白狼の夢⑤
「ふふ……きっと、ルヴィ、驚くだろうな」
「ぅん?」
「小さいころにね。私、<朝>と<夜>の物語が大好きで――特に、<狼>さんの挿絵が載ってるページが、大好きで」
「……ふむ」
「寝る前に、ベッドで布団にくるまりながら、ルヴィに何度も読み聞かせてたの。ルヴィも大きくなったら<狼>さんみたいにカッコよくなるかな、とか言いながら」
遠い記憶の中の絵本の挿絵を思い出す。
闇夜に浮かぶ、真ん丸な月に向かって、雄々しく咆哮する、美しい獣の姿。
月光にきらめく美しい白銀の毛皮を纏い、巨大な体躯を伸ばすようにして、漆黒の空にぽつんと浮かぶ黄金の光源へと懸命に吠えるその姿は――
「あれって、グレイがモデルだったのかな?」
「?」
「だって、私の家にあったってことは、北の<月飼い>が描いた絵本なんでしょう?じゃぁ――<狼>のイメージとして描くなら、グレイじゃない?」
「人型だったのか?」
「ううん、獣型だったけど。――でも、毛並みは白かったよ。グレイみたいに」
「ふむ。……まぁ、その本がいつ描かれたものか知らんが、どこかで獣型の私を見たことがある者がいたのかもしれんな」
「ふふふ……そっか」
ハーティアは嬉しそうに笑う。親友に、寝物語として聞かせていた絵本のモデルになった<狼>に褒めてもらえたと聞いたら、彼は何というのだろうか。
涙の色が掻き消えたハーティアを見て、グレイは穏やかな視線を胸の中に落とした。
「さぁ、ティア。落ち着いたならもう一度眠るといい。さほど寝られなかっただろう」
「あ……ご、ごめんなさい……さっき、クロエさんと、何かお話してたんだよね……?私が騒いだせいで途中で――」
「いい、気にするな。すでに必要な報告は受け取った。お前が気にすることではない。――せいぜい、セスナとマシロが思いのほか早く帰ってきた二人に頭を抱えるだけだ」
「ふ……ふふっ……」
部屋へと帰ってきたラブラブな番を見て、青い顔をする二人の<狼>の姿を思い描き、可哀そうと思いながらも思わず笑みがこぼれてしまう。
小さく声を漏らすハーティアに、グレイは穏やかな微笑みを返した後、そっと布団の中へと導いてやる。
「お前が眠っている間も、私はここにいる。何者からも、必ず私が守ってやる。だから、安心して眠れ。愛しい『月の子』よ」
「グレイは、眠らないの……?」
視線を巡らせるが、ここに窓はなく、時計らしきものもない。今がいつなのかはわからないが、それでも、昨夜から一睡もしていないのはグレイも一緒のはずだった。
しかし、グレイは笑みを静かに苦笑に変えて、ぽんぽん、と幼子にするようにハーティアが横たわる布団の上から体を軽く叩くようにして撫でただけで、寝所に向かう様子はなかった。
「グレイ……ちゃんと、寝てね……?」
「大丈夫だ。セスナも言っていただろう。――私は、めったに眠らない。眠らずとも、生きていけるのだ。<狼>の長ともなれば、やることもそれなりにあるしな」
「でも、クロエさんは、眠ってたわ。<狼>さんが眠らない、ってわけじゃないんでしょう?」
「まぁそうだが――……ちなみにクロエは規格外だから参考にするな。あいつは<狼>の中でも寝過ぎの部類に入る。ナツメといちゃついている以外は寝ているか戦っているかだ」
女、睡眠、戦闘。それがクロエ・ディールという男のすべてだ、とグレイは鼻の頭にしわを寄せる。そんな顰め面でも、相手への親しみを感じさせるのは、やはり古の盟友と彼が呼ぶ者の魂を持つ者だからなのだろうか。
なおも心配そうな瞳を向けるハーティアに、グレイは苦笑を刻むと、ゆっくりと安心させるように口を開く。
「私は、不老長寿だ。……不死ではない、と思う。死んだことがないから言い切れないのが不安だが」
「――――」
「ではどうすれば死ぬのか、と言えば、わからない。おそらく、首を刎ねられれば死ぬだろうとは思う。……さすがにそれは死にたい。そんな状態で生きているのは苦しいしな」
言いながら、グレイはふっと長い白銀の睫毛を伏せる。いつもの吸い込まれそうな黄金の瞳が見えなくなった。
「痛覚はある。血を流し過ぎれば、気を失う。空腹もあるし、睡眠欲も、ないわけではない」
「じゃ、じゃぁ――」
「だが――他の<狼>みたいに、それらを過度に欠乏したところで、すぐに死ぬわけじゃない。寝なくても、食べなくても、死にはしないんだ。怪我の度合いに関してはさすがにわからんが――まぁ、普通の<狼>よりは頑丈だと思う」
「…………」
「私にとっては食事も、睡眠も、要はただの道楽ということだな」
ふ、と茶目っ気すら感じさせるように、ほんの少し自嘲のこもった笑みを漏らして、ハーティアを見る。
(そんな――)
死なないから、取らなくていい……なんて、そんな――
