南の赤狼①
「――グレイ。<月飼い>を殺すことが敵の目的だったというのは本当か」
「あぁ。おそらくは」
短く返ってきた肯定の言葉に、クロエは不機嫌そうに顔ゆがめ――徐に己の指を軽く噛んだ。
(え――?)
ハーティアが疑問符を上げるより先に、クロエはピィ――!と甲高い音を立てて指笛を吹く。人間よりも聴力が鋭いであろう<狼>たちは、皆一様に不快に顔をしかめた。
「お前……せめて一言言ってから――」
コンコン
グレイが小言を口にしようとするより前に、部屋の扉がノックされた。
「入れ。――いいな、グレイ」
「――――……駄目だといっても、お前はどうせ聞かないだろう……好きにしろ」
先ほどまでの厳しさの塊だったグレイは、それが幻だったかのように半眼で呆れたような声を出す。クールな灰狼は、そんな種族の長を気にも留めずに静かに開けられた扉に向かって声をかけた。
「ナツメ。――近くへ来い。ここにいる間、決して離れるな」
「はい、クロエ」
(――――!)
入ってきたのは、クロエとおそろいのような肩口で切りそろえられた漆黒の髪と、吸い込まれるような翠の瞳を持った美しい女だった。年のころなら、二十歳前後。
ハーティアは彼女を見て――彼女の胸元に下がっているものを見て、驚愕に目を見開く。
「<月飼い>――?」
ナツメと呼ばれた女性の胸には、ハーティアが胸に下げているものと同じ、漆黒の水晶があった。
ハーティアのつぶやきを拾ったのか、ナツメはチラリとハーティアを見やり――にこ、と小さく微笑みを返した。
誰に聞いても全員が美女だと口をそろえるだろう整った造形に浮かぶその笑みは、ひどく不思議な印象を与えた。
口元、眦、頬――すべてが完璧な『笑み』を浮かべているのに――瞳だけは、何も移していないかのように、ひどく虚ろなのだ。
まるで人形のような笑みに、ハーティアは思わず続く言葉を飲み込んでしまう。
「あぁ……ハーティア。紹介しよう。ナツメ・シグファリード。東の<月飼い>の代表者だ」
立ち上がったグレイが、ハーティアの傍に立ち、なぜか苦い顔で紹介する。おそらく、クロエもナツメも、決して自分たちから紹介などしないと思ったためだろう。
「ぁ……は、ハーティア・ルナンです。北の<月飼い>です」
「――――」
にこり
ナツメはやはり、無言のまま虚ろな笑みを浮かべただけだった。
(え……な、何この人……ほ、本当に人形か何かなの……?)
挨拶の一つも返してくれない年長者に、困惑した表情を見せていると、グレイが苦笑してフォローを入れる。
「気にするな。ナツメは基本的に、クロエとしか言葉を交わさない」
「ぇ――えぇぇ……?」
「北以外の<月飼い>を見るのは初めてか?」
「う、うん……だから色々、話してみたい、って思って――」
「残念だったな。あきらめろ。ナツメに話しかけようと思うともれなくクロエがついてくる。あの三白眼に睨み殺されたくなければ、不必要に近寄らぬことだ」
「は……はぁ…」
困惑したまま生返事を返す。
クロエは、近寄ってきたナツメを引き寄せ、その腰にするりと当然のように腕を回した。
まるで、全てのものから守るように――愛しい恋人にするかのように。
「――――えぇ…と……」
「気にするな。東は特殊だと思っておけ」
「……う…うん……」
ハーティアのことを「女」とぶっきらぼうに呼んで邪魔者のように睨んできた三白眼を思い浮かべ、勝手にマシロのように『人間』が嫌いなのだと思っていた。<月飼い>も憎まれているのだろうと思っていたのだが――どうやら、それは違うらしい。
深く突っ込むな、というグレイの言外のメッセージを受け取り、ハーティアはしぶしぶうなずいた。
「グレイ。<月飼い>が狙われるなら、ナツメの命が狙われる可能性もあるんだろう」
「まぁ……そうだろうな。順に行けば、次に狙われるのは東だ」
「なら、俺は、ナツメの傍を離れない。――他の<狼>になんぞ任せられん。俺が、直接守る」
人の目など気にした様子もなくナツメの腰に腕を回して引き寄せたまま、いつも鋭い視線がギッと一層鋭くなる。文句など聞き入れないぞ、という意思表示に他ならなかった。
