あの日の帽子
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
わー、待って待って!
あ、つぶらやくん、その帽子取って取って〜! ふう、ありがとう。
いやはや参ったよ。あんな強い風がいきなり吹いてくるなんてさ。帽子の穴もけっこうキツめに締めていたつもりだったんだけどな。
こうして道路だったからいいけど、つり橋の上とかだったら完全にアウトだったね、こりゃ。
ああいうところ、僕苦手なんだよね。ちょっとした風でもグラグラ揺れるだろ? それで物を落としたらって思うと、どうにも落ち着かないんだ。これも高所恐怖症の一種、とでもいうのかな? その点、フードやカッパだったら、心配はほとんどないだろうけど。
帽子の歴史って、マントと並んでだいぶ古いものらしいね。
世界中で、熱気をはじめとした、身体をいじめてくる気候には事欠かない。それらを防ぐことをメインの目的に、最終的には飾りの域にまで上り詰めた道具のひとつ。
ここまで長く伝わっているアイテムだと、ちょっと調べれば興味深い話も転がっているみたいでね。僕の父親から聞いた話なんだけど、耳に入れてみないかい?
父親が学校に通っていた時分、登下校で欠かさず帽子を被っているクラスメートがいたらしい。
さすがに授業中は外しているものの、先生の目がなくなれば、たとえそれが5分休みであろうが、荷物から帽子を取り出す。そして頭に被っては授業前に外すもんで、周りのみんなからは「フェルトペン」のあだ名がついていたらしい。
髪型は別におかしくない。隠す目的でやっているわけでもなさそうで、父親としても疑問に思っていたとのこと。
ただそのうち、彼は授業中にトイレへ立つことが増える。しかも、どんどんその時間が長くなっていったんだ。
学校のトイレを使う。それも個室を、となると男子の大半から笑いものにされるのが、当時の感覚だった。そこに長便所の悪評がくっつくとなれば、恥ずかしさに顔が真っ赤になってくるところ。
にもかかわらず、彼のトイレ滞在時間は過ぎていき、ついには30分以上経っても戻ってこない日が訪れたのさ。
授業の先生は関心がないのか、それとも構いたくないのか。長くトイレにひきこもる彼のことに、まったく触れることなく教室を後にしてしまう。
父親は自分が用を足したいこともあって、最寄りの男子トイレに寄りがてら、様子を見に行く。三つ並んだ個室のうち、一番奥の戸だけが閉まっている。父親が小用を足して水を流し終えるまでも、気配がぜんぜんしない。
――もしや、トイレの中で気を失ってるってことは……ないよな?
彼がこのトイレに入る瞬間を見たわけじゃない。別人かもしれないけど、と思いながらノックするべく手を伸ばしかけたところで。
ゴン、と音を立てて、手が殴り飛ばされた。
閉まっていた個室の戸が、一気に外側へ開き、ぶつかってきたんだ。もしノックのための手を出してなかった、もろに顔面に食らっていた。
「あっ! ごめん!」
出てきたのは、やはりあのクラスメートだった。見慣れた青色の野球帽をかぶり、びっくりした顔でこちらを見ている。
父親はそれどころじゃなかった。強打された拳の甲をさするも、赤く腫れあがった皮膚からはぷっくりと血が浮き出てきて、いまにも垂れ落ちそうな気配を見せている。
「――失礼」
ぞっとするほどの低い声だった。
クラスメートが拳の上にかぶせてきたのは、例の野球帽だったんだ。ハンカチとかなら分かるけど、どういうつもりだろう。
そう訴える間もなく、父親は背筋に鳥肌が立つことになった。
帽子を被せられたその瞬間、ケガをした部分がチクリと痛むや、ぺろりぺろりと、猫の舌でなめられるような感触が襲ってきたんだ。
ものの1秒にも満たない時間だったと思う。父親が声をあげる前に、クラスメートはさっと帽子を取り除けてしまった。そこには腫れて血を流している拳の姿はなく、元通りの白い手に戻っていたんだ。
「悪いね」と短くひとこと。先ほどの声音から、いつも通りのトーンへ戻り、帽子を指に引っ掛けながら立ち去るクラスメート。
父親はというと、クラスメートが去っていく途中で、ぽつん、ぽつんとトイレに新しく垂れていく、赤い水滴に眼を奪われる。
それはあの帽子と、クラスメートの頭。帽子のかぶさっていた、こめかみあたりから飛び散っているように見えたのさ。
それからというもの、帽子のクラスメートは時間を見つけては、父親に接触してくるようになる。平素、それほど親しくもないのに、その露骨さは父親も軽く引いたと話していたよ。
――きっとあの日、あのときにやばいことを抱え込んだんだ。
あの血の飛び散る帽子と、こめかみのことが頭をちらつく。
父親は怪しまれない程度の受け答えに終始し、さっさと興味を失ってくれることを期待するけど、無駄だった。そしてそいつは、体育でうっかりこけてケガした父親に、真っ先に近づいてきて、例の帽子かぶせをしてくることさえ、あったのだという。
ケガは元通りに治るけど、グラウンドにはやはり水滴がぽたぽたと垂れ、土に吸い込まれていく。彼のこめかみも、あいかわらず血が出ているようだが、すぐに収まってしまい、またかぶりなおされた帽子の下へ隠れてしまう。
この時期のクラスメートは、授業中の寸暇さえ惜しむようになっていた。先生の目がないときなら、たとえ板書でこちらに背を向けているときでも帽子を被り、クラスのみんなにも白い目で見られるようになったよ。
例の出血に関しては、すぐさまティッシュでふき取っているようだったらしいけど。
そして冬が深まるある日。
珍しく、そいつが学校を休んだ。これまでべたべたされていた父親からしてみたら、うれしさ半分、不気味さ半分といったところ。
取り逃したゴキブリと一緒だ。白か黒か、はっきり結果が出ていないと、のどに小骨が刺さった感が、いつまでも胸の中を渦巻く。
――やっぱり、早めに意図をただしておいた方がよかったかなあ。
当人がいないと、そんなことを考える余裕ができてしまう。実際、相手がいたらこうはいかないだろうに。
結局、遅れて奴が姿を現わすこともなく、ほっとして校門を出ていくらか歩いた後。
いきなり、後ろから帽子をかぶされるような感覚があった。
けれどそれも一瞬だけで、すぐキリキリキリとこめかみが締め付けられる。顔はしかめてしまうものの、悲鳴をあげるほどでもない。そのスレスレのラインを走る痛みに、自分でも表情がヘンテコになっているのが分かるほどだったとか。
そしてこめかみから、トロリとにじむものを覚えたとき、ぱっと帽子が取り上げられた。
振り返ったそこには、今日休んでいたクラスメートの姿。帽子を高々と掲げた彼は、帽子をそのまま空へ向かって手放したんだ。
舞い上がった帽子は、しかし落ちてくることなく、空中で静止。ほどなく、つばの部分をパタパタとはためかせて、少しずつ遠くへ去って行ってしまったんだ。
帽子の行き先を見届け、はっと父親がクラスメートへ目を向けた時、彼はすでに姿を消していた。
いや、厳密には、まとっていた衣服や靴は、その場に転がっていたらしい。まるで身体だけが脱ぎ捨てられたみたいでさ。それからクラスメートが、戻ってくることはなかったのだとか。