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白狼の夢③

 ぴちょん……

 一瞬静まった浴室に、水滴が滴る音がした。

「その……さっき、グレイ、言ってたじゃない。お風呂出たとき、マシロさんに……」

「――……あぁ…」

 少し間を開けて、小さな返事が返ってくる。

 声音からは、感情を読み取ることは出来なかった。

「――……言っただろう。番になれば、優秀な個体に特徴が引っ張られる、と」

「う、うん」

「もしも私と番ってみろ。――それは即ち、私と共に永遠の地獄を歩むことになる」

「――――――」

 ぴちょん……

 再び、浴室に音が響いた。

(永遠の……地獄……?)

「どれだけ友情を育んでも、信頼を築いても、愛情を注いでも――誰も彼もが、皆、私を置いて死んでいく。私より後に生まれた慈しむべき宝の子らが、皆、私より先に死んでいく。心を通わせた相手が先立つのは、何百年経とうと慣れるものではない」

「――…ぁ…」

「私と番えば、寿命が私に引っ張られる。相手に、永遠の命を、与えてしまう。もしも私の前に、運命の相手たる番が現れたとして――その者を愛しく思えば思うほど、こんな地獄に付き合わせるわけにはいかぬ、と思えば、私は生涯、誰とも番うことなど出来はしないさ」

「――……それが…呪い、なの……?」

「ふっ……これが呪いでなくて、何なのだ。<狼>の愛は、一途で、重い。――クロエを見ろ。あの、番への執着を。おそらく私も、一度番えば、きっと、二度と放してはやれぬ。たとえ、相手の心が壊れようと、決して、な」

 かつて、ミズキという名を持っていたという東の<月飼い>の虚ろな笑みを思い出し、ぞっと背筋が寒くなる。

 本来のものとは異なる名前で呼ばれても当たり前のように返事をし、体を重ね、壊れた人形のように何度も同じ言葉を同じ笑みで繰り返す美女。

 彼女はまさに――心が壊れようと、決して放してはもらえぬ、<狼>の番だ。

「私の勝手で、私の地獄に付き合わせることは出来ない。この、気が狂いそうな地獄を、それでも私が耐えられるのは、始祖狼に託された想いがあるからだ。彼の描いた『夢』があるからだ。……だが、千年を経て、もはや始祖狼が生きていたころを知る者はおらず――彼の『夢』を共有する同志はいない。そんな状況で、誰かと番うなど――相手を不幸にすることがわかっていて、それでも、と望むなど、これを呪いと呼ばずして何と呼ぶのか」

「――――……」

 ぎゅ……っとハーティアは我知らず唇をかんだ。

 少し自嘲が混ざった声音は、湿った浴室に複雑に響いて、寂寥の感を増長させる。

「でも――理屈じゃ、ないんでしょう…?」

「ん?」

「番を前にしたら――理屈じゃない、って、さっき、言ったじゃない」

「あぁ――」

 ふ、と整った顔が苦笑にゆがむ気配がする。

「じゃあ、もし、グレイの前に――番にしたい、って思うくらい大事な相手が現れたら、どうするの――?」

 ぴちょん……

 ぴちょん……

 水滴の音が、二つ、響いた。

「――さて、な。……見守る、のだろうな」

「見守る……?」

 静かに響いた声音は――やはり、自嘲と苦笑の響きを伴っていた。

「その相手が死んで、生まれ変わりが誕生し……その生まれ変わりの人生も見守って、また次が来るまで見送る。――その繰り返しだ。……まぁ、多少、特別扱いをして守りたくはなるかもしれないが。それくらいだ」

「――――」

「想いを告げることも、関わりを持つこともないだろう。古の盟友の生まれ変わりに出逢ったときのように、何も言わず、ただ、己の責務を全うする中で、その者の幸いを願い続ける。――大丈夫だ。命尽きようと、血さえ残っていれば、何度だって巡り合える。――私には、それが出来る。この世の誰にも真似が出来ぬそれこそが、私の愛の形なのだろう。その魂が生まれるたびに、喜びに震え、愛しさに胸を焦がし、その魂の幸いを願い、命の終わりには耐えがたい寂寥に襲われ――再び、何百年後の邂逅を待ち望む。それだけが、この永遠に続く地獄の中の、ただ一つの私の幸いとなる。……それだけだ」