グレイは嘆息して額を覆う。
「苦言を呈したくなるところだが、今回ばかりは仕方あるまい。――だが、ナツメを第三者の目とは認めん。必ず、ナツメ以外の誰かの目を置くと約束しろ」
「――――…好きにしろ。俺は誰の目があろうと構わん」
「「ちょっと!!?グレイ!!?」」
ガタガタッ
セスナとマシロが、二人同時に非難の声を上げて立ち上がる。
「まさか、クロエとナツメの二人と同じ空間にいろって言うつもりか!?」
「やっ……やだやだやだ!無理!グレイ、それは無理!!」
セスナの顔は青白く、マシロはもはや涙目だ。グレイは目をすがめて嘆息し――
「我慢しろ」
「「いやだぁああああああああ!!!」」
無情な長の身もふたもない宣言に、二人ともが頭を抱えて絶叫する。
「え、えっと……グレイ、いいの……?なんだか、とっても、嫌そうなんだけど……」
マシロに至っては涙目のまま獣耳をパタンと寝かせたままプルプルと震えている。ハーティアは、飼っていた猟犬のルヴィが雷におびえるとき、こうして耳を寝かせて尻尾を垂れさせていた姿を思い出し、あまりに哀れになってグレイを見上げる。可憐な美少女としか思えぬマシロの容貌も合わさり、思わず手を差し伸べたくなってしまうから不思議だ。キューン……という幻聴まで聞こえそうな勢いだ。
しかし、グレイは顔を顰めるだけで意見を覆すつもりはないようだった。
「<月飼い>の命が狙われる可能性があるというなら、クロエがナツメのもとを離れぬという気持ちはわかる。それを引きはがすのは無理だろう。何かがあってからでは遅い。まして、相手は北の<月飼い>に手を出すような――この私の逆鱗に意図的に触れようとするような愚か者だ。周囲の誰も信じられないなら、何をおいてもそばに置き、己の手で守りたいだろう。――気持ちは、わかる」
言いながら、グレンはそっとハーティアの頬へと手を伸ばした。
「私も、必ず己の手で、何を差し置いてもお前を守ろう。ここにいる間、常に私の傍から離れぬと、約束してくれ。ハーティア」
「ぅ――うん……」
見た目だけならこれ以上ないほどの美青年の言葉に、ハーティアは心持ち頬を紅潮させてうなずく。息を飲むほどの美青年に、ここまで露骨に宝物扱いをされると、どうにも心臓がドキドキとうるさい。
(お、落ち着いて、私――相手は長老だから……!)
必死に熱くなった頬から熱を逃がしながら心の中で唱える。ハーティアは、グレイが古の盟約に従い、千年もの長きにわたってたった一人で守り通してきたという集落の唯一の生き残りだ。彼からしてみれば、ハーティアを守ることは、盟約を履行するための最後の望みなのだろう。<狼>の種族の長として、一度交わした盟約を破りたくないというグレイの気持ちは、痛いほどに伝わってきた。本人が『<狼>は義理堅い』といった言葉は嘘ではあるまい。
クロエがナツメをまるで恋人にするかのように抱き寄せたせいで、一瞬グレイの言葉にまでときめいてしまった胸をなだめる。
ハーティアとて、村長の娘だった以上、それなりに集落の中では大切に扱われてきた。だが、当たり前だが、ここまでの特別待遇で過保護に守ってもらうようなことは経験がない。まるで自分が、絵本の中のお姫様になったかのような錯覚に、ドキドキと高鳴った胸を必死になだめた。
「――私とハーティア、クロエとナツメが離れぬというなら、話は簡単だ。……セスナ、マシロ。どちらにつく?」
「「グレイです!!!!」」
全力で即答する二人は、何やら必死の形相だ。よほどクロエにつくのがいやらしい。
「グレイ、よく考えなよ。僕がクロエと一緒にいるのは良くないだろう?」
「……ふむ……?」
「灰狼に関するわだかまりが解けてない。僕がしびれを切らしてクロエに挑んでいったらどうするんだい?」
「あっ!ちょっ……セッちゃんずるい!自分だけ!!」
いきなりグレイに向かってプレゼンを始めたセスナを非難し、マシロはずいっと二人の間に割って入ってグレイの視界を奪った。
「グレイ!それを言うなら、あなたはあたしを選ぶべきだわ!」