南の赤狼④
マシロは、やや不機嫌そうに顔を顰めた。不愉快をあらわにするオッドアイを、ハーティアはしっかりと受け止める。
(もし、グレイを納得させるための協力者を得るなら――『人間』を憎んでいるマシロさんは、一番私の意見に共感してくれそう)
一縷の望みをかけて、じっとマシロを正面から見据えると、マシロは呆れたように一つため息をついた。
「どうしてそんなことをアンタに話さなきゃいけないか、わからないわ」
「……私は、ヒトが憎いんです。家族を殺し、村人を焼いた、ヒトたちが。――彼らにも、同じ苦しみ味わわせてやりたい、って思います」
「――……ふぅん…」
マシロはハーティアの予想に反して、ぶぜんとした表情で曖昧な声を出しただけだった。ちゃぷ……と湯が音を立てて、浴槽に波紋を作っていく。
「だけど、私一人の力じゃ、それは難しいから――協力してくれる人を、探したくて」
「へぇ。それで、あたしの力を借りたいの?」
「ぅ……は、はい……」
長い睫を備えた瞳がハーティアを値踏みするように見やる。居心地悪くなりながらうなずくと、マシロは視線をそらさないまま、静かに尋ねた。
「――グレイは?」
「え?」
「グレイには、それ、言ったの?」
「あ……は、はい」
「それで?――グレイは、なんて言ったの?」
タオルでまとめた髪が一筋落ちてきたのを指先でもてあそびながら、マシロは冷静に問いかける。
「……<狼>の長として、種族そのものも滅ぼしかねない、無謀な計画には乗れない、と」
「ふぅん……ま、妥当な判断よね。さすがグレイ。最高の男だわ」
ふふん、と満足げに鼻を鳴らして笑った後、やや見下したような瞳がハーティアを射抜いた。
「グレイがそう言うなら、あたしもそれに従うわ。残念だったわね、『人間』。思い通りにいかなくて」
「っ……で、でも、あなたは『人間』が嫌いなんでしょう!?だったら――」
「勘違いしないで。あたしが嫌いなのは『人間』。あなたが嫌いなのは『ヒト』。――同じじゃないわ。あなたのことも、等しく嫌いよ、あたし」
「っ――……」
ぴしゃり、とはねつけられるような言葉に、ぐっと下唇を噛む。思わずうつむくと、立ち上る湯煙に視界がぼやけた。
「教えてあげる。南の赤狼は、今、あまり数がいない。――『人間』のせいで」
「え……?」
ちゃぷ……
顔を上げると、マシロはもうこちらを見ていなかった。浴槽のふちに肘をついて、頬杖を突くように顎を手の上にのせたまま、遠くを望むような瞳で横を向き、薄く開いた唇に音を乗せていく。
「南は――地理的に、一番ヒトの世界に近いでしょう。そのせいで、連中は、千年の長い歴史の中で、<月飼い>としての役目も掟も忘れて、ヒトと交流をしようとした」
「えっ……!?」
毎晩寝る前に<夜の誓い>を口にさせられていたハーティアは、青天の霹靂と言って差し支えないその事実に、思わず目を見張る。
「まぁ、東西南北の中では一番少数の集落だったから、血が濃くなるのを防ぐ手立てに困った、っていうのもあると思う。<狼>と交流が禁止されたここ数百年は、<狼>の血も混ざらなくなったんだから、余計よね」
「おっ……<狼>の血……!?」
とんでもない文言が飛び出し、あんぐりと口を開くと、マシロは半眼でやっとハーティアを見た。
「別におかしくないでしょう。<狼>だって基本は人型で暮らしてるし、生活様式はほとんど変わらないのよ?さっき、グレイも言っていたでしょ。<狼>にだって、愛だの恋だのっていう感情はあるの。人間の傍で、一緒に支えあいながら暮らしていたら、そういう感情が互いに芽生えてもおかしくないでしょう」
「え――……あ…う、うーん…」
「昔は、たくさん混血が生まれていたと聞いているわ。おかげで、ヒトとのかかわりを断って、少数に分かれた集落で暮らしていた<月飼い>たちも、血が濃くなる危険性におびえる必要なんてほとんどなかった――って、あぁ。そっか、アンタ、北の<月飼い>だものね」
