西の黒狼③
さわさわと木々が吹き抜ける風に遊ばれて葉をざわめかせる音を聞く。ぎゅ……と胸の飾りを握り締めたままうつむいているハーティアに、グレイは静かに声をかけた。
「そう緊張するな。――大丈夫だ。私の傍から離れさえしなければ、お前も、お前のその夜水晶も、必ず守り通す」
「ぅ、うん……」
さら、と幼子を安心させるようにして、優しく黄金の糸を思わせる髪を優しく撫でられ、ハーティアは小さく心を落ち着けるようにして深呼吸する。
その様子に、片眼鏡の痩せた<狼>が顔を上げて皮肉に顔を歪ませる。
「何?お互いに信じ合うことにしたんじゃなかったっけ?――もしかして僕も、黒狼も、まだ疑われてるのかな」
「……違う。――黒狼は、他の<狼>と違い、夜水晶の使い方を知っているものが多い、とマシロが伝えた。それで、責任感の強い私の『月の子』はこうして残された使命に燃えているだけだ。お前たちがどうのこうの、という話ではない」
「へぇ?じゃあ、過去のことも聞いたんだ?――ねぇグレイ、どこまで知ってるの、その子」
片頬を嫌味に歪める表情は、どこか仄暗さを感じさせる。
グレイは少し迷うように瞳を揺らしてから、静かに口を開いた。
「過去――黒狼から、『反逆者』が出て、西の夜水晶を使って混乱をもたらした。それを封じるために、結果として、妖狼病が生まれた。その混乱のさなかにあった黒狼たちは、夜水晶の使い方を知っている――と、それだけだ」
「……ふぅん。なるほど。『反逆者』ね……」
セスナは意味深に口の中でつぶやいてから、ふっと口の端に笑みを刻む。
「なんだ。てっきり、僕の過去とかも話しているのかと思った」
「……必要であれば話すが。特に必要でなければ、話す必要はないだろう。……お前としても、不必要に吹聴したいような愉快な過去でもあるまい」
「ははっ……グレイは優しいね。でも、お気遣いは無用だよ。僕はもう、過去をちゃんと受け止めて、歩き出してる。……それより、その子が大事なら、ちゃんと話しておくべきじゃないかな。――僕が、五十年位前から、群れの連中に遠巻きにされてるってこと」
「ぇ――」
驚きに目を見張るハーティアには構わず、グレイは静かにセスナを見つめる。
「……言っているだろう。――必要でないことは、言わなくていい」
「大丈夫だよ。『余計なこと』は言わないから」
意味ありげにニヤリと笑った後、セスナはハーティアへと視線を投げた。片眼鏡を上げて、いつもの皮肉気な形に口を吊り上げる。
「僕ら黒狼は、戒の性質も相まって、始祖狼や<朝><夜>に一番近い存在だと自負している、というのは知ってるかい?」
こくり、とハーティアがうなずくと、セスナは満足そうに笑って続けた。
「そう。……だからか、伝統とか昔からの慣習とか、血の繋がりとかをすごく気にする。少しでも始祖の意を汲んで、後世へとつないでいくために。……そんな感じの、昔ながらの集落だから、未だに根強い慣習が一つある」
「慣習……?」
「そう。――群れに双子が生まれたら、片方を子供のころに群れの外れの石牢の中に閉じ込めて、死ぬまで閉じ込める、っていう慣習だ」
「――――!?」
驚きのあまり弾かれたようにハーティアが顔を上げる。セスナは、どうということもなさそうな顔でそれを見てから、言葉を続けた。
「理由は簡単だよ。――双子は、いつか、千年樹の花が咲いたときに、<夜>が復活したときの"器"だと考えられているんだ」
「う……器……?」
「君、バカじゃないよね?――まさか、千年以上も経ってて、昔の肉体が腐らずに保存されてるとでも思ってる?」
セスナの皮肉に、ハッと息を飲んでから、慌ててフルフルと頭を振って否定する。
「そもそも、<朝>と<夜>も双子だった。だから――双子が生まれたら、しばらくは普通に育てるんだけど、戒が使えるころになったら石牢に片方を閉じ込める。――<夜>の伝説にのっとって、不出来な方を、ね」
ごくり……と喉が鳴る。グレイは、口をはさむことなく静かにセスナをじっと見つめていた。
セスナは片眼鏡を押し上げて、少し遠いところを望むように顔を上げた。
「そして、僕は――双子で生まれた。弟の名前は、セルン・ラウンジール。少しの間一緒に暮らして――弟が、ある日突然、石牢に閉じ込められた」
