第1章 少女
ニュータウン。
リニア・トレインの駅の周囲にショッピングセンターがある。その上に百階建のマンションがあった。地下一階から地上三階までが、大手デパートのタテジマ屋。四階五階がクリニックや事務所が入っている。六階から十六階賃貸マンション、十七階から上が分譲マンションになっている。
その十一階の一室のカーテンが開く。東向きの窓は、部屋にいっぱいの明かりを取り入れた。男はコーヒーメーカーにお湯を注いで、キッチンカウンターに乗っていた、TVリモコンのスイッチをONにした。テーブルの上には、皿に乗ったトーストと空のコーヒーカップ。テーブルの脇にネクタイが置いてある。
この部屋の主の名前は速水賢介、二十五歳。新和情報㈱営業部勤務。いつものように、朝を迎えていた。
「あーっ、飲みすぎ。あったま痛てぇ」
賢介は、前日の飲み会のことを、ぶつぶつとぼやきながら、コーヒーをデカンターからカップに注いだ。
部屋の隅にテレビがあり、朝の情報番組が流れていた。
画面には、新人アナウンサーがレポーターとして出演している。
「ハーイ石田敦子の巷の噂のコーナーですっ。わたしは今、北区に来ています。こちらには、算数ができるという大変頭のいいワンちゃんがいるそうなのですが・・・・・」
内容は、犬が足し算の数字を見て、合計の数だけ、ワンワンと吠えるものだった。
「ふーん」
賢介は、テレビに向かって冷めた目で言った。
「こちらから、以上です。明日のこのコノコーナーは、ドツキ漫才をする、犬と猿ご紹介しまーすっ!」
そこで、賢介は、
「おいおい、昨日も動物だったろっ。もう、この番組みねえぞ!」
と、ツッコンだ。
「でも、もう一回だけチャンスやるかなら、明日はしっかりやれよ」
結局、そう言って毎日見ている。
「つづいては、各局からのニュースとイベント情報の紹介です」
メインキャスターがそう言うと、画面が地方局へ切り替わり、ネクタイ姿の地方局のアナウンサーが現れた。
「まずは、最新ニュースです。現職議員による、八河町産業廃棄物処分場建設工事を発端にした贈収賄事件について、昨夜、渦中の議員が辞職しました。これは、贈賄側の建設会社社長の容疑がほぼ固まったことを受け、予算審議をすすめたい与党が、野党に歩み寄ったものと思われます。詳しくは、この後のズーム・アップで緊急特集いたします。つづいてのニュースです。昨夜遅く、旭区同心町四丁目で火事があり鉄筋コンクリート二階建の建物が全焼しました。火事があったのは、東都大学教授、雪村右能さん宅で、近所の住民の話だと、出火後、数回爆発音がしたとのことです。明け跡からは誰も発見されておらず、現在、雪村さんの行方を捜しています。警察と消防では、今朝九時から現場検証を行い出火原因を調査するとのことです。次のニュースです・・・・・」
「せ、先生っ!」
賢介は驚いた。テーブルに置いたカップのコーヒーが跳ねてこぼれた。
東都大学の雪村と、賢介の父は中学生時代からの親友だった。小柄な雪村はよくいじめられていた。賢介の父は体が大きく、いじめられている雪村を助けたことがきっかけになって二人は仲良くなった。同じ高校にかよったが、雪村は大学へ進学し、賢介の父は電気工事会社へ就職した。その後も二人の関係は変わることなく続いた。
