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西の黒狼②

 出立は、午後――太陽が頭上の天辺を通り過ぎたあたりだった。

 今にも花をつけそうな千年樹の泉のほとりで、全員が集合する。

「では、各自、何かあった時は遠吠えで状況を知らせること。――族長としての責務と良心を忘れるな。以上だ」

 グレイが<狼>の長らしく威厳のある声で宣言すると、全員がこくり、と頷いた。そして、瞬き一つの間に、周囲に四体の<狼>の姿が現れる。

「ぉ……おぉぉ……」

 ハーティアは、思わず感嘆の声を漏らす。

 神々しさすら感じさせる白銀の巨大な<狼>はすでに見慣れたものだったが――そのほかの族長たちは、三者三様、それぞれ特徴的な獣型へと変身していた。

 少し小柄な赤茶色の個体は、おそらくマシロだろう。少し耳が寝ているのは、人型の時の形を連想させた。オッドアイのくりっとした瞳は、美少女だった彼女の面影を残している。

 グレイと対照的な漆黒を塗り固めたような痩せた<狼>は、セスナ。片方だけ灰色に濁った瞳が特徴的だ。他の<狼>よりも毛並みが少し長めなのは、人型の時に髪が長いのが影響しているのか。

 最後の一体はクロエだろう。薄墨色の筋肉質な雄々しい獣姿は、戦闘に特化しているというのも頷ける。目つきが鋭いのは獣型になっても変わらないのか、獰猛な気配を纏い、とても近寄りがたい雰囲気だ。

(どの子も可愛い……とか言ったら、怒られるんだろうな……)

 小柄でくりくりした瞳のマシロはもちろん、獰猛な肉食獣としか表現できないクロエでさえも、猟犬だったルヴィを思い起こさせ、ハーティアの心を鷲掴みにしていた。

「ティア。行くぞ。――そう目を輝かせて族長たちを眺めるな」

 苦笑交じりの声が聞こえて、ハッ……と我に返る。その毛並みに身体をうずめてスヤスヤと眠ってしまった以上、人並外れたイヌ好きというのは、もはやグレイには隠しようもなかった。

 のしっと視界に現れたグレイが背に乗りやすいように腹ばいになってくれる。腹ばいになったとしても視界の殆どを遮ってしまう巨躯はさすがだ。

「ナツメ」

「はい、クロエ」

 さえぎられた視界の先で、いつも通りのやり取りが聞こえる。

(――クロエさんも、腹ばいになったりするんだろうか。ちょっと見たい……)

 他の<狼>よりも鋭い犬歯を持ったぶっきらぼうな獣が、従順に腹ばいになっている姿は貴重だろう。グレイの巨躯をこの時ばかりは少し恨めしく思う。

 この巨体によじ登るのはすでに三回目だ。少しは慣れた足取りで背にまたがると、グレイはゆっくりと立ち上がった。ぎゅっと振り落とされぬようにしっかりと毛並みにしがみつく。――相変わらず、最高の肌触りだ。

 ふと見ると、ナツメはクロエの背に優雅に横座りで乗って、愛し気にさらりと毛並みを撫でている。

(お……大人だ……)

 獣と人間という姿にもかかわらず、濃密な男女の独特の空気を漂わせて入り込めない二人きりの世界を作るその光景に、必死にしがみつく形になっている自分がひどくお子様に思えて、軽くショックを受けていると、様子に気付いたグレイが口を開いた。