「――――……」
「閉じ込められた、なんて言ってるけど、あの<夜>の"器"になれるなんて、本来光栄なことだろう?群れでもそういう扱いだよ。神聖なものとして、隔離して、安全に育ててる、っていう認識。だけど――幼い愚かな僕は、それを、"可哀想"だと思ってしまったんだ。無知って怖いよね」
ふ……と笑みが少し昏くなる。それは、自嘲の笑みにも見えた。
「<夜>の"器"だからね。それはそれは大事に育てられてたよ。どれくらいかっていうと――石牢には誰一人近寄らない、っていうくらい」
「ぇ――?」
「毎日、食事係によって食事だけが運ばれてくるんだ。群れからはかなり離れているところにあるから、冷え切ったまっずい飯が、ね。……その食事係以外との接触は、基本的にない。群れの中では、その石牢に行くことは禁じられてたからね。生涯ずっと――死ぬまでずっと、その冷たい牢の中で、ただ、何も生み出すこともなく、まずい食事をして、ただ息をしている。それだけの人生だ」
「……そんな――…」
「僕は、そんな弟を――哀れに思った。だって、ついこの間までは、普通に会話を交わしていた相手だったわけだからね。それに、腐っても血を分けた片割れだ。だから――こっそり、大人たちの目を盗んでは、時々様子を見に行った。少しでも弟の孤独を埋めようと、たくさん話しかけたんだ」
そして、セスナは昏い笑みをさらに歪める。テノールが、いつもより少し低く響いた。
「僕としては、可哀想な弟の少しでも救いになれば――と思ってしたことだったんだけど。どうやら、弟は、そうは思ってくれなかったみたいだ」
「え――ど、どうして……!?」
ハーティアは、思わず身を乗り出して尋ねる。
セスナからの話を聞いているだけの身からすれば、客観的に見て、セスナが弟のセルンを気に掛けるのは当然としか思えない。そして、それは哀れにも妙な慣習に意図せず巻き込まれた弟にとって、唯一の救いとなるであろうと――
「君は愛されて育ってきたんだろうね。人を疑うことを知らない。……ねぇ、ちゃんとセルンの身になって考えてよ」
セスナの瞳に、昏い光が宿る。いつものテノールが、もう一段階低くなった。
「自分と一緒に生まれた、ついこの前まで変わらない待遇だった片割れは――毎日、温かい部屋で、両親や友人に囲まれて、幸せな日々を送っているんだよ?そいつは、屋外に造られた石牢で、一晩だって過ごしたことはない。吹きすさぶ風に肩をすぼめることも、雨の日に泥水が溜まった石畳の上で眠ることも、雪が降って芯まで凍えることも、知らない。あたたかくて、天気がいい日の昼間、時折気まぐれのようにやってきて、『可哀想』というレッテルを張りながら、救いの手を差し伸べる優しい自分に酔ってるんだ。雨が降れば、雪が降れば、そいつは来ない。セルンのため――そんなことを言ってるくせに、やってることだけ見れば、心の底では弟を見下してるようにしか見えないだろう?」
「そ、そんな――――」
「別に、そいつが温かい食事を持ってきてくれるわけでもない。当時の族長に――そいつの両親に言って、可哀想だから出してやれと、こんな慣習はおかしいと、直談判してくれるわけでもない。ただ、手ぶらでやってきて、何の腹の足しにもならない”お話”だけをして帰っていくんだ。――そりゃぁ、受け入れられるわけ、ないよね」
「――――――…」
ニィ……と過去のセスナを嘲笑うかのように彼の口が吊り上がる。昏い昏い、不気味な、笑み。
「だけど、馬鹿で愚かな僕は、そんな弟の気持ちになんかまったく気づかなかった。君と一緒だよ。両親にも周囲の友人知人にも愛されて育った僕には、そんなこと、想像出来るはずもなかった。――もちろん最初、弟は思い切り罵ってきたよ。まったく心を開いてくれなかったけれど、僕は懲りずにずっと通い続けた。そして――何十年が経った頃かな。徐々に、セルンの態度が軟化してきたんだ」
「ぇ――」
「僕は嬉しかった。やっと、通い詰めた結果が出た――そう、思ったよ。血を分けた大事な大事な僕の片割れだ。何十年もかかってしまったけれど、それでも、真心を込めてあきらめず接し続けた甲斐があった――そう、思った」
「…………よ……よかった、じゃ、ないですか…」
小さく言葉を紡ぐと、ハッとセスナは鼻で嗤った。