賢介が中学生になると、家庭教師として雪村に勉強をみてもらうほど、賢介とも頻繁に顔をあわせることになった。
そして、賢介が高校入学と同時に、両親が自動車事故で亡くなり、雪村が父親がわりとなった。雪村自身も娘を三歳の時に病気で亡くし、その後離婚。二人は本当の親子のように、付き合いを重ねてきた。
「こうしちゃいられない、急がなきゃ」
賢介は、コーヒーを飲み干すと、トーストをテーブルに置いたまま、鞄を抱えて玄関へ向かった。
賢介が玄関で靴を履きかけると、ピンポーンとインターホンが鳴った。
「はい、どなた?」
そう言って、来訪者の確認もせず玄関を開けた。
玄関の前に立っていたのは、女の子だった。年齢は二〇歳ぐらいで、背中を包むようなロングヘア。服装はシルバーに黒い袖のスタジアムジャンパーに、濃紺のジーンズを履いていた。そして、真新しい白いスニーカー。
「ハ、ハイ。何か?」
賢介は、立ち上がりながら尋ねた。
「コチラは、速水賢介という男の、オウチですか?」
女の子は、活舌悪く言った。
「え、ええ。そうですが・・・・・」
女の子は微笑んで、
「ヨカッタァ。ちゃんと着きました!」
「着、着きましたって、君は誰?」
「ワタシ、伊緒」
「イオ?」
「ハイ、ワタシ、雪村伊緒ヨ」
「雪村って・・・・・」
「ワタシ、雪村右能の娘。父さんが賢介のところに行きなさいって言った。だから、伊緒来たの」
伊緒の顔は、爽やかだった。
そんなはずはない。養子でも取らなければ、雪村右能に娘がいるはすはなかった。
「君、何だか知らないが、冗談に着きあっている暇は無いんだ」
賢介は伊緒を突き飛ばすように玄関から出た。よろける伊緒のポケットからインターネットで取り出した地図のコピーと封筒が落ちた。
賢介は振り返り、
「ゴメン」
と、言って地図と封筒を拾い上げる。
―賢介君へ―
封筒には、そう書いてあった。封筒の裏に、雪村右能の名前が記されている。賢介の見覚えある字であった。
「これは?」
「お家を出るときに、賢介に渡しなさいって、お父さんが言ってたョ」
「先生が・・・・・」
賢介は、伊緒が自分を担いでいないと思い始めていた。伊緒を見るとキラキラした灰汁の無い瞳で賢介を見ている。
思わず、伊緒の雰囲気に飲まれそうになる賢介。
「と、とにかく、中に入って」
賢介は伊緒を玄関の中に入れると鍵をかけた。そして、再び伊緒を見た。
「読むよ」
「ハイ!」
伊緒は元気良く返事をしたが、賢介は、緊張を隠せなかった。
賢介は下駄箱のカウンターで封筒を軽く叩く。封筒内で手紙が下に寄っていく。そして、封の部分を手で引きちぎった。
中に便箋が入っていた。一枚目は文があり、二枚目は白紙。今時、文章を手書きして、便箋を一枚しか使用しない場合、白紙を添えて封に閉じるなんて、珍しかった。
便箋には、雪村右能の直筆でこう書かれていた。
久しぶりだね。もう三年も顔を出さないが、元気にしておるかね。
親和情報の梅田常務とは、昔一緒に研究を争った仲でね。君が元気にしていることは聞いている。
ちょいと、都合があって、私はしばらく家を空けるので、この子を預かってほしい。この子の名は、「伊緒」という。世間知らずの箱入り娘なので、外には連れ出さないようにしてくれ。
昔の好だ。よろしく頼む。
雪村