「……ふむ。獣型のティアのタイプは、クロエか」

「へっ!?」

「さっきからやたらとじっと見つめているだろう?」

 指摘されて、かぁっと頬に赤みが刺す。

「うわぁ……理解に苦しむね。あんな、近寄ったら骨までガブッと行かれそうな獰猛な獣型が好きだなんて」

「せ、セスナさんも素敵ですよ!?マシロさんも可愛いし――」

「いや、別に嬉しくない」

 呆れかえった半眼でテノールが響く。

「やれやれ。私の『月の子』は生粋のイヌ好きらしい。……だが、見惚れて別れを惜しんでいる暇はないぞ。西の群れまで、日没までに到着せねばならん」

「まったく……せっかくグレイと一緒に移動するのに、わざわざ足で移動させられる羽目になるとは思わなかったよ……」

「あ、ご、ごめんなさい……出発して、大丈夫です」

 ぶつぶつ言うセスナに謝ると、タンッとグレイが軽やかに地面を蹴った。それを追うようにセスナも地を蹴り、背後で二頭の<狼>もまた地を蹴った気配がした。

「怖くないか?ティア」

「あ、う、うん、大丈夫」

「ふむ。……では、もう少し、スピードを上げよう。セスナ、ついてこられるか」

「勿論」

 びゅんっともう一段素早く景色が遠ざかっていく。振り落とされないように必死でしがみつきながら、ちらり、と視線だけで後方を見やると、あっという間に巨大な千年樹が小さくなっていった。



 どれくらいそうして走ったのだろうか。風のようなスピードで、危なげなく森の中を駆けていく二頭は、疲れた素振りなど全く見せない。真昼を過ぎてまぶしい日差しが照り付けているが、森の木々にさえぎられることと、びゅんびゅんと吹きぬけていく風のおかげで、暑さは微塵も感じない。

(でも――ちょ、ちょっと、そろそろ、手が……)

 振り落とされないようにぎゅっと握り締めている両手の握力が限界に達しそうだ。

(でも、日没までに行かなきゃって言って……急いでるみたいだったし……)

 自分のわがままを口に出していいかどうか憚られ、何度も口を開こうとしてはためらい、もう少しだけ、と言い聞かせては踏ん張ってきた。

 だが――さすがにそろそろ、限界が近そうだ。

 ふと、耳の奥でグレイの言葉がよみがえる。

 辛いことも、哀しいことも――グレイには何一つ隠さない、と約束した。

「ぁ――あの、ぐ、グレイ……」

「……ん?何だ、ティア。小用か?」

(ほんっとこの長老はデリカシー皆無……!)

 心の中でツッコミを入れてから、おずおずと口を開く。

「そうじゃなくて――その、えっと……」

「?」

 不思議に思ったグレイが、スピードは落とさぬままハーティアを伺うように、軽く背後を振り返るように首を振り――

「わっ――!」

「っ――ティアっっ!」

 限界に達していた握力では、グレイの仕草と共に揺れた背中にしがみついていられなくなり、ぶんっと慣性の法則に従って空中へと投げ出される。

 グレイの心から焦った珍しい声が響き――

「おっと……!」

 がぶっ……

「ひゃ――!」

 ハーティアは驚きと恐怖で悲鳴を飲み込む。

 すぐ隣を走っていたセスナが気が付き、体を伸ばして飛ばされたハーティアを捕まえたのだ。

 獣型のまま――その、鋭い牙が並ぶ口に咥える形で。

「ティア!」

 焦った声は――予想外に近いところから聞こえた。

「ぐ、グレイ……」

 どうやら、ハーティアが振り落とされたと気づいた瞬間、すぐに飛ばされた先へと転移して受け止めようとしたらしい。人型になったグレイが、先ほどとは真逆の位置で青い顔のまま叫んでいた。

「別に、そんな慌てなくても。――食ったりしないよ、人間なんか。グレイの目の前でこの子を嚙み殺すほど命知らずでもない」

 ゆっくりとグレイの傍にハーティアを下ろしながらセスナの呆れたようなテノールが響く。

(び……びっくりした……食べられたと思った……あ、甘噛み?って、言うのかな……?セスナさんが冷静でいてくれて本当によかった……)