「君は、本当にお人よしだね。何度も言わせないでくれよ。――君がセルンだったら、どう?態度を軟化なんてさせる?」
「…………い……いいえ……」
「じゃあ、それでも態度を軟化させた理由は?――当然、そこには、打算があってしかるべきだ」
セスナはハハッと笑いながら言葉を紡ぐ。
いつもの皮肉気な笑みではなく――どこか、壊れたような、狂気をはらんだ、笑み。
「簡単なことさ。愚かな兄を、だまそうと思ったんだよ」
「――――!」
「心を開いたふりをして、最大限に同情を引いて――哀れな弟を演じきった。兄が、心を動かされるくらいまで、必死に」
「…………」
「そうして、最大限に憐憫を誘った後、ここぞ、という場面で告げるんだ。――――死ぬまでに一度でいいから、石牢の外に出てみたい――ってね」
ハッ……とハーティアが息を飲む。グレイは、静かに黄金の瞳を伏せた。
「それを聞いた愚かな兄は――弟の言葉を真に受けて、人生で一番の大罪を犯した。――弟を、<夜>の"器"を、外に出したんだ。――そしたら、どうなったと思う?」
「ぇ――」
ごくり、と唾を飲んでハーティアはセスナを見た。
セスナはふっと再び昏い光を瞳に宿して、言葉を続けた。
「簡単さ。――何十年もかけて、自分を見下し、コケにし続けてくれた兄を、殺そうとした」
「な――――!」
突然の展開に、驚くハーティアに、セスナは頬をいつもの皮肉気な笑みに歪めた。
「まぁ、そもそも、不出来だからって言って閉じ込められていた弟だからね。――兄に、敵うわけないんだけど」
「え……あ、そ、そっか……」
「そう。――でも、兄は、完全に弟を信じ切っていたからね。急に襲われて、本当にびっくりしたんだ。青天の霹靂だ。……目の前に戒が迫って、そこで初めて気がついて――とっさに、何も考えず、夢中で反撃していた。その結果――――」
一つ、セスナが呼吸をはさむ。
「――――弟は、命を落としてしまった」
「――――っ…!」
痛ましい話に、さっとハーティアが眉根を寄せる。
「そのあとが大変だったよ。<夜>の"器"を殺してしまったわけだからね。もし、次の双子が生まれるまでに千年樹が咲いてしまったら、どうするんだ、っていう話になる。第一、禁じられていたはずの”器”との接触を何十年も続けていたという事実も、石牢から解放しようとしたという事実も、勿論”器”を殺してしまったという事実そのものも、どれをとっても大罪以外の何物でもない」
「ど……どう、なったん……ですか…?」
「ふっ……結果としては、黒狼の『血』を大事にする慣習が守ってくれたよ。僕は当時の族長の息子だった。普通にいけば、族長を継ぐべき<狼>だ。誰かと番っていたわけでもなかったし、血を残してもいない。もし、ここで僕が断罪されたら、族長の直系の血が途絶える。――他の<狼>と違って、直系にこだわる慣習があるからね。……僕自身がすごく反省していたということもあって、仕方なく、僕は次代の族長へと指名された。そして、族長として群れに尽くし続けろと、それが償いだと――そういうことになった」
「――――……」
「ただ――まぁ、僕が大罪を犯したことは事実だ。たかだか五十年位前の話だしね。群れの黒狼の大半は、僕のことを少し白い目で見ているよ。――血を大事にする慣習だから、"器"を殺した、っていうだけじゃなくて、血を分けた弟を殺した、っていうこと自体も、かなり疎まれて見られてる。いくら正当防衛だったと主張しても、ね」
「そ、そんな――でも……」
「まだまだ僕は、償いの途中なんだ。群れの<狼>たちは皆、こいつが本当について行くに値する族長かどうか――罪を償いきっているのかどうかを、ずっと目を光らせて見ている。一応、序列があるから、僕の命令は聞いてくれるけど、クロエみたいに一糸乱れぬ統制の取れた動きが叶うほどの強制力を持つ命令は出来ないし、マシロみたいに群れ全体が僕に協力的なわけでもない。だから――だから、気を付けてね。もし、マシロの言う仮説が外れてて、本当に黒狼の誰かが暗躍してたとしても――僕の言うことを聞いてくれるとは限らないからさ」
にやり、と笑う皮肉気な笑顔は、不気味なくらいにいつも通りで――
ハーティアは、思わず何も言うことが出来ず、ぐっと言葉を飲み込んだのだった。