西の黒狼①
「これ……いややっぱり動きやすいのはこっちかな」
「あ……ありがとうございます、マシロさん」
大きなクローゼットの中に頭を突っ込みながら、あれこれ服を引っ張り出しては吟味するマシロに、控えめに礼を言う。
各自の出発の前に、有事に備えて、動きやすい服装に着替えていった方がよいのでは、とマシロが言い出したのがつい先ほど。昨日風呂から出た後に着替えとして用意されていたのは、ぺらッとした一枚のワンピースだったので、当然と言えば当然だろう。相変わらずそうしたことにはまったく気の回らない長老は、「ふむ」などと言いながら大人しくマシロの部屋まで連れてきてくれた。着替える、と言ったら少しだけ心配そうな顔をしたが、風呂場の時のように部屋の外で待っていると言って扉の前で待機してくれている。
「あんたのためじゃないわ。グレイのためよ。将来の番が、徹底的に守るって言ってるんだもの。あんた、勝手に死んだら許さないからね」
「は、はい……」
グレイに、マシロを番にする気がないだろうということは、一応当人同士の問題なので黙っておく。もしかしたら、マシロの強烈なアプローチにほだされる未来が、万に一つ、億に一つくらいはあるかもしれない。
ずいっと差し出された衣服を受け取って広げる。マシロとハーティアは、寿命で換算すれば年が近いせいか、体格もほとんど似ていたので――胸の大きさ以外は――服のサイズは問題がなさそうだ。
「でも、千年も昔の盟約を律儀に本気で守り続けるグレイも素敵よね!責任感の強さは、そんじょそこらの<狼>とは比べ物にならないわ」
「は、はぁ……」
「だって、そう思わない?――だって、当時を生きていた存在なんて、もう誰も残ってないのよ。仮に約束を破ったって、それを責めるような輩はいないってことじゃない。それなのに、その誰も覚えていないような盟約に準じて、千年――なかなかできることじゃないわ」
「……そうですね」
キラキラした瞳で耳をピコピコと興奮気味に動かしながら鼻息荒く主張するマシロに、複雑な顔で返事をする。
憧れからグレイに過度な期待をかけて、どんどん彼を孤立させていく悪気のないまなざしに、彼の孤独にほんの少し触れてしまったハーティアは、もう簡単に手放しで同意することは出来なかった。
(グレイが私を守る理由は、盟約というのも勿論あるけれど――たぶん、血をつないでほしいからだ)
北の<月飼い>は、グレイによって周辺から孤立するようにして守られた地に千年守られていた。他の地域の<月飼い>と違い、<狼>との混血は一人も出ていない。純潔の『人間』ばかりだ。混血児が<狼>として他の土地に紛れて血をつないでいるということもあり得ないだろう。
つまり――今、ハーティア以外で、北の<月飼い>の血を継ぐ者は誰もいない、ということになる。
義理堅い、と本人が言っていた通り、グレイは千年前の盟約を――過去、<月飼い>の一族に助けられたという事実に対して、その血を守ることで恩に報いようとしている。おそらく、父も、母も、村の皆も、そしてハーティア自身も、千年前にグレイたちを助けた<月飼い>の誰かの生まれ変わりなのだろう。彼にとって、<月飼い>の集落を守るということはつまり――当時を生きて、直にグレイたちを助けてくれたその恩人そのものを守ることと同義なのだ。
たとえ直接責められることはないとしても、当時、盟約を交わした相手と同じ顔をした同じ性格と同じ声を持った存在が、ずっとそこにあり続けるのだ。
グレイが盟約を忘れないのは、そのせいもあるだろう。
きっと、ハーティアが――彼が守るべき<月飼い>自身が、その事実を知ってしまったのは、かなりのイレギュラーだったはずだ。彼は、誰にもその誓いを打ち明けることなく、かつて交流を深めたであろう恩人たちの前に姿を現すこともなく、もう何百年もずっと、そっと陰からハーティアたち<月飼い>を守り続けてきた。
<狼>の愛は、一途で、重い――
グレイの言葉がよみがえる。
