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東の灰狼⑤

「これは……マシロが泣きたくなるのもわかるな」

「えっ?えっ?」

 砂でも吐き出しそうな顔でセスナがうめき、グレイはこれ以上なく渋面を作っている。置いてきぼりにされてただただ戸惑うハーティアにセスナが嫌味な視線を投げた。

「人間っていいね。これ、聞こえないんだ」

「???」

「セスナ」

「いいじゃん。扉開けてみなよ。脱衣所からなら聞こえるんじゃない?」

「セスナ」

 グレイが何度かたしなめるように言うも、両耳をふさいだまま恨めし気な表情を向けるセスナは取り合わなかった。

「開けたらわかるよ。君とグレイの関係と、ナツメとクロエの関係は根源的に違う、ってこと」

 ごくりっ……とハーティアは唾を飲み込み、そっとドアノブに手を伸ばす。

「セスナ。――情操教育上あまりよろしくない」

「ふん……僕らの中じゃその子と大して変わらないくらいの子供のマシロを、問答無用でこの浴室に放り込んだ張本人がよく言うよ」

「……それを言われると耳が痛いな」

 二人は何やら言い合っていたが、ハーティアは意を決して扉を開き――



 ――――――――――



 ――――――



 ――――――パタン



「ね?……わかったかい?僕とマシロの苦労」

「~~~~~っ……!!!」

 茹蛸よりも真っ赤な顔のまま無言で扉を閉めてずるずると腰を抜かしたハーティアを見て、グレイはやれやれと額を覆って大きく嘆息する。

(あ――――あああああれって――あれってつまり――――!)

 脱衣所の扉を開けて、微かに響いてきたのは、浴室の中の声だった。

 あの、人形のような美しい女の、いつもの五倍くらい艶めいた――明らかに情事の真っ最中と思しき嬌声。

「グレイが言うように、唯我独尊が服着て歩いてるような奴だからさ、クロエって。……誰かに見られてるとか、どうでもいいんだよね」

「っ……!」

「所かまわず盛り出すから、本当に困るんだ。普段あんなクールな顔してるくせして、ナツメだけは信じられないくらい溺愛してるからね。一緒にいると、砂吐きそうなんだ。絶対同じ空間にいたくない」

 言われて、今、この、どう考えても本番真っ最中と思しきピンク色の矯声が響く浴室の中に、グレイの命令で取り残されているマシロを思って心から同情する。――確かにそれは泣きたくなる。

「まぁ……そういうことだ。あいつは賭けに勝った。極限まで血を濃くした結果、直系がいなかったにもかかわらず、百年程度で生まれたんだ。東の<月飼い>の族長の家に――"ナツメ"の生まれ変わりが」

「ぅぅぅ……――――へ……?」

 十四歳のお子様が直面するには露骨すぎる濡れ場の衝撃に頭を抱えていたハーティアは、グレイの言葉を聞き逃しそうになって慌てて振り仰ぐ。

 グレイは嘆息して苦笑した。

「……今、クロエが"ナツメ"と呼んで溺愛しているあれは――いわば、クロエの、百五十年間でこじらせたナツメに対する妄執が生んだ人形のようなものだ」

「え……ちょっと待って――な、ナツメ、って――」

「ナツメ・シグファリード。――それが、クロエが百五十年前に愛した女の名前だ。あいつはずっと、その魂が生まれるのを待ち続けた」

 呆然と、ハーティアはもう一度自分が閉じたばかりのドアを眺める。もうあの耳を覆いたくなるような生々しい声は聞こえなかったが、それでも――

「じゃ、じゃあ、あの人は――」

「生まれたときにつけられた名前は、違う。さて、何と言ったか――ミズキ、だったか?姓も違うはずだ。……もう、彼女をそう呼ぶものはこの世に存在しないが」

 ぞっ……と急に冷えていく背筋に、顔を青くする。

「生まれ変わりが誕生した瞬間、クロエは歓喜した。それ以来ずっと、あの母熊のような状態だ。ご丁寧に、ミズキがナツメと同じ二十歳になるまで待ってから、半ば連れ去るようにして手元に置いて、力尽くで無理やり番にした。それ以来ずっと、クロエはあの女をナツメと呼んで、ナツメを投影し、ナツメとして生きさせている」

「ひ――」

「はは……ま、それが正常な反応だよね。僕も、ちょっとあれは、怖いなぁって思うよ」

 さすが"最狂"、とセスナが両耳を抑えたまま口の中でつぶやく。

 ハーティアは、つい先ほどまでクロエの悲恋に同情していたはずなのに――今は、彼の愛のなれの果てに、恐怖すら覚えていた。

「な、なんで……なんで、ナツメさん――ミズキさんは、抵抗しないの――?」

「東は、無理やりクロエが鎖国をすると言い出してから、私が言いつけた<月飼い>との交流断絶なんぞ完全に無視して、徹底的に灰狼による恐怖政治が敷かれているからな。<月飼い>たちは、そもそも灰狼に――クロエに逆らうという発想がない。灰狼に逆らえば、生きていけぬと刷り込まれている」

 言われてハーティアは思い出す。マシロが、東は獰猛な野生動物が多い、と言っていた言葉を。

(外に出たら、動物たちの脅威に晒される。鎖国ってことは、他の<月飼い>に助けを求めることも出来ない。大人しく集落の中にいたら、灰狼に守ってもらえるけれど、逆らったら殺される――……ってこと…?)

 ぞわり、と全身に鳥肌が立ち、慌てて両手で自分を抱えるようにして撫でさする。

 今、ハーティアは、心の底から本当に、自分が北の<月飼い>でよかったと――グレイの守護する土地の集落に生まれてよかったと痛感していた。

「まったく、私の不徳の致すところだ。結局ナツメが生まれるまでの百年近く、最後までクロエの暴走を止められなかった」

「それ、昔から不思議だったんだよね。なんで?グレイにしては、珍しい」

 セスナが厭味ったらしくグレイを片目をすがめて見やると、グレイは苦い顔でそれを受け止めた。

「その苦言は、甘んじて受けよう。少し、同情が過ぎた自覚はある」

「ふぅん……時々、変なとこ甘いよね、グレイって。――――あ。終わったみたいだよ」

 両耳から手を放してセスナがモノクルをかけ直した。彼ら<狼>にしか聞こえない中の物音で判断をしたのだろう。――どんな物音なのかは聞きたくはなかった。


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