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東の灰狼②

 それは、酷く儚げに笑う女だった。


「あっ、初雪……!」


 初めて出逢ったのは冬だった。舞い降りてきた白い羽のようなそれに、いい歳をして子供のように目を輝かせて見上げた顔が印象的で、百五十年も経った今でも、よく覚えている。


「私、雪、好きだな。すごく綺麗で――儚くて」


 そうして、その女は笑った。――まるで、舞い降りてきた雪と同じくらい儚い笑顔で。


「――来年の初雪も、クロエと見たいな」


 たかだか二十年しか生きていないくせに、五十年近く生きている<狼>に向かって、人間と<狼>の平均寿命で換算すれば年上だから、と言って姉貴面をする、奇妙な女だった。

 そうして年上面をして――病の痛みも苦しみも恐怖も、すべてその儚い笑顔の裏側に隠してしまう、女だった。


「クロエは、心配性ね。……大丈夫よ。いつものことなんだから」


 人間の血が多すぎて、戒の一つも満足に使えない、脆弱な身体。

 ただでさえ細くて頼りないくせに――病の進行とともに、その体はどんどんとやせ細っていった。


「ねぇ、クロエ。あなたのおかげで、最期の一年――とっても、楽しかった」


 激しい咳の後、吐血で汚れた口元で、精一杯の笑顔で、そんなことを言う女。


「寒い――寒いよ、クロエ……」


 自分の力では身を起こすことも出来なくなった、冬の入り口。出逢ってちょうど一年が経とうとしていたころ。


「そろそろ、雪――降る、かなぁ――」


 嬉しそうに、いつものように、ふわりと雪のような儚い微笑みを浮かべて――


 ――――――その女は、最強の灰狼の称号を持つ<狼>の腕の中、静かに息を引き取った――




「――で?各地の灰狼から、返事は返ってきたかい?」

 剣呑なテノールが後ろから響き、閉じていた瞳をゆっくりと開く。

「……いくつかは」

 クロエ・ディールは言葉少なく低い声で答えて、傍らに寄り添う女の腰をさらに引き寄せて密着させるようにして抱き込む。呆れたような疲れたような重たいため息が後ろから響いた。

 クロエとナツメ、セスナの三人がいるのは、最上階のバルコニー。灰狼のいる東の縄張りに向かって、クロエが遠吠えをしたのがつい先ほど。しばらく瞳を閉じて待っていると、いくつかの方向から呼応するような遠吠えが返ってきたのが、今しがただ。

「それで?僕を納得させてくれるようなお返事は返ってきたのかな?」

「――…」

 ひゅぅ――と一陣の風がバルコニーを吹き抜けていく。

 クロエは三白眼をちらりとセスナに向けた後、ナツメに視線を向けた。

「俺はグレイやマシロと違って賢くない。群れの連中からの情報が、何を指し示すのかよくわからん。――まずは、グレイに報告してからだ」

「へぇぇぇ……それは別にいいけど、せめて人と話すときは話す相手の方を見てくれないかな……?」

 じぃっとナツメの顔を至近距離から覗き込んだまま告げられた言葉に、あからさまにいらいらとした言葉が飛ぶ。しかし、クロエは何一つ気にしたそぶりを見せなかった。

 その様子にブチッと脳内で何かがちぎれる音がして、セスナは大きく息を吸い込む。

「クロエ……!君には一度ちゃんと言っておきたいと思っていたんだけど――!」

「ほら、言った通り。セッちゃん怒ってたでしょ?」

 言葉の途中で、背後から能天気な声が響き、思わず口を閉ざして振り返る。そこには、部屋の中からバルコニーに向かって指をさしているマシロと苦笑しているグレイ、どういう顔をすればいいのかわからず困惑顔を浮かべているハーティアの三人がいた。

「グレイ……!選手交代だ頼む変わってもう嫌だ!!」

 青い顔で駆け寄り息継ぎもなく必死で懇願するセスナに、グレイは苦笑を深める。チラリ、とバルコニーへと視線をやると、クロエもまたナツメの腰に手を回した状態のまま、室内へと向かってくるところだった。

「クロエ。何かわかったか」

「……後で報告する」

「ふむ。わかった」

 言葉少ないやり取りだが、二人の間にストレスはないようだ。

(クロエさんが二百歳以上ってことは、族長として務めてる期間も、他の二人より長いってことだよね……グレイとの付き合いは、一番長いのかも)

 二人の阿吽の呼吸に近いやり取りを見て、ハーティアは胸中で静かに分析する。

 『人間』に恨みを持つマシロに協力を仰げないようなら、他の誰かに頼むしかない。

(クロエさんに頼めるなら、こんなに心強いことはない――…)