 淡々と語られるその言葉に、ハーティアはぐっと息を飲み――

「……?ハーティア?」

「っ……」

「どうした。泣いているのか?」

 少し慌てた声がして、ザバ、と湯船が音を立てる。

「か、哀しく、て――」

「哀しい……?」

「どうして――どうして、グレイだけが、そんな、ずっと、独りぼっちで――」

 ごし、乱暴に目元をぬぐって鼻をすする。

 永遠を生きる<狼>の、哀しい哀しい愛の形。

 美しくて哀しいそれを――"呪い"と表現せざるを得ない彼の境遇を想って、ハーティアはやるせなさに涙を流した。

「お前は優しいな、ハーティア。――だが案ずるな。別に、哀しくなどはない」

「でも――」

「本当だ。言っただろう。私には、始祖狼の『夢』がある。始祖が愛した、平和な世界。誰もが笑って暮らす、幸せな世界だ。……辛くなったときは、いつも、夢を見る。この夢が私を奮い立たせてくれる。月のない日も、修羅の道も、私はその夢を見ればいつも一歩を歩き出せるんだ」

 孤独な王者の決意に敬意を表し、ハーティアはぐっと唇をかみしめた。

「っ……わ、私――絶対に、血をつなぐ、って約束する――!」

 ぐいっと目元をぬぐい、決意と共に声を張る。

「わ、私が生きて、血を残したら――私の血につながってた、グレイが愛した北の『月の子』は、いつか、また、生まれてくるんでしょう……!?」

「――――あぁ。そうだな」

 ふ、とグレイが苦笑する気配が伝わる。

「だから、絶対に、血をつなぐ……!グレイが大事に思ってくれてた村の皆を、いつか、また、グレイに絶対に逢わせてあげるって、約束する――!」

「……ふむ。それは心強い」

「それに――わ、私も、また、生まれてくるんでしょう?」

「あぁ。お前が直接子供を残すなら――お前の死後百年程度で、また、お前と同じ魂を持つ者が生まれるだろう」

「じゃぁ――じゃあ、その時は、また、逢いにきて――!もしもまだ<月飼い>と<狼>の交流が断絶してても、また、逢いに来て――!」

「……ふむ……」

「私――私が、グレイの、家族になる……!」

 ぽろぽろと落ちる涙をぬぐいながら、ハーティアは必死に想いを言葉に変えた。

「何代経ても、私は、私たち北の<月飼い>は、グレイの家族だよ……!だから――だから、グレイは、独りぼっちなんかじゃ、ないんだよ……!」

「ふむ。……ハーティアは優しいな」

 これ以上なく苦笑しながら、グレイが笑みを含んだ声を出す。

 ハーティアは、やっと理解した。

 何度も、何度もグレイがハーティアに告げた言葉。

 ハーティアを守る――ではない。

 ハーティアの”血”を守る――と、彼は告げた。

(私が生きて血をつなげば――北の<月飼い>は、永遠に続く――!)

 『月の子』と村人を愛し気に呼び、千年もの長きにわたって、たった独りでその集落を守り続けた<狼>。

 それを守ることが出来なかった悔しさと怒りと悲しみとの中で、ハーティアの血だけが、希望なのだ。

 きっと、北の<月飼い>の生まれ変わりが誕生する度に、彼は温かく見守るのだろう。穏やかに、優しく――慈しみ深い愛情を持って、その血筋の幸いを一心に願う。

「――――ティア」

「ん?」

「家族は、私のこと、『ティア』って、呼ぶの……」

 ハーティアは、ごしごしと涙をぬぐって、背中越しに告げた。

「グレイは、家族だから――私のこと、ティアって、呼んで」

「――――――――……」

 しん……

 奇妙な沈黙が、降りた。

(――――あれ……?へ、変なこと、言った……?)