「それに、言っただろう。――私が『夢』を見たいと思うのは、特別な時だ」
「ぇ……?」
「だから、普段はあまり眠らないようにしている。どうしても、眠らないとやっていられないくらい――『夢』を見たくなるくらいになるまでは」
「――――……」
「睡眠は、私にとってご褒美だ。地獄の底を歩き疲れた時の、とっておきの、ご褒美だ。――だから、気にしなくていい。ゆっくり眠れ」
優しく言ったあと、ふわりと優しい手つきがハーティアの頭を撫でる。大きくて温かなその手は、幼子を見守る親の掌のようだった。
ぎゅっ……と胸を締め付けるような痛みを覚えながら、ハーティアは言われた通り瞳を閉じる。
(始祖狼さん……酷いよ……なんで、グレイばっかり――)
自分の『夢』を、志を、託したのだろう。息子たる<夜>が不甲斐ないばかりに、その『夢』を託せる相手を、グレイに見出したのだろう。
人選は完璧だ。確かに、誰かが負わねばならない役目だとしたら、グレイこそが最適だっただろう。事実、彼は千年もの長きにわたって、<狼>という種族を生きながらえさせ、盟約を交わした<月飼い>を守り、始祖が愛した<夜>の復活を儀式を繰り返しながら永遠の時を生きて、待っている。
きっと、<夜>が復活したときに、当時のことを知るものが誰もいない世界は辛いだろう。グレイは<夜>とも面識があるはずだ。きっと、<夜>は喜ぶだろう。グレイが、古の盟友の生まれ変わりを喜ぶように。
だが――グレイと彼が違うところは――グレイの盟友は、過去の記憶を有していない。
グレイは、ずっと、ずっと、永遠に――『孤独』なのだ。
過去を共に懐かしむ盟友はいない。一途な愛を注ぎ、一緒に永遠を歩いてくれる番も持てない。つかの間の交流を持ち、情を寄せた相手は、皆等しくグレイを置いて旅立っていく。新しく生まれてきた<狼>の子供たちは、グレイの存在を伝説上の存在として、その有能さに過度の期待と憧れを抱き、自分たちとは異なる存在として崇める。――マシロのように。
グレイの口ぶりからは、<夜>を心から敬愛しているようには思えなかった。それもそうだろう。不出来な<夜>と表現された絵本のように、実際にそのリーダーは、始祖狼の血を引いていること以外は何の変哲もなく、むしろ普通の<狼>と比較しても劣る存在だったと言っていた。リーダーとしての資質を見るなら、グレイの方が圧倒的に優れているだろう。――千年もの間、いくら始祖狼の言いつけがあったとはいえ、<狼>の長が交代しなかったのは、彼のその資質によるものが大きいはずだ。
<夜>が復活したとき――<夜>は、グレイがいて嬉しいだろう。ともに過去を語れる存在。自分が劣っている部分を補ってくれる存在。
だが――果たして<夜>は、グレイの孤独を埋めてくれる存在なのだろうか――……
「……寂しい……」
「ぅん……?」
「独りは……寂しい、よ……グレイ……」
ホロッ……とこらえきれずに涙が眦から零れ落ち、ハーティアはグレイの視界から逃れるようにして顔を覆った。
「あのね……ルヴィが、いないの」
「――――……」
「毎晩、隣にもぐりこんできた、温もりが――当たり前にあったはずのそれが、ないの。おやすみ、って言ってキスしてくれるお母さんも、いないの。朝起きて、おはよう、って言ってくれるお父さんの笑顔も、もう、帰ってこないの」
「――――」
「無くなって、初めて知ったよ。――独り、って、こんなに寂しい――」
これが――千年。
いや――永遠。これから先も、終わりがない未来、ずっとずっと、グレイは続くのだ。
つかの間、孤独を癒そうと誰かに寄り添っても、自分だけを置いて、皆、旅立っていく。
昨日まで当たり前に隣にいて、笑いあった存在が、あっさりと、その痕跡だけを残して、世界から消えていく。
たとえ、それを哀れに想い、彼の孤独を少しでも癒してあげたいと思っても――百年に満たない寿命しか持たないハーティアには、何もできない。むしろ、彼と心を通わせ、彼の孤独をつかの間でも埋めてしまえば――それを喪失したとき、より彼を苦しめることになるだろう。
(何も、出来ない――……)
孤独の痛みを、知っているのに。
同じ痛みを感じているはずのグレイに――何もしてあげることが、出来ない。
そして、自分ばかりが、優しく甘やかされている。きっと、グレイがいなかったら、もっともっと苦しかった。どんなことがあっても血を守る、と約束してくれた<狼>は、ハーティアの幸いを願い、そのためならどんな努力もすると言ってくれた。きっと、ハーティアの孤独は、東の集落に入り、時間と共に癒えていくのだろう。――どこまでも優しいグレイのおかげで。
どうしようもない無力感に打ちひしがれ、顔を覆ったまま声もなく嗚咽をかみ殺していると――ふむ、といういつものつぶやきが耳に届いた。