 <狼>の中でも戦闘に特化しているという灰狼の族長だ。戦闘力は折り紙付きだろう。それも、歴代の中で最強だとセスナが口走っていたことを思い出す。グレイには敵わないようだが、ヒトを相手取るなら彼の実力でも十分すぎるほどだろう。グレイとの信頼関係を見る限り、グレイを説得するのにもクロエを味方に出来れば話が進むかもしれない。

 チラリ、と控えめにその灰狼を観察する。人間なら三十代といっても通じる精悍な見た目は、確かにセスナやマシロと比べれば幾分年上の貫録を漂わせていた。ナツメを後生大事そうに引き寄せて寄り添い歩くその姿からは、目つきの悪い三白眼も相まって、ぴたりと寄り添う彼女以外の誰一人、寄るな触るな話しかけるなという露骨なオーラをまとっている。

「グレイ。お前たち、風呂に入ったのか」

「あぁ。ハーティアとマシロだけだが」

「ふぅん……ナツメ。お前も入るか?」

「はい、クロエ」

 黒髪の美女がふわり、と空虚な笑みを浮かべる。

(この人、これしか喋れないんじゃ――……)

 人形のように、先ほどと同じセリフを同じ表情で繰り返すナツメに、同じ<月飼い>と言えど不気味なものを感じてしまい、腰が引ける。未知との遭遇は、いつだって恐怖を伴うものだ。

「待て、クロエ。――単独行動は許さん。他の族長の目をつけろといっただろう」

「「ちょっと!!!?」」

 マシロとセスナが同時に非難の声を上げる。

「つっ、つつつ次はマシロだろ!?僕は君らが長風呂している間、耐えきったんだ!もうさすがにごめんだよ!?」

「無理無理無理無理!!お風呂はさすがに無理!!!」

 わーわーと喚く二人に軽く顔を顰めてグレイはクロエを見やる。

「……とのことだが。今度はクロエに指名させてやろう。どちらがいい?」

 長身の灰狼は、無表情のままその三白眼をギロリ、と二人に順に注ぐ。

 ごくりっ……と二人の間で緊張が走り――

「マシロだ。――男にナツメの肌を見せるはずがないだろう」

「ぅわあああああああああああああ!!!!」

「勝ったぁあああああああ!!!!」

 絶望的な声音を上げて膝から崩れ落ちるマシロと、ガッツポーズと共に勝利の雄叫びを上げるセスナ。

 えぐっ……と嗚咽を漏らして涙を流すマシロの後ろ首を、クロエはむんずと遠慮のかけらもない手つきで掴む。

「さっさと行くぞ」

「やだやだやだやだぁ……グレイ、グレイ、ついてきて――」

 涙にぬれた声で必死に助けを求めるマシロは、この中では同い年くらいの外見であることもあり、ハーティアの同情をこれ以上なく買った。何より、獣耳がおびえたようにペタン、となっているのがかわいそうで仕方がない。

「グレイ……た、助けてあげられないの……?」

「……ふむ。そうはいっても、な。私も男だ。私が監視すると言い出せば、クロエがこれ以上なく暴れる。こればっかりは代わってやれない」

「で、でも――」

「無駄だよ。そうだな、君たち人間にもわかりやすくたとえてあげるなら――今のクロエは、出産を終えたばかりの母熊と一緒だ。もちろん子供はナツメ」

 セスナの例えに、ゾッ……とハーティアの背筋が寒くなる。森の中で狩猟を中心とした暮らしを営んでいたハーティアにとって、その例えはとてもよく理解できるものだった。

「つ、つまり――ナツメさんに不用意に近づくと、めちゃくちゃ狂暴になる……?」

「そういうことだ。風呂なんぞについていこうとしたら、ここら一帯が族長同士の戦場に変わる」

 やれやれ、と首を振るグレイに冗談の響きはなさそうだ。しかし、ずるずると引きずられていくマシロは、泣きながらぐずっている。キューン……と切ない声で飼い主に助けを求める記憶の中の愛犬の姿が重なって、ハーティアはグレイに縋るような目を向けた。

「せめて、傍までついて行ってあげるとかは――」

「僕は嫌だよ、グレイ!なんっでやっとあの吐きそうな空間から解放されたのに、またそこに行かなきゃいけないのさ!」

(……吐きそうな空間…?)

 青い顔で訴えるセスナの言葉に疑問符を上げるハーティアに気付かず、グレイは小さく嘆息した。

「私の『月の子』は優しいな。――仕方あるまい。行くぞ、セスナ」

「いやだぁあああああああ!!!!」

 既視感(デジャヴ)――

 むんず、とセスナの後ろ首をつかんだグレイは、泣き叫ぶ黒狼の声をもろともせず、クロエの後を追ってくれたのだった。


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