賢介はくっと顔を上げ、玄関を開けてマンションの廊下の左右を見て誰もいないことを確認し、扉を閉めて鍵をかけた。
「一体何があった?」
賢介は伊緒に言った。
「よく解からない。何のこと?」
「先生に何があったんだ!」
賢介は、そう言って伊緒に詰め寄った。いつの間にか賢介の手が、伊緒の腕を締め付けていた。
「イタイ!イタイヨ~」
身を竦めながら、半べその伊緒。
「あ、すまない」
賢介は冷静を取り戻し、伊緒の腕から手を離して、部屋に招きいれた。
廊下を抜けて、ダイニングに戻ると、賢介は伊緒に腰掛けるように薦める。
伊緒は、キョロキョロして窓の外に視線を向けると、一目散にバルコニーに飛び出した。
窓を開けると、ビューっと風が吹き込む。
「スゴーイッ!こんな高いところ初めて。いいなあ、いいなあ、空を飛んでるみたいだネ!」
伊緒はおおはしゃぎで、街を見下ろしていた。
賢介は、ダイニングの椅子に腰掛けて頭を抱えていた。
「あの~」
賢介が声をかけても、伊緒には聞こえていない。
「あの~。伊緒さん?」
名前を呼ばれて、伊緒が振り向く。
「伊緒さん、ちょっといいかな」
「え、ワタシ?」
「そ、そうだけど・・・・・」
二人しかいない部屋で、賢介が声をかけるのは伊緒一人である。「ワタシ?」って聞く伊緒って一体何者なんだと、自分を疑いたくなる賢介だった。
部屋に入る伊緒。
「あのね、賢介。ワタシの名前は、イオサンじゃないヨ。伊緒、イオだよ。間違えないでネ」
「えっ。ああ、そうだったね。伊緒?」
「ハイ!」
「とりあえず、この椅子に座って」
「ハイ!」
伊緒は、賢介の見る目もお構いなく、自分のリズムで接していた。伊緒が健介の対面の椅子に腰掛ける。
「座ったヨ」
(さて、何から切り出そう・・・・)
賢介は、自分とは周波数の違う娘をどう話をしたらいいのか考えていた。
「あっ!」
伊緒が急に声を上げる。
「な、なんだ?!」
「これ!」
伊緒は、テーブルに置いてある、コーヒ―メーカーを指した。
賢介は、
「ああ、これ。飲む?」
そう言って賢介は、後ろのサブキッチンからコーヒーカップを取り出す。デカンターからゆっくりとコーヒーを注ぐ。
「はい、これミルクと砂糖」
賢介は、伊緒の前に小瓶を2つ出した。
「・・・?」
伊緒は、首をかしげて、ミルクと砂糖の瓶を交互に見て、再び賢介の顔を見た。
伊緒はニッコリ微笑んだ。
「いただきまス!」
コクッ、コーヒーを一口飲んで、伊緒の動きが止まった。
伊緒がカップを机に置く。口が「あ」の字に開いたまま、舌がビリビリ震えている。
「ニ、ニガウィ~」
「コーヒーは、初めてか・・・・・?」
「ヒッドイィ。これうがい薬でしょ!」
伊緒は、提灯ふぐのように、頬をふくらませて怒った。
「飲み物だよ」
まじめに答える賢介。
「お口、ニガニガ・・・・・」
「ちょ、ちょっと待って」
賢介は立ち上がって、キッチンに向かった。冷蔵庫をかけて、牛乳パックを取り出す。
「伊緒、ミルクは飲めるか?」
伊緒は、キッチンカウンター越しに、少し背伸びをして、ミルクであることを確認した。
「うん、大好き♪」
賢介は、愛想笑いをして、マグカップにミルクを注いだ。
「ホットにするかい?」
「ホット。ホットが好き!」
「OK、ちょっと待っててな」
賢介はそう言って、ミルクの入ったマグカップを電子レンジに入れた。
チン!