それは、恋愛に限らずとも、広く"愛"という括りでは同じなのかもしれない。
「いい?もし、黒狼の群れであんたが襲われたとしたら――絶対に、その水晶だけは守り通して」
「え……?」
着替えようと服を脱いでいる途中で胸を指されて言われた言葉に、思わず聞き返す。
「黒狼は、<朝>と<夜>のどちらとも縁が深い集落よ。――どちらも、黒狼のもとになった個体だったと聞いているわ」
「…………」
「白狼に――グレイに反発する連中が生まれるとしたら、間違いなく黒狼よ。灰狼は、強さの面で下剋上が起きない限り反旗を翻すことはあり得ない。赤狼は、そもそも穏やかな性格の集まりだし、学術的興味の方に関心があるから、平和な世の中で心行くまで研究を進められる方が大事。<狼>の種族の平和と安寧を築こうとするグレイの方針に文句がある奴なんていないわ。でも――黒狼は、違う。我らこそが始祖の、<夜>の意思を継ぐ者たちだという自負がある。――過去、実際に反逆者が出たこともあったらしいし、ね」
「え――!?」
驚いて聞き返すと、コツコツ、と外から扉が叩かれた。
「マシロ。――まだか」
「うるさいわね、わかってるわ。ちょっと待ってて」
扉の外に叫び返してから、マシロはハーティアに向き直る。
「その時、反逆者は西の<月飼い>の集落から、夜水晶を盗み出して――夜水晶が、<狼>の力を増幅するものであるという事実が、群れ全体に知れ渡った」
「――――!?」
「他の<狼>たちは知らないわ。知っているのは、黒狼と――族長たちだけ」
ごくり、ハーティアは思わず息を飲む。
「考えたらわかることだけどね。<夜>は、その夜水晶を使って、戒を使っていたんでしょう?そのたびに小さくなるという欠点はあったんでしょうけれど。……もし、その事実が施設の連中に知られたとしたら、大変なことになるわ。夜水晶の成分を研究して、何倍も強力な<狼>たちを造り出す、くらいのことはやってのけるでしょうね。――もうすでに、西の水晶が取られている可能性が高いのが、本当に怖いけれど」
「…………」
「その水晶は、力を求める<狼>には、過ぎた代物よ。さすがに、それを手にしたからって簡単にグレイに勝てるってわけではないでしょうけれど――でも、今までグレイが保ってきたパワーバランスが崩れるのは確か。施設の連中に取られるのも言語道断だけど――黒狼にも、取られないでね。厄介なことになるわ」
「そ……それ、は……どういう――」
「念には念を込めて、ってことよ。灰狼に接触してきたという黒狼が、もしも施設の者ではなくて、本物の<狼>だったとしたら――不届き者がもしも黒狼の群れにいたとしたら、夜水晶の効果を知っているなら手に入れようとするはず。……その昔、反逆者がそれを手にして暴走したように、ね」
「そ……その時は、どうしたんですか……」
震える声でハーティアが尋ねる。
統治者として完璧だと思っていたグレイに弓引こうと考えた<狼>がいたなどと、容易には信じられなかった。
「何とか封じたわ。自分たちの群れからそんな反逆者を生み出したことに責任を感じた黒狼たち自身の手で」
「ふ、封じた…?」
「ええ。黒狼の戒は、精神を操るとか言われているけど、本質は――呪いよ。何かの代償を捧げる代わりに、不可能を可能にするのが、黒狼の戒。――何でも好きなように世の中を操れた始祖の万能の魔法に一番近いわね」
着替え終えたハーティアは、マシロに向き直る。マシロは苦笑して言葉を続けた。
「代償は、大規模であればあるほど、不可能を可能にする。その時、反逆者の暴走を封じた代償は――<狼>と<月飼い>の混血児の根絶」
「――――!?」
「そう――妖狼病の発症、よ」
初めてハーティアの中で今まで聞いた話が繋がる。
(そうか――だから、クロエさんは、百五十年前にナツメさんが亡くなったとき、黒狼の族長に問答無用で襲い掛かったんだ――)
