南の赤狼③
ちゃぷ……
「すごい……いつの間に…」
風呂場に足を踏み入れると、いつ誰が用意したのか、すでに巨大な浴槽になみなみと湯気が立つ湯が張られていた。感動してつぶやくハーティアに、後ろから呆れた声が飛ぶ。
「グレイに決まってるでしょ。ちょっと指を鳴らしたら、北の温泉からお湯を持ってくることなんて一瞬なんだから」
「お、温泉……」
ホカホカと気持ちよさそうな湯気を揺蕩わせる浴槽の湯は、まさかの天然温泉だったらしい。規格外のマジックを見せられたような気持ちで、ハーティアは呆然と口の中でうめいた。
「ほら、さっさと体洗っちゃいなさいよ。あんた、よくそれであのイケメンの隣にいられたわね。信じられない」
「ぅ……」
あのイケメン、というのは、グレイのことだろう。確かに見目麗しい男だ。彼と番になりたい、と言っているマシロからすれば、さらに輪をかけて信じられない、ということだろう。
ハーティアは今更ながらこみあげてきた羞恥に、急いでシャワーを使って体を洗い流す。髪を洗うと、水が茶色く濁っていく。ザリザリとした不快な感触は、逃げ回っているときについた土埃だろう。改めて、自分がいかにみすぼらしい格好をしていたかを自覚する。
「服も汚れ切っていたし……あんた、着替え、あるの?」
「な……ない、です…」
「でしょうね。……グレイ!どうせ聞いてるんでしょう!?あたしの部屋のクローゼットから、適当に持ってきてあげて!――あ!下着はだめだからね!?見たら怒るから!!」
ドアの方に向かってマシロが叫ぶ。コキッとグレイが指を鳴らす気配がした。いつものように「……ふむ」などとつぶやいている姿が脳裏に浮かぶ。ドアの前から一歩たりとも動かずに好きなものを手に入れられるのは、なんとも便利なものだ。
<狼>の生態について、人間に近しく思えても根本は大きく異なるということに、理解がどこかついていかないまま、ハーティアは体を洗いながらチラリとマシロを見る。
「あの……マシロさん」
「何?」
マシロも、隣のシャワーを使って体を洗い流している。獣耳を持っている彼女だが、体は普通の人間とあまり変わりがないようだ。
「マシロさんって、何歳なんですか?」
ぱちくり、とオッドアイが驚いたように瞬く。その後、ギロリ、と不機嫌そうな瞳がこちらを向いた。
視線が注がれるのは――ハーティアの、胸囲。
「何よ、なんか文句あるの」
「え……あ、いや、単純に気になって――」
「第一あんたは何歳なのよ」
「じゅ、十四歳です」
「十四!?人間って、十四年でそんな発育すんの!?」
驚いた声を上げたマシロは、それでもハーティアの胸に視線を注いだままだ。
(えっと――…)
本当に、何の他意もなかった質問だったのだが、どうやらこの<狼>にとってはあまり触れられたくない話題だったのかもしれない。言われてみてみれば、確かに、十四歳のハーティアよりもマシロの胸はやや小ぶりに見える。
「あ、あたしたち<狼>は、平均寿命が三百年くらいだからっ……そ、それを考えたら、実際の年齢なんて、そんな、そんなに気にすることじゃ――」
「……で……何歳なんですか…」
「――――だいたい、四十年くらい……」
「よんじゅ――……へ、へぇ…」
「何よその目は!!!!」
キッとこちらを睨んでくる紅と青の瞳は、シャワーのせいではなく涙目なのだろう。ニヒルなセスナとも基本的に不機嫌に睨みを利かせてくるクロエとも違って、どうやらこのくるくると変わる豊かな表情は、彼女の性格だけではなく<狼>社会の中では子供といっても何らおかしくない年齢だからだと悟る。言われてみればマシロの可憐な顔は、美女というよりは美少女、という表現が似つかわしい。人間に当てはめれば、十代前半、というところだろう。ハーティアとそう大して変わらないくらいの子供だ。
(それで、グレイと結婚したいとか言ってたのか……)
それは確かに、グレイにさらりとあしらわれてしまうはずである。千の齢を超えるグレイにしてみれば、幼い子供に「お父さんと結婚したい!」と言われているような感覚なのかもしれない。
「セスナさんとクロエさんは、何歳くらいなんですか?」
「さぁ……確か、クロ君の方が年上だった気がするわ。二百歳は超えてたはずよ。セッちゃんは……百歳は確実に超えてるはずだけど、二百歳は行ってないはず」
「えっ!?」
単純に、人間の寿命との相対を考えれば、クロエが意外と年上だったことに驚きを表す。外見では、どんなに年上に見繕っても三十代前半、といった様子だったのに。
「人間とは根本的に老化速度が違うんだから当たり前でしょ。あたしたちは、すぐに成体に近い外見になって、その時代がずっと続くの。人間みたいに、毎年歳とって外見が変わっていったりしないわ」
「じゃぁ……おじいさんとかおばあさんとかは、いないんですか……?」
「ほとんどいないんじゃないかしら。いたとしたら、かなり高齢の<狼>ね。四百歳とかになれば、さすがに人間でいうところの老人みたいな外見になると思うけど。三百歳くらいなら、せいぜい脂ののったおじさん、くらいの外見じゃないかしら」
「えぇぇ……」
泡立てた石鹸が目に入らないようにしながら、ハーティアが驚きの声を上げる。つまり、<狼>たちの集落には、幼子も老人もほとんどおらず、若者ばかりがあふれているということだろう。老若男女がそろった集落で生まれ育ったハーティアには、どうにも想像がしづらい光景だ。
(でも――マシロさんは、四人の中で一番下で……一番、幼い)
先ほども、獣耳をピンとたてたり寝かせたり逆立てたりと、せわしなく動かしながら感情のままに一番わかりやすく心の内を吐露していた。
(そして――一番、『人間』を嫌っている……)
もちろん、もしかしたら彼女がハーティアの村を襲った事件に関与している可能性が消えたわけではない。だが、もしそれなら、憎い人間を滅ぼすために、わざわざヒトを使う理由もよくわからない。
そう――マシロは、動機は誰よりわかりやすいが、彼女が実際にそれをしたと仮定すると、行動のいたるところに矛盾が出るのだ。
ザァ――と一足先に身体を流したマシロは、ふい、と浴槽へと足を向ける。慌てて同様に体を洗い流して追いかけ、ハーティアは浴槽に向かい合って座り、単刀直入に切り出した。
「あの、マシロさん」
「何よ」
「どうして――『人間』が嫌いなんですか?」