温まったミルクが伊緒の前に運ばれる。
「ありがとネ♪」
カップを置いた賢介が再び腰掛ける。
「フーフーッ」
ミルクを覚まそうと、伊緒はミルクに息を吹きかける。そして、一口飲んだ。
「アチッ」
「ゴメン、熱かった?」
伊緒は、微笑んで、
「ダイジョウブ、ダイジョウブ」
と、微笑んだ。
「伊緒」
「なあに」
「雪村先生のことだけど・・・・・・」
「はい?」
賢介は、少し考えて言葉を選んだ。
「雪村先生が、伊緒に俺を訪ねろと言ったことに関して、何か心当たりはないのか?」
「ないよ。フーフー」
伊緒は、あっさりと答えて、再びミルクを冷まそうとしている。言葉に詰まる賢介。
「もう、いいカナ」
コクコク、コクコク・・・・・。
「アー、おいしっ♪」
賢介は、伊緒が雪村を心配しているようには見えなかった。
賢介は、立ち上がり、寝室へ向かった。アドレス帳に雪村の大学の住所と電話番号が記されている。警察へ確認を取りたいが、雪村からの手紙と伊緒の存在が気にかかり、まずは大学に連絡してみることにした。
トルルルッ、トルルルッ・・・・・。
リビングの隅で、電話のコール音が鳴る。
ガチャ。
「ハイ、雪村です。じゃない。えーと、速水です」
「・・・・・」
「えっ、賢介。チョット待ってネ。賢介、電話だヨ~!」
伊緒に呼ばれて、賢介が寝室から出てきた。
「打目じゃないか、勝手に出たりして」
「ナンデ?二人しか居ないんだから、電話に近いワタシが電話に出るの当たり前でしょ」
自分の正当性を主張する、伊緒。よく見ると、受話器を手で押さえていないので、相手に全て聞こえている。
「判ったよ!」
賢介は、一旦この問答を終わらせることにした。伊緒の手から受話器を取ると、受話器を手で押さえる。
「それで、この電話、誰から?」
「えーとね、ダチョーの卵だって」
「ダチョー・・・・・?」
賢介は眉間にシワをよせて、首をかしげた。いずれにしても、電話に出なくてはならない。賢介は受話器を耳に付けた。
「もしもし・・・・・」
「お前の上司のダチョーだが、何やっての?」
「た、玉木課長!」
電話の主は、賢介の上司だった。
「速水ィ~。朝礼、終わってんだけどね。」
玉木は、含みある低い声で言った。
「えっ、もうそんな時間ですか。すみません」
「なんだかなあ。仕事より夢中になることでもあったんかねぇ」
「あっ、いや、そうじゃないんです。誤解ですよ」
「まあ、いい。それで、速水社長様は何時にご出勤いただけるのかなぁ?」
「そ、それが、緊急事態が発生しまして、今日はお休み頂戴したいんですが・・・・・」
「速水、お前アルバイトでウルトラ警備隊にでも、所属しとるんかぁ?」
「は、はははっ。違うんですよ。恩師のお嬢さんが来ているんです。実は、その恩師が行方不明になってまして・・・・・」
「・・・・・・。ホントか?」
「本当ですよ。私が課長に嘘をついたことがありますか?」
「そうだな。すごくあるけど、たまには無いな」
「課長~。いじめないでくださいよ」
賢介は、懇願する。
「どうしても、休み欲しい?」
「お願いします・・・・・」
「いいよん/。昼飯代二回と、朝の缶コーヒー向う一週間!」
「どっちかになりません?」
「缶コーヒー、十日に追加!」
「わ、わかりました。昼飯代二日と缶コーヒー十日ですね」
「はい、交渉成立。ゆっくり休んでね~」
ガチャリ。
玉木は、それだけ言うと、さっさと電話を切った。
「やっぱり、誤解されている」
どう考えても、口止料を請求されたと考えられる。
「どうしたの、賢介げんきがないよ?」
伊緒が賢介の顔を覗き込む。
「伊緒が気にすることじゃないよ。でもね、この電話は、鳴っても出なくていいから、俺が出るからね、判った?」
「うん、判った」
