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西の黒狼④

 西の黒狼の群れにたどり着いたのは、万物を赤々と燃やすような茜色の斜陽が西の奥の険しい山脈の向こう側へと隠れていき、世界の全てが薄紫色の沼へと沈んだころだった。

 グレイがハーティアを慮り、少しスピードを落として、時折休憩しながら向かったため、到着は予想よりもだいぶ遅くなってしまった。

「群れの外れに宿を用意したから、グレイはそこで寝るといいよ。――その子も、一緒でいいよね?」

「あぁ。構わん」

「あっそ。じゃあ、僕は自分の家に戻るから」

 そういって、セスナはくるりとあっさり踵を返した。おやすみ、のあいさつの一言もないのは、彼らしいといえばそうなのかもしれない。

「あの……グレイ」

 おずおずと、青年の姿に戻ったグレイに声をかけると、いつもの穏やかな笑みが振り返った。

「……さぁ、ティア。疲れただろう。今日はゆっくり休め」

「…………うん」

 ハーティアはうなずいて、グレイの後ろに続いて歩き出す。

 インク壺を水に浸したときのような薄藍色の世界は徐々に色を濃くしていき、世の中が漆黒の闇に沈むまであと少しだった――



 宿は、群れの外れにある一軒家だった。まるっと一軒を貸し切りになっているらしい。

 到着してすぐにお互いにシャワーを交代で浴びた後――グレイが過保護を発揮させて、北の集落に張っていたという戒による転移の結界を浴室と脱衣所に張り巡らせるという念の入れ方に呆れたが――二人で寝室へと向かう。

「……ふむ。今日は添い寝はいらんのか?」

「だっ……だだだ、大丈夫っ…!」

 つい、今朝目覚めたときの、至近距離にあった美しい寝顔を思い出してしまい、かぁっと真っ赤になって辞退すると、くっくっ、とグレイは面白そうに声を上げて笑った。相変わらず、感情表現が豊かな長老だ。

「心配しなくとも、お前を取って食ったりはせん。物理的な意味はもちろん――そういう意味でも」

「っ――!」

「第一、今は繁殖期でもないしな」

 飄々と言ってのけるグレイは、相変わらずデリカシーが皆無だ。かぁぁっとさらに頬を染め上げるハーティアに苦笑を漏らし、ベッドへと促す。

「で、でも……クロエさんと、ナツメさんは、その――」

「あぁ。あいつらのあれは、単純に愛情を示し合う延長線上の行為だ。繁殖のためのそれではない」

「えぇ!?」

「<狼>には一年のうちに明確に繁殖期がある。季節で言えば、だいたい、晩冬あたりか。……それ以外の季節でそういう行為をしても、子供は生まれん」

「そ……そうなの……?」

「番相手でもなければ、繁殖期以外に行為をしたいとすら思わん。クロエのように繁殖期以外でも所かまわず盛っているのは、あれは単純に番への愛情を示しているだけだ」

「そ、それは……でも、ナツメさんはもともと人間だから――」

「関係ない。<狼>側に、繁殖期以外は子種が造られんのかもしれんな。詳しいことはマシロにでも聞けばわかると思うが」

「い、いいいいいや、大丈夫です…」

 人間とどこまでも異なる生態に面喰いながら、もごもごと辞退する。

「まぁ……あいつらのあの見境ない行為のおかげで、混血児は必ず発病すると思われていた妖狼病が、実は八割の可能性でしかなく、二割は存命する可能性があるのだとわかったのは、種にとっては大きな進歩だったが」

「え――こ、こここ子供、いるんですか……!?」

「?……当たり前だろう。クロエが今のナツメと番になってもう三十年近くなる。繁殖期でもないのに所構わず盛る男が、どうして一番発情する時期に繁殖行為をしないと思うのだ?」

「いっ、いやっ……あの、そのっ……」

 デリカシー皆無な話題に、目を泳がせるハーティアのことなど構わず、グレイは不思議そうな顔をしている。

「クロエはああいう男だから、子供が妖狼病にかかるからと言って、一年で一番発情する時期にナツメと繁殖行為を控えるなどという性格はしていない。結果、不幸な子供を産んでしまったことは事実だが――二割が存命するというところに着目したマシロが、その二割と発症する八割との違いを調べ、黒狼の呪いに打ち勝つ術がないかの研究を始めた。最初は咳の症状を抑える薬を――そのうち、少しずつ、二十年以上生きられるような存命効果のある薬を」

「あ……そ、それが、この前言っていた――」

「そうだ。幸か不幸か、治験体は、毎年クロエとナツメが量産してくれる。通常ならばもっと時間がかかるらしいが、恐るべきスピードで研究は進んだ。……さすがにまだ、<狼>と同じ平均寿命まで生きられるほどにはなってないが、次の試薬がうまくいけば、百年くらい――人間と同じくらいは生きられるのではないか、と言われている。そのうち、薬を定期的に摂取し続けねばならないという面倒はあるだろうが、症状もないままに<狼>と同等の寿命を持てるようになる未来も来るだろう。ぜひともマシロには、その研究を完成させてから寿命を迎えてほしいものだ」

 優しい顔で言うグレイは、群れのすべての命を『子供』と称す時の、親のような慈愛に満ちた表情だった。

(本当に、<狼>全部が――混血まで含めて、全部の<狼>が、愛しいんだなぁ……)