ふ、とマシロが思い出したように笑う。
「北は、守護する<狼>がグレイしかいなかいから――この千年、唯一、<狼>との混血が生まれない集落だったのね。それじゃあ想像がつかなくても、仕方ないか」
「ぅ……」
「まぁ、北は、山に入った当初一番人数がいた、っていうし、<狼>の関与がまだ許されていた時代は、西の集落と交流を持って血が濃くならないようにしてた、って聞くから、南と東よりは、そのことについて考える必要はなかったのかもね」
マシロは嘆息してから、再び頬杖の上に顎をおいて、外を眺めるようにしながらのんびりと口を開く。
「まぁでも、南は違った。<狼>との交流が断絶して、真っ先にその問題に直面した。<月飼い>同士で交流しようにも、西と北は遠すぎて――北はそもそも、夜水晶を持った人間しかたどり着けすらしなかったみたいだし――血を混ぜることはできなかった。頼みの綱の東は、距離的には近くても、獰猛な野生動物が多くて人間だけでたどり着くには結構厳しいし――何よりクロくんのせいで、百五十年位前から、ずっと鎖国状態だったしね」
「え――?」
ぱちぱち、と目をしばたたいて疑問符を上げるも、軽く肩をすくめるだけでマシロはその話題を流した。
「結果として、南の赤狼に頼ることも出来ない彼らは、ヒトの世界に助けを求めた。自分たちが<月飼い>であることを隠して、ヒトの世界に紛れ込んで――でも、人間ってバカよね。人の口に戸は建てられないってこと、知らないのかしら」
「ま……まさか――」
<夜の誓い>を諳んじるハーティアは、マシロの言葉を信じることが出来ずに、さぁっと顔を青ざめさせた。マシロは、こちらを見ることもなく言葉を続ける。
「そう。秘密を洩らした愚か者がいた。それがヒトの世界に伝わり――<狼>を捕まえたい奴らが、山へとやってきた」
「つ……捕まえたい……?」
<狼狩り>の歴史を思えば、<狼>を駆逐したいというヒトが存在することはわかるが、捕まえたい、という考えは理解できない。怪訝な顔をしたハーティアに、マシロはひどく不機嫌に顔を顰めた。
「<狼>はヒトからすれば、得体のしれない力を使う、強力な生き物よ。捕まえて、研究したい奴らがいるの。そして、それを、ヒトのものとして扱いたいの。<狼>の力を手に入れられれば、ヒトの世界での戦争なんて、楽勝でしょう。――千年前の<狼狩り>の時代から、ヒトの中にはそんなくだらないことを考える愚かな『人間』がずっといて――そいつらは、今も、<狼>の研究に飢え、地獄のような悪魔の所業を繰り返している」
「――――……」
ごくり、とハーティアの細い喉が鳴った。
ヒトの業とは、ここまで深いものなのか。集落を焼き、女子供も見境なく殺していった悪魔の姿がよみがえる。
「よりにもよって、そいつらに情報が洩れて――結果、南の赤狼の集落が、襲われたわ」
「――――!」
「『人間』ごときに、って思うかもしれないけれど……あたしたち赤狼は、もともと戦闘能力に優れているわけじゃない。それに、奴らには、研究の成果がある」
「成果……?」
「千年前の<狼狩り>でとらえていた<狼>の血を使って、人工的に作り上げた、混血児――試験管の中で作られたそれらは、混血とはいえ、普通の<狼>と変わらない戒の力を扱える。……灰狼の戒ですら、ね」
ハッ……
息を飲むハーティアに、マシロはぎゅっと眉間にしわを寄せてうつむいた。一筋垂れていた赤茶の髪が一瞬、表情を隠す。
「いきなり現れた<狼>もどきに、あたしたちは混乱して――阿鼻叫喚の混乱のさなか、必死に逃げた。奴らは無理やり<狼>を捕まえて、抵抗がひどければ殺されて――当時、族長をしていたアスマン家は、群れを守り、逃がすために殿を務めて血を途絶えさせたわ。遠吠えを聴いて異変に気付いたグレイが来てくれなかったら、赤狼は絶滅してたかもしれない。それくらい、ひどい事件だった。あたしも、命より大事な家族――たった一人の、お姉ちゃんを、失った」