妖狼病が問題になって<狼>と<月飼い>が交流を途絶えさせたのが数百年前、ということは、ナツメが死んだときは既に反逆者の事件からはかなり経った後だったはずだが――クロエは、やり場のない怒りを向ける矛先として、黒狼の族長を選んだのだろう。確かに、自分たちの一族の不始末を、それらとは何の関係もない今後生まれて来るすべての混血児の命を以てして収めたのだ。その中には当然――彼が愛した、最愛の女性の命が含まれていた。
傍から見れば逆恨みとも言われかねないが、確かに当事者の怒りの矛先としてはそこくらいにしか向ける先がなかっただろうと推察される。
だからこそ、セスナが最初にクロエを疑ったというのも頷けた。――世界をナツメという愛する女性を中心にして回しているクロエが、黒狼への根深い恨みを持っているのでは、と疑ったのだろう。
「だからグレイを含む昔の族長たちは、中立的な存在の<月飼い>たちに水晶の管理を任せ、水晶の力の秘密は族長だけに密かに伝えられるに留めた。パワーバランスを守るため――不要な争いを生まないために」
「――――」
「だから、あんたは、命に代えてもその水晶を守らなきゃいけない。施設の奴らからも――<狼>の手からも」
ひゅ――と小さく喉の奥が音をたてた。
『この水晶を、後世につなげる、それだけを考えるのよ』
炎の記憶の中で、母が告げた言葉がよみがえる。
(そうだ――それが、私の役目……)
ハーティアは、青い顔をしたまま、こくり、と神妙な顔でしっかりとマシロの顔を見てうなずく。マシロはふっと複雑な笑みをその可愛らしい面に刻んだ。
『人間』が憎い、と言ってはばからなかった少女が見せたその表情に、ハーティアはぎゅっと唇を噛んだあと、意を決して口を開いた。
「――あの、マシロさん」
「ん?何よ」
「マシロさんにとって、その耳――あまり、いい思い出がないものなのかもしれないんですけど」
正直、この話題に触れるのは勇気がいる。
だが――それでもきちんと、伝えたいと思っていた。
「私はやっぱり、すごく可愛いなって思うし、触りたいなって思います」
「――――――は?」
「ふわふわでモフモフで、マシロさんの感情に合わせてピコピコ揺れるのも本当に可愛い」
「は……はぁ?」
「マシロさん自身すごく可愛いし、正直かなりうらやましい。それに――正直、絶望のどん底に落とされたと思って心がささくれ立ってたときに、マシロさんみたいに同い年くらいの女の子と会えて、お話しできて、一緒にお風呂にも入れて、すごくよかったって思っています。――私、あなたと出会えて、よかった。マシロさんのこと、大好きです」
「な……何よ、急に……へ、変な子っ……これだから『人間』って嫌だわ!」
ぷいっと怒ったように顔を背けるマシロの頬は少し赤みがかかっている。感情を素直すぎるくらいに表す耳は、嬉しそうにひくひくと震えていた。
(あぁ――たぶん、マシロさんは、大丈夫だ)
ほっ……と安堵の息を漏らす。
仲間である族長を疑いたくない、といってグレイに恐れず進言した姿。グレイも、それを全て鵜呑みにしたわけではないだろうが、彼女の心意気に免じてその前提で動くと約束した。
だが、ハーティアは何となく悟る。
仮に、もし、哀しい結果があって――族長の誰かが、今回の件に関与していたとしても。
きっと、マシロは、無実だ。
憎んでいると言っていた『人間』の小娘に、まっすぐな好意を向けられて、頬を染めてしまうような、少女なのだ。甘い綺麗事だと一蹴される可能性もあったかもしれないのに――彼女の頭脳でそれが予見できないわけでもなかっただろうに――それでもその甘い綺麗事を信じたい、と千歳を超えるグレイに正面切って進言するくらいの、心根の優しい少女なのだ。
きっと、施設での辛い過去を跳ね返すような――心根がまっすぐ、優しく育つような、赤狼の群れに入ってからの日々があったのだろうと、想像に難くない。
(この人は、信用して大丈夫。――大丈夫だよ、グレイ)
ふわり、と親愛の情を示すように、ハーティアはマシロに向かって笑みを作った。
まるで――歳の近い女友達にする、親しい笑顔だった。