 長としての鑑とも言うべきその心根に触れて、じんわりとハーティアの胸が温かくなる。

「あの、ぐ、グレイ……昼間聞いた、セスナさんの話だけど――」

「あぁ……あれか。……すまない、ティア。悪いが、他の族長には黙っていてやってくれないか」

「え……あ、う、うん、それはもちろん大丈夫だけど――」

「助かる。……族長と群れの<狼>の間に確執があるなど、セスナとしても知られたくはないだろう。あまり、愉快な話でもないしな」

「う、うん」

 こくり、と頷いてそっと布団を引き上げる。

「でも――もし、黒狼さんたちが、本当に――」

「灰狼が言っていた接触者の話か。……私の治世に不満を持っている、だったか。どうにも、難しいな。千年経とうと、これだけの<狼>全員を、何一つ不満がないようにまとめ上げるのは、やはり難解だ」

 鼻の頭にしわを寄せた後、苦笑の中にそれを押し込めてしまう。――彼にしかわからぬ苦悩がたくさんあるのだろう。

「私以外にふさわしい<狼>がいて、それに託すことが出来るのであれば、退くことはやぶさかではないのだがな」

「えっ!?」

「私が望んでいるのは、始祖が望んだ<狼>という種族の永続的な繫栄だ。それを実現するのに私が長としてふさわしくないというなら、いつでも退く。白狼の群れを隔離したのもそれが目的だと言わなかったか?」

「ぁ……」

 あっさりと言ってのけるグレイに、千年樹のほとりの建物で聞いた話がよみがえった。

「だが――<月飼い>を襲い、夜水晶を手に入れようとする手法をとるような輩には、とても譲ることは出来んがな」

 苦笑して、ハーティアを安心させるようにぽんぽん、と布団の上から軽く撫でる。

「うん……私は、グレイに、長でいてほしい」

「……そうか」

「うん。――あ、そ、そうだ」

 ハーティアは思い出したように声を上げて、胸から水晶飾りを引っ張り出す。――眠るときも片時も肌身離さないそれは、月のない夜空を思わせる漆黒の色をきらめかせていた。

「これ、グレイが持っててくれた方がいいんじゃないかな」

「?」

「その……これが、敵の手に渡ったら、大変なことになるんでしょう?私が持ってるより、グレイが持っててくれた方が、ずっと安全だと思うんだけど――」

 布団の中から伺うようにチラリと顔を上げると、グレイは苦い顔で微笑を刻んだ。

 そのまま、制すように水晶飾りを持つハーティアの手を抑え、布団の中へと再びしまう。

「グレイ……?」

「お前の言わんとすることはわかるが、それは出来ない」

 ふるふる、と緩く頭を振られて、ハーティアは困惑する。

 グレイは苦笑を痛ましい表情へと塗り替えた。

「私とて――本当は、お前にそんなものを持たせておきたくはない」

「ぇ――」

「それを持っているだけで、お前は敵に狙われる可能性が格段に高くなる。――お前の、命が、危険にさらされる」

 ドキン……

 痛ましげにゆがんだ黄金の色が切なくて、一瞬心臓が大きく跳ねた。

「だが、私が持つわけにはいかない。夜水晶が<狼>に力を与えるのは――<狼>の血に濡れた時だからだ」

「え――」

 大きく瑠璃色の瞳を見開いてグレイを見上げる。グレイは、哀しそうな瞳で、水晶を眺めた。

「始祖の、祈りだったのだろうと思う。先の大戦で、<狼>がヒトに押し込められて――たくさんの<狼>の血が流れた。絶体絶命に陥る前に、<夜>が力を発揮するように――哀しみを力に変えるために、同胞の血で、夜水晶は<狼>へと力を貸す。圧倒的な、戒の力を」

「――――……」

「お前の集落に伝わっていた絵本と同じだ。月は、夜水晶。<夜>の涙で――同胞を失った哀しみと共に、同胞から流れた血だまりで、所有する<狼>へと力を与える。どんどん小さくなっていっても、その血だまりに浸すたびに、力を蓄え、<狼>の咆哮――断末魔で、再び元の姿を取り戻す」

 ドクン……ドクン……

「私が持っていては――襲撃者が、施設の<狼>もどきだったとしても、本当の<狼>の反逆者だったとしても――相手を返り討ちにするたびに、その水晶に血を吸わせてしまう。……大丈夫だ。私はそんな力などなくても、十分に強い。そんな、哀しい力は、要らない」

「――――――」

 ハーティアは再び明かされた絵本の真実を知り、顔を青ざめさせ――

(――――あれ――?)

 ――――何か。

 何か、おかしい気がする。

 今まで聞いてきた、グレイの話。

 そのすべてをつなぎ合わせたとき――――何か、違和感が――

「……話し過ぎたな。もう寝ろ、ティア。明日は朝から緊張の連続だ。今のうちにしっかり眠って、英気を養っておけ」

「う、うん……」

 瞼に手を置かれて半ば無理やり瞳を閉じられ、ハーティアは大人しく頷く。

 ――何か、何か。

 何かを、見落としてはいないか。

 瞳を閉じた漆黒の世界の中で、思考がぐるぐるとめぐり――答えが出る前に、いつの間にか眠りへと落ちていった。


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