「それじゃ、戻って腰掛けていて」
「はーい」
伊緒は、席に戻って、食べかけのパンを再びかじりはじめた。
賢介は、一旦電話を切って再び受話器を上げた。東都大学の雪村右能の研究室にかける。
「あっ、私、雪村先生の知り合いの者で、速水賢介ともうします。・・・・・。ええ、そうです。以前、何度かお伺いした・・・・・。火事の件はご存知ですか?・・・・。そうですか、雪村先生から連絡は・・・・・。判りました」
そして、賢介は電話を切った。
賢介は考えを巡らせながら、伊緒の対面に座った。
「伊緒」
「ん、なあに?」
「昨日のことをもう一度聞きたいんだが、いいかな?」
「イイヨ」
「昨日、伊緒が家を出る前のことが聞きたいんだ」
「どれくらい前から?」
「どれくらいって・・・・・」
「一分?一時間?一日?一週間?一ヶ月?」
「えーと、一時間。一時間ぐらい前からでいいよ」
賢介は、伊緒の質問を当然と思いながら、変わった質問をする人だと、一瞬不思議に思った。
「わかった。ワタシが家を出たのは、昨日の午後十時二十一分。その一時間前、午後九時二十一分から話をするね」
伊緒の細かい時間の言い回しに、伊緒に対する賢介の印象が変わろうとしていた。
伊緒が軽く深呼吸をした。そして右の耳の辺りの髪を二度かき上げると伊緒の表情が変わった。今まで、明るかった表情が全く無くなった。怒りでなく、悲しみでなく、何の感情も無い冷たい表情に見えた。
伊緒が、口を開く。
「午後九時二十一分、洗面室の時計。ワタシはお風呂から上がって着替えを終わりました。その二分後、髪の毛をドライヤーで乾かし始めました。髪の毛は完全に乾きませんでした。九時二十八分、洗面室を出て、キッチンでコップ半分のお水を汲んで、自室へ。途中、お父さんの部屋の前を通りました。扉が開いていたので、お父さんにお休みを言いました。お父さんは、何か文章を書いていましたが、ペンを止めて、おやすみと言ってくれました。九時三十五分。自室に戻ったワタシは、コップの水を飲み干してデスクの上に置いたときに、カーテンが閉まってないのに気が付いて、窓へ行きました。窓から見える通りに歩いている人が二人いて、一人はフラフラと千鳥足で歩いていました。ワタシはカーテンを閉めて、部屋の明かりを消しました。午後九時四十分。ベッドに入って就寝しました」
伊緒の説明は、まるでビデオカメラのように、詳細まで記憶されていた。
「よ、よく判ったよ。それから、目が覚めたのは、何時?」
賢介は、静かに聴いた。伊緒は、考える時間もなく、続きを話し始めた。
「ワタシが起きたのは、午後十時六分。お父さんに起こされた。部屋の明かりをつけようとして、お父さんに止められたの」
「なぜ?」
「よく解らない。でも、これから、とても大切なことを話すから、必ず父さんの言いつけを守りなさいって言われた」
「どんなこと?」
「うん、最初に紙と封筒を渡された。この地図を見て、賢介を訪ねなさいと言われた。封筒は直接賢介に渡すようにと言われた。お父さんが部屋から出たら、着替えて裏口の扉の横に隠れていなさい。そして、表のシャッタ―が開いて、車が家を出たらクラクションを短く二回鳴らす、その音を聞いて一分後に裏口から出て賢介の家に向かいなさい。賢介のところに着いたら、しばらく居なさい、賢介の言うことをよく聴いて、騒ぎにならないようにおとなしくして居なさい。と言って、ワタシの部屋を出て行きました。ワタシはすぐに着替えて、十時十七分に部屋を出て、裏口に向かいました。十時二〇分、ガレージの電動のシャッターがゆっくり開いていく音がして、車の発進音と同時にクラクションが二度なりました。車が家を出たときに、うわっ!という男の人の声が聞こえました。それから、一分後、ワタシは家から出ました。以上です」