「仕方がない。では、こうしようか」
「え――……?」
ゴキンッ
何度か聞いたその音は――彼が、不思議な力を行使するときの音。
驚いて顔を覆っていた手をどけてみて、息を飲む。
「え――あ、あれ――…?」
先ほどまで見上げれば視界いっぱいを覆っていたはずの――天蓋と、枕元の柵が、ない。
「ぐ、グレ――」
訳を尋ねようと呼びかけようとした言葉も、途中で途切れる。
視界の先にいるはずの、息を飲む美青年はどこにもおらず――
――代わりに、雄々しい白銀の獣がたたずんでいた
「――――……」
ぱちぱち、と目を瞬く。
繰り返し読んだ絵本の挿絵から抜け出してきたようなその美しい獣に見入っているハーティアのことなど気にも留めず、白狼はそのまま音もなくハーティアの眠る布団へと近づき――
ぽふっ……
「ぐ――……グレイ……?」
白狼は、ためらいもなくハーティアの枕元に寝そべった。規格外の大きさの獣は、まるでハーティアの全身をすっぽりと覆うようにして身体を丸めると、ふわりとふさふさの尻尾で少女の顔を撫でる。――まるで、人型の時に何度も頭を撫でていた時のように、優しい仕草で。
「お前を守ったというその勇敢な戦士に免じて、今日は私をイヌ扱いすることを許可してやろう」
「――――え――…?」
「これなら、眠れるか?」
「――ぁ――――…」
優しい黄金色がこちらを覗き込んできて、初めて、彼の意図を理解する。どうやら、ハーティアの言葉を、言葉通りに受け取ったらしい。天蓋や柵を取り除いたのは、この巨躯が寝そべるには邪魔だったせいだろう。
(――……疎い……)
千年を超えて生きる長老のくせに、他人の気持ちの機微に疎い、と言われていたのを思い出し、おかしさがこみ上げる。
「触りたかったのだろう。好きに触れ。――あまりくすぐったいのはやめてほしいところだが」
「ふ……ふふ……」
――優しい。
孤独で寂しい白銀の獣は――誰よりも、優しい。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
心にじんわりと灯ったぬくもりに従い、ハーティアはその毛並みに顔をうずめ、モフモフと手触りを堪能する。くすぐったいのか気持ちいいのか、パタパタ、と時折尻尾が動くのが、なんだか愛らしい。
「ふむ。……なんとも不思議な感覚だ」
「そう?」
「あぁ。人間の前で、この姿を晒すことが、まず殆どないからな。――記憶の中をたどっても、かなり昔だ」
「そうなんだ」
なでなでなで
「ルヴィというのは、雄だったのか?」
「うん」
「そうか。レディの寝所に毎晩もぐりこむとは、なかなかの奴だ」
「ふっ、ふふっ……何それ」
自分も同じように寝そべっているくせに、と心でツッコミを入れながら笑う。
上品で滑らかな手触りの毛皮は、なんとも言えず心地よく、ルヴィと違って体ごとすっぽりと包み込まれるほどの大きな体躯から伝わる温もりは、これ以上ない安心を与えた。
「さぁ、寝ろ。――おやすみ、ティア」
白銀の獣の形をしたグレイの声が優しくささやき――ツン、と少し湿った鼻先がハーティアの頬に触れた。そのまま、ぺろっと軽く舌で舐められ、驚く。
(あ――……お母さんの、挨拶の、代わり……)
きっと、朝起きたら、父がしてくれたように、おはよう、と言って笑ってくれるのだろう。
真綿でくるむようにしてどこまでも甘やかしてくるグレイを想い、堪らない気持ちになって、白狼の首のあたりにぎゅっと抱き着く。首筋のふさふさした毛並みに、思い切り顔をうずめた。
「グレイ。――グレイも、寝よう?」
「いや、私は――」
「今日は、寝てもいい日だよ。――グレイがずっと守り続けてきた集落が、襲われたの。あなたが慈しんだ沢山の<月飼い>が命を落としたの。そして――そして、大好きな、信頼している、仲間のはずの族長たちを、疑わなくちゃいけなくなった、日なの」
「――――――……」
「だから――今日は、『夢』を見ても、いい日だよ。……一緒に、寝よう、グレイ。私と一緒に、『夢』を、見よう?」
「――――ふむ……そうか。そうだな」
ふ……と<狼>が吐息を漏らす。きっと、人型だったなら、いつもの苦笑を漏らしているのだろう。
「まさか、私が、『月の子』を胸に抱いて眠る日が来ようとは。……今日眠ったら、千年の記憶の中でも、格別に良い『夢』が見られそうだ」
「うん。私も、今度は、幸せな夢が見られそうだよ」
ふわり、と白銀の柔らかな毛並みの尻尾が、慈しむような優しい仕草でハーティアを撫でた。
「では、私も今日は寝ることにしよう。――おやすみ、ティア」
「うん。――おやすみ、グレイ」
昏い昏い、地獄の底――
どこまでも続く絶望の中で、一人と一匹は、寄り添うようにして瞳を閉じる。
せめて、夢の中では、幸せな世界を垣間見れると信じて――――