 ふいに訪れた妙な沈黙に、涙が引っ込んで焦ってしまう。

「あ……あの……ぐ、グレイ……?」

「――……ふむ……ティア。なるほど。――ハーティア、だから、ティア、か」

「え?う、うん……そ、そんなにおかしい…?」

 何度も口の中で確認するようにつぶやいている様子の背後に、困惑した声を出す。

「お、<狼>さんたちは、愛称で呼んだりしないの?」

「あまり呼ばないな。マシロくらいではないか?」

(あぁ、確かに……)

 クロくん、セッちゃん、と親し気に呼んでいた様子を思い出す。

「い、嫌なら、別に――」

「まさか。そんなはずはない」

 気まずくなって撤回しようと口を開くが、かぶせるように否定されてしまう。

「――ティア」

「う、うん」

「――――――――――ティア」

「は、はい」

 確認するように繰り返して呼ばれ、なんだか恥ずかしくなってごまかすように髪を指でいじりながら返事をする。

 ぴちょん――と水滴が落ちる音がして――

 ふぉん

「――――ティア」

「!?」

 急に耳元で響いた声に、心臓が飛び出そうになり、ビクッと肩を跳ねさせる。

 浴槽の中から、音もなく少女の背後に転移をしてきた白狼は、至近距離でそっと言葉を紡ぐ。

「ティア。返事をしておくれ。――私の愛しい『月の子』」

(な――――何何何何何!!?)

 サラリ、とハーティアの月光色の髪をかき分けるようにして耳もとで熱くささやかれ、何が起きているかわからず混乱して涙目になる。頬の当たりに、ぬれた白銀の髪が触れる感触があるが、驚きで硬直してしまい、視線を動かすことすら出来ない。

「ティア」

「な、なに……?」

「あぁ――いいな。堪らない」

「な、なななな何が!?」

 思わず声が裏返る。

 ふっと美青年が耳元で笑った気配がして――つぅ、とかき上げられ露わになった首筋を指がたどった。

「ひゃう!?」

「お前の首筋は、白くて細くて美しい――」

「な――ななななななななな」

 熱に浮かされたような、うっとりとした色気の塊と言っても過言ではない声音に、十四歳の幼気な少女たるハーティアはもはや意味のある言葉を紡ぐことが出来ない。

 威厳のある穏やかな長老でも、食物連鎖の頂点にいる厳しく恐ろしい獣でも、千年を生きる孤独な王者でもない。

 今まで見たどのグレイとも違う、豹変した態度に、ハーティアはぐるぐると目を回すことしかできなかった。

「あぁ……このまま本能に任せて――この首筋に、齧り付いてしまいたいくらいだ――」

「――――!!!???」

 うっとりとした声音と共に、は……と生暖かい吐息が首筋に触れ――

 ハーティアは、バッと両手で首を覆うようにしてガードする。

「おっ――おおおおお<狼>さんって――に、人間、食べるの――――!?」

 思わず視線だけで振り返る。ぷるぷると震えながら見上げてくる瑠璃の瞳は、恐怖に怯えて涙でにじんでいた。

 黄金色の瞳がいつものようにきょとん、と瞬き――ぷっ、と軽く吹き出す。

「くっくっくっ……あぁ、そうだな。空腹が限界に来たら、一考するかもしれん」

「お、おなかすいてるの……?」

「あぁ。何せ、昨夜は夕方からゴタゴタしていたから、一晩何も食べていない。無防備な背中を見せられれば、食欲も沸くというものだ」

「おっ……おおおお美味しくないよ!?たぶん!!!」

「どうかな。お前を食べられたら、さぞや美味だと思うぞ」

 ビクゥッ

 意味ありげな流し目を向けられ、恐怖に肩をすくませると、グレイはなおもおかしそうに声を上げて笑った。

「くっくっくっ、冗談だ。お前は揶揄い甲斐があるな。――さぁ、ティア。お前も朝から何も食べてないだろう。軽く何か腹に入れよう。腹が満たされたら睡眠だ。人間は、いろいろと不安を抱えているときは腹を満たして寝るのが一番だと、昔聞いたことがある」

「ぅ…うん…」

 さらり、と教えたばかりの愛称で呼ばれて、少し気恥しい思いで頷く。グレイは笑ってハーティアの頭を撫でると、エスコートするようにその手を取って歩き出したのだった。

 


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