伊緒、一時間の記憶を話し終えると、静かに目を閉じた。しかし、再び目を開けると、さわやかな笑顔に戻った。
「えへっ、どうしたの♪」
「あっ・・・・・」
賢介は、伊緒をボーッと見ていた。伊緒に言われて我に返る。
「ありがとう、伊緒」
「よく解かった?」
「そうだね。状況は解ったけど、原因が判らない」
「原因?」
「雪村先生は、誰かに狙われていたのかもしれない。伊緒が自室に戻る前に先生が書いていた手紙は、もしかして、先程伊緒から貰ったあの手紙かもしれないな。事前に何かが起きることが判っていたのかも・・・・・」
「何かって?」
伊緒は、ミルクを飲み干して言った。口の上の産毛にうっすらと白髭のようにミルクが着いている。賢介はテーブルの上のティッシュペーパーを一枚取って伊緒に渡した。
「ナニ?」
「ここ」
賢介は、自分の鼻の下を指した。
賢介の動きが理解できず、首を傾げる伊緒。賢介は窓を指すと、伊緒も視線を向けると
自分の口の上が、白くなっているのに気が付いた。
「あっ、お父さんみたい。キャハハハ」
大ウケの伊緒。
「いいから、拭くう!」
賢介は、ティッシュペーパーを伊緒の前に置いた。そして、気を取り直して、話を続ける。
「とにかく、原因究明が先だ。何かのトラブルに巻き込まれているのかもしれない。この際、先生の安否は一旦警察に任せるしかない。火事の件で先生を捜索するはずだからな。伊緒、この数日もしくは数週間、数ヶ月の間で、先生が何かのトラブルに巻き込まれていた様子は無かったか?」
「よく、解らないヨ」
「それじゃあ、見慣れない人が訪問に来たとか、不振な電話があったとかは?」
「それなら・・・・・」
「あるのか?」
賢介は立ち上がった。
「んもうっ、ツバ飛んできたヨ。キタナイ!」
伊緒は、賢介から顔を背けた。
「そんなことより、どうなんだ」
「一週間前、先月の三〇日の午前十一時四十五分に電話があった。ワタシが最初に出た。早乙女という女の人からの電話で、お父さんに繋いだけど、ずっと怒って話をしていた」
「どんな、内容だった?」
「もう、その話は終わっているとか、いずれ誰かがやることになるだろうが、私自身がこの研究をこれ以上進める気はないと、言っていたヨ」
「他に、何かないか?」
「今月になって二回。早乙女という人から電話があった。一回目は三日午前十一時、
二回目は四日の午後六時二十分。二回とも、お父さん怒っていたヨ。二回目の電話で、交渉無用、二度とこの件で電話をしてくるなと、言っていたヨ」
「この件・・・・・。伊緒は先生のこの件という部分に心当たりはないのか?」
「判らない」
「う~ん、判らないことが多いな」
「伊緒、伊緒と先生が家に一緒にいる時間はどうだったんだ?」
「ずっと、一緒に居たよ」
「ずっと?」
「うん、この一ヶ月ずっと家に居た」
「一ヶ月ぅ!」
賢介は驚いていた。確かに、雪村の敷地は広かったが、健康な人間が一ヶ月間も外出しないなんて考えられなかった。
「一歩も出ていないのか?」
「うん」
伊緒は、普通のことのように返事をする。
「食事は、どうしていた?」
賢介の質問は当然だった。どう考えても、食事の問題があった。
「食事は、最初は私が作っていた。いつからか知らないけど、たくさん買い貯めしていて、庭の家庭菜園の食材も入れると、二ヶ月ぐらいは食材に困らなかったと思う。ワタシの料理おいしいヨ」
賢介は、異常と思った。雪村のとった行動はまさに篭城である。
「伊緒、先生は大学に行ってなかったのか?」
「大学の研究室には、行っていたけど、一日の大半は大学と違う研究所に行ってた」
「違う研究所、それは、どこにある?」
「どこ・・・・・?」
伊緒は、首を傾げて右の耳上の髪を二度髪をかき上げた。