「――――――」
「族長の血が途絶えたから、残った赤狼の中でもう一度族長選出の試験をして――あたしが選ばれた。それがつい、十年くらい前の出来事よ」
三百年を生きる<狼>にとって、十年など、瞬きするほどの期間だろう。想像以上に壮絶な過去に、ハーティアは思わず言葉を失う。
「だからあたしは、『人間』が嫌い。<月飼い>も、等しく、大嫌い。あいつらが勝手なことをしなければ――古からの盟約を破らなければ、あんな地獄を招くことなんか、なかった」
キッと顔を上げた横顔は、毅然として――とても幼年の<狼>とは思えない覚悟を感じさせた。彼女が優秀な他の族長に交じって、最年少で気丈に族長を務めているだけの理由が、そこにはあった。
「あたしは族長になって最初に、南の<月飼い>から『夜水晶』を取り上げたわ。<狼>と共に生きるという盟約を破った彼らを信用することは出来なかった。儀式は、<月飼い>の代表がいなくても夜水晶さえあればできる。……クロくんに頼んで、東の祭りの日に南の夜水晶も一緒に東の<月飼い>に血を捧げさせた。ナツメに二つの夜水晶を持ってこさせれば、儀式は可能でしょ。祭と儀式の日以外はあたしが保管していれば、問題はない」
「――――…」
「セッちゃんに頼んで、南の<月飼い>の集落に残っていた人間は皆、黒狼の戒で記憶操作して、<月飼い>のことも<狼>のことも全部忘れさせて、ヒトの世界に放逐したわ。あいつらが今、生きているのか死んでいるのかなんて知らないけれど――どうでもいい。グレイは、彼らを守るという盟約に抵触するんじゃないか、って最後まで苦い顔をしてたけど、盟約は『<狼>についてきてくれた<月飼い>に感謝しているから、<月飼い>を子孫代々血を途絶えさせないように守る』というもの。……明確にあたしたちが敵と認定しているヒトと通じたことを考えれば、そもそも<狼>と一緒に生きることを望まなかったのは向こうだもの。前提条件を違えた相手に、盟約を履行する必要はない、って言って納得させたわ」
「……あのグレイを納得させたんですか……すごいですね…」
「これでも、頭の回転は、赤狼の中でも類を見ないくらいずば抜けて早いから」
驕る風でもなくつぶやいた横顔は、どこか哀し気な空気を宿していた。
疑問符を上げそうになるも、それをその横顔で無言のまま明確に拒絶して、マシロはザバッと浴槽から立ち上がる。
「あたしは、族長の中では抜群に幼いことはわかってるけど、それでも赤狼の族長よ。不安もいっぱいあっただろうに、こんな女を、族長に選んで信じて送り出してくれた群れの皆には、感謝しかない。彼らを守り、導くのがあたしの責務よ。――『人間』は本当に憎くてたまらないし、今も全部を殺し尽くしたいと思ってる。大好きなお姉ちゃんを、群れの皆を、殺して奪ったあの研究機関の奴らだけは、あたしの命が尽きる前に必ず全員殺すと心に誓っているわ。いつか、同じようなことが起きるかもしれない、って言って、すべての<月飼い>を放逐すべきだってグレイに進言したこともある。それくらい、『人間』は大嫌いなの。それでも――」
浴槽から上がったあと、背中越しにマシロが振り返る。紅の瞳だけが横顔から覗いた。
「グレイは、正しい。誰より強くて、誰より怖くて、誰より正しい。絶対に<狼>の存続のための判断を間違えない。そんな、絶対の信頼がある。だから――グレイの決めたことに異を唱える気はないわ。赤狼を守るためにも、ね」
あんたものぼせる前に早く上がりなさいよ、とそっけなくつぶやいて、パタン、と浴室の扉が閉まる。
浴室に一人残されたハーティアは、深いため息をついて、浴槽の中手足を伸ばして天を仰いだのだった。




