仕方なかった。
「シュサ…せめて集まりの場に来る前の一時間はあの煙たい草を吸って来ないで」
「お?おー。ごめんごめん」
女でありながら、歴代でも五本の指に入るほどの優秀な族長だと褒めたたえられたレシフェ・アスマンと、無二の親友だったことも、その人望の理由だったのかもしれない。
「お姉ちゃん」
呼びかけると、にやり、と笑いながら振り向いてくれた。「マシロは鼻が利かないから、煙草も酒も嫌な顔をされなくていいねぇ」なんて、家では咥え煙草のまま笑っていた。
施設から抜け出して、ぼろ雑巾よりもみすぼらしい格好で森に倒れていた『訳アリ』のマシロを助けたのは、その群れきっての変わり者――シュサ・アールデルスその人だった。
あまりに酷い怪我だったので、友人でもあるレシフェの家に運び込み、戒で治療を施した。――シュサは、『申し子』とはいえ、赤狼の戒の能力は人並み程度しかもっていなかったからだ。
「ゲームでもする?」
酒瓶片手に咥え煙草で、夜中に上機嫌で時々持ってくるのは、『人間』が開発したとかいうボードゲーム。チェス、とかいうやつらしい。思考を鍛えるのにいいよ、なんて年長者らしい口ぶりで言うくせに、負けず嫌いなのか、一度だって勝たせてもらえなかった。悔しくて悔しくて、何度も挑んだけれど、さすが『申し子』。片目の代償にと得たギフトは、試験管で造られたまがい物の能力をやすやすと超越していた。
年齢を聞いたら、「レディに歳を聞くなって習わなかったのかい」と本気で怒られた。ゲームで勝たせてくれない大人げなさをレシフェに告げ口すると、小言を言われて辟易した顔をしながらも少し楽しそうだった。おいしいお肉を手に入れたとき、譲ってくれるなんてことは全然なくて、どっちの塊が大きいかというくだらないことで口喧嘩するのだって、しょっちゅうだった。
それでも、悪夢にうなされ、眠れない夜は、「お子様だねぇ」などと小ばかにしたように言うくせに、煙草をふかしながらのんびり優しく頭を撫でてくれた。
群れに来たばかりで人見知りを発揮していたマシロが、少しずつ群れに溶け込んでいく様子を見て、その一つしかない瞳を優しく緩ませていた。
「あんたが、族長を継ぐんだ、マシロ」
集落を捨てて、険しい山道を必死に逃げまどう中で、両肩をつかまれて、今まで見たことないくらいに真剣な顔で言われた。
鼻の利かないマシロにはわからなかったが――後方で、レシフェたちが生きてはいないだろうことを、その血臭で悟ったのかもしれない。
「ヒトと通じたのは、<月飼い>の奴らだ。あんたが族長になったら、あいつらから、すぐに夜水晶を取り上げて」
「え――?お、お姉ちゃん?な、なんで……?どうして――」
「族長になれば、わかる。夜水晶がどれだけ大事なものか――ヒトに渡ったら、どれだけ危険なものか」
ぎゅっと痛いくらいに握られた両肩に、シュサの想いが載っていた。
「今、逃げまどってるこの赤狼を、全部まとめるのはあんただ。マシロが、まとめ上げて、逃げるんだ、いいね!?」
「な――ど、どう――」
「レシフェは、もういない!あんたが、やるんだ!次の族長を!レシフェの――散っていった<狼>たちの――あたしの想いを受け継いで、あんたが!」
「ま――待って、お姉ちゃん!」
引き留める間もなく、くるりとシュサは踵を返して走り出した。
見ると、遠くの陰から、<狼>もどきが姿を現したところだった。
「お姉ちゃ――」
「行くよ!マシロちゃん!」
引っ張り上げられるようにして、仲間の赤狼に手を引かれる。
「待って!お姉ちゃん!お姉ちゃんが――!」
必死に振り返ったその先で――
「お姉ちゃん――――!!!」
首筋から尋常ではない血潮を吹き出して、力なく崩れ落ちていく、姉の姿が見えた――
風の音も聞こえない、無音の夜の闇。
その中に響いた――死者の、声。
「おや?……ひっどいねぇ。まさか、たった十年で忘れちゃった?――"お姉ちゃん"の声を」
信じられない気持ちで、ゆっくりと頭を巡らすようにして声が聞こえた方を振り返る。
月明りのない夜でも目を引く、炎のような緋色の髪の、長身がそこに佇んでいた。
「お……お姉…ちゃん……?」
「お。覚えててくれた?よかったー」
軽薄極まりない口調も。
口の端に引っ掛けるようにしてピコピコ揺らすように咥え煙草で喋る癖も。
何もかも全部――全部、記憶の中の"姉"と相違がなかった。
「お姉ちゃん――――!」
ぶわっと涙が盛り上がり、夢中で駆け出す。迷うことなく、その長身の胸へと飛び込んだ。
「お姉ちゃん!お姉ちゃん!お姉ちゃん!」
「おー。何々、カンドーの再会?嬉しいねぇ」
ポンポン、と軽く背中を叩いて茶化すのは、いつものシュサだった。
「な、なんでっ!?どうして――し、死んじゃった、はずじゃ――」
「ふふん。そう簡単にはくたばらないよ、オネェサンは」
にやり、と笑うと同時に煙草から立ち上る紫煙が揺れた。
(あぁ――もう、なんでもいい――)
今、ここに、逢いたくて会いたくてたまらなかった、十年ずっと焦がれた人がいる。
その事実だけで、もう、何も要らなかった。
「……お?えらいじゃん、マシロ。ちゃんと、言いつけ守って夜水晶手に入れたんだ?」
くぃ、と首元の飾りを手に取って言われ、涙をぬぐって頷く。
「うん……!本当に、これが施設の奴らの手に渡ったら危ないところだった……!」
「そうねぇ……じゃあ、マシロ」
シュサは、咥え煙草のまま、世間話の延長のような気軽さで口を開く。
「その夜水晶――あたしに頂戴?」