「場所は知っているけど、なんと言うところか知らない」
「おおよその住所、例えば何区とか・・・・・」
「判らないヨ。ワタシ、いっぱい、お話して、喉渇いちゃった。もう一回ミルク欲しい」
そう言って、カップを差し出す。
「あ、ああ、気が付かなくてゴメン。今、用意するから」
賢介は答えて、カップを持って冷蔵庫に向かった。
ミルクをカップに注いで、電子レンジで暖めた。
賢介がテーブルに戻ると、伊緒はうつ伏せになって、眠っていた。
「伊緒、伊緒。風邪引くぞ」
賢介は伊緒の背中をさすったが、伊緒は眠ったままだった。
温まったミルクを見つめて、
「仕方が無い」
そう言って微笑んで、自分で飲んだ。
賢介は伊緒を抱きかかえて、ソファに運んだ。伊緒をソファに下ろした時に、足元に赤いものが見えた。よく見ると、靴下から血が滲んでいた。
賢介が靴下を脱がせると、伊緒の左足の足の裏と足首の裏のほうに肉刺がつぶれた跡があった。
「こ、こいつ、歩いてきたのか・・・・・」
賢介は、伊緒が一晩中歩いてきたことに気づいた。
賢介は車を走らせていた。赤いメタリックの軽ワゴンが日差しを輝かせている。ハンドルを持つ賢介の頭の中は、情報の整理にめまぐるしく動いていた。
伊緒が寝ている間に、雪村邸の火災現場に行っていた。火災現場は、現場検証中で当然中には入れなかった。雪村にとって身内でもない賢介に、警察消防関係者からの情報が入ることはありえなかった。しかし、近所の人の話だと、昨夜午後一〇時二〇分頃、雪村の乗った車が勢いよく屋敷を飛び出し、そのときに、黒い服の男をかすめたというのだ。この男が、伊緒が言っていた声の男だろう。それにしても、そのときの事故届が出ていない状態らしく、警察がその男も捜しているということだった。間違いない、賢介は、雪村が何かのトラブルに巻き込まれていることを確信した。その一方で、早乙女という女性に対しての情報は入ってこなかった。
「電話、研究、早乙女という女、黒い服の男・・・・・」
やはり、伊緒の言っていた研究所が関わっていることに結論に達した。
「場所は知っているが、住所が判らないといっていたな・・・・・。あっ!」
賢介は、伊緒が地図ひとつで、賢介の家にたどり着いたことを思い出した。ロードマップを見せれば、おおよその位置ぐらいは特定できるだろう。例え、エリアさえ確認できれば町名前だけでも判れば、研究施設などという特殊な建築物は簡単に探せる。賢介は、自宅に向かってアクセルを踏み込んだ。
車は国道から左折して河川沿いの道を走る。右折して一方通行の小橋を渡り、まっすぐ道を登ってと駅前のロータリー近くの交差点に出る。そこから、賢介の住むマンションの駐車場まで、信号五つ。ロータリーを3/4周して、地下駐車場に入るのだが、五つの信号がちぐはぐに変わり、路線バスやタクシー、路上駐車で一日中渋滞している。
左に並んでいる小売店。もう見飽きたと言っていいほど、渋滞するたびに眺めている。
八百屋のおばちゃん。魚屋の若旦那。この辺りが相変わらず威勢がいい。その隣が、この前靴屋から入れ替わったケーキ屋はなかなかの評判の店。味に加えデザインもきれいで、フランスの何とかコンテストに入賞した、二枚目ケーキ職人がいる。いつも若い奥様連中が並んでいる。花屋、喫茶店、本屋にパン屋。そして、肉屋、最後の角に交番。毎度の渋滞で、賢介は各店の張り紙をほとんど覚えてしまった。その張り紙の一枚を、賢介は生唾を飲んで通り過ぎる。
「高級国産黒毛和牛カルビ超特価二千円。もう一年も超特価続きだな・・・・・。ハア~。たまには食べてぇなあ。」
「この超特価の牛カルビ、三百グラム下さい」
肉屋の店先で、賢介が買えない肉を気軽に求める女性の姿があった。