 セスナが焦ってうっかり少しでも顎に力を込めていたら、その鋭い犬歯によって冗談にならないような怪我を負ってしまっていただろう。グレイも、それを懸念したらしい。

 降ろされたハーティアに慌てて駆け寄り、パタパタと身体のいたるところを手で触りながら無事を確かめていく。

「ティア、怪我はないか?大丈夫なのか!?」

「だ、大丈夫だよ。セスナさん、怪我しないように気を遣ってくれたみたい」

「やれやれ。<狼>の頂点に立つ存在ともあろうものが、ずいぶん情けない顔するね」

 嘆息して皮肉をお見舞いしたセスナは、ふっと幻のように自身も人型に戻る。

 グレイはぎゅっと抱き寄せるようにして、なおもハーティアの全身を確認する。腕、肩、背中――髪をかき上げて、首筋までしっかりと。

「ぐ、グレイ……?ほ、本当に、大丈夫だよ……?」

「万が一がある。あぁ――一瞬、本当に、生きた心地がしなかった」

 抱きしめるような形のまま、スンスン、と耳元で鼻を鳴らして、入念に匂いまで確かめてから、本当に無事だということがわかったのか、ほっとした息を吐いて、ぎゅぅっと力強く抱きしめられた。

 急な密着に、ドキン……と心臓が一瞬高鳴る。

「何。――あぁ、もしかして、"事故"でも疑った?」

「……ティアを助けたことに関しては礼を言う。だが――今みたいに、"事故"が起きかねない助け方は二度とするな」

(事故……?)

 尋ねようとするも、グレイの押し殺したようなぞっとする声音に、思わず言葉を音にすることをためらってしまう。

「何だよ、グレイ。まさか――本気で、その女に執着してるわけ?なんで?信じられないんだけど」

「――――私の集落の唯一の生き残りだ。執着くらいする」

「いやいや、意味わかんないよ。仮にそうだとして――"事故"が起きても、別に、グレイは困らないよね。むしろ安心じゃない?」

「私は、ただ、ティアの命が長らえればいいと思っているわけではない。彼女の幸いを願い、途絶えかけた北の集落の者たちの血をつないでいくことを望んでいる。――"事故"でティアを不幸にすることも、血を途絶えさせることも、どちらも望んでおらん」

「……ふぅん……まぁ、いいけど。グレイが誰に執着しようと、僕には関係ないからね」

 ふっ、といつものように皮肉気な笑みを漏らして、セスナは片眼鏡を上げる。

 グレイは、なおもぎゅっと大事そうに一度ハーティアを抱きしめた後、ゆっくりと力を抜いて腕の中の少女へと視線を落とした。

「すまなかった。<狼>の口に咥えられるなど、怖かっただろう」

「あ、う、ううん――だ、大丈夫」

「速度が速すぎたか?走り方が乱暴だったか?……すまない。振り落とすつもりはなかったんだが」

「ち、違うの。その――あ、握力が――」

 ハーティアが慌てて事情を説明すると、グレイはやっと理解したようだ。

「やはり駄目だな。私はどうにも、色々なことに疎い。そこまで気が回らなかった」

「ご、ごめん――」

「いい、謝るな。……少し、休憩していこう。いいな、セスナ」

「ふん……面倒だね、『人間』って」

「ぅ……」

「セスナ。――私を怒らせたいのか」

 いつも通りの絶好調な皮肉をお見舞いするセスナに肩をすぼませたハーティアを見て、グレイが剣呑な声を上げる。セスナは、軽く肩をすくめただけでそれを流した。休憩に付き合ってはくれるらしい。少し離れたところの木陰に腰を下ろした。

(セスナさんが皮肉屋なのは、性格なのかな……それとも、マシロさんが言ってたように、グレイに反発するとしたら黒狼、っていうくらいだから、前提、グレイに心酔しているってわけじゃないのかな……)

 痩せた片眼鏡の男をチラリと見やって、ハーティアは無意識に胸に下がった水晶飾りをぎゅっと握り締めた。


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