肉屋の大将が肉を包装して、ショーケースの横をグルッと回って表に出た。
「毎度あり」
大将が肉の入った包みをお客に渡す。
「おねいちゃん、見かけない顔だね。最近、越して来たんかい?」
「ハイ、そこのマンションに住んでます。よろしく、お願いしますネ♪」
「おう、困ったことがあったら、いつでもいいな!」
と、大将が答えた。
「アリガト!」
そう言って、女性客が店を出た。
次の瞬間、賢介は驚いて縁石に乗り上げ、肉屋の立看板を倒した。
「あーっ、賢介っ!」
肉屋の客は、伊緒であった。
肉屋の大将と交番の巡査が飛び出してきた。
「す、すみません」
賢介が、肉屋の大将に頭を下げる。
「物損ですね。これ、どうします?」
巡査は事務的に肉屋の大将の問いかけた。
「物損。いいよそんなの。ニイちゃん、気にするな」
「それでは、示談成立ということで、調書はとりませんので、これで失礼します」
巡査は、交番に戻った。肉屋の大将も看板を起こすと、店に戻った。
「賢介、運転中は気をつけなきゃダメヨ」
伊緒は賢介を指して言った。賢介は、頭を抱えた。
「あのな、伊緒。雪村先生から表に出るなと支持を受けているだろ。ダメじゃないか勝手に家を出ちゃ!」
賢介は、少々荒っぽく言った。
「お買い物ヨ」
「お買い物って、あのなあ・・・・・」
呆れる賢介。
「これ、夕飯の食材。賢介カルビ好き?夕飯はカルビ丼だよ」
伊緒は、買ったばかりのカルビの入ったビニール袋を賢介の前に出して微笑んだ。
「そういうことは、いいから・・・・・」
「賢介、カルビ嫌い?それじゃあ、返品して第二候補の卵丼にするね」
伊緒は振り返って、再び肉屋に向かった。
すかさず、伊緒の腕を掴む伊緒。
「?」
振り向く、伊緒。
賢介は、泣きそうな目でこう言った。
「ま、まて。カルビ丼でいい・・・・・」
日は落ちた。街は星屑を散りばめたように輝いていた。
トントントントン・・・・・。
むさ苦しい男の一人部屋に、軽快な包丁裁き。キッチンには、この家に不釣合いな、見慣れない景色が広がる。
賢介はリビングのソファに深く座って、野球中継を見ている。しばらく見ていたが、賢介はリモコンをテレビに向けてスイッチを切った。
「伊緒ぉ~」
「はい。チョット待っててネ」
伊緒は盛り付けをしながら、チラッと賢介を見て返事をした。
「はい、出来上がりネ!」
伊緒は盛り付けを終えたばかりの丼の器を両手に持って、賢介に一瞬見せて、ダイニングテーブルの上に置いた。
賢介は、はやる気持ちを抑えながら、ゆっくりと席に着いた。
「す、すごい!」
甘味と旨味が、湯気となって立ち上りながら、鼻から入って口の中で踊る。賢介は、カルビ丼の香りだけで、腰が砕けそうになっていた。
「はい、これも」
伊緒は、続けてお吸い物とう巻きを出した。
「そして、これ」
伊緒は、ボールの形をした皿に、ポテトサラダをたっぷり作っていた。
「チョット作りすぎちゃったカナ。エヘッ」
伊緒は恥ずかしそうに、舌を出して笑った。しかし、賢介の耳に伊緒の言葉はとどいていない。
「いただきますっ!」
賢介は、そう言って丼を持つと、丼に顔を埋めるような勢いで掻きこんだ。伊緒は、その様子をポカンと口をあけたまま見ていた。
「ぷは~、旨かった。生きててよかった~」
賢介の表情は、蕩けていた。
「賢介」
「ん?」
「そんなに、美味しかった?」
「おおう。伊緒、おまえ料理上手だな」
「ホント。ヨカッタァ~。もっと食べる?」
「お変わり出来るのか?」
「うん。全部四人分作ったから」
伊緒は、そう言って賢介からきれいにカラになった丼を受け取ってキッチンに立った。
賢介は、カルビ丼を一杯平らげ、テーブルに並ぶ各料理の量について、少々多いことに気が付いた。
「どうして、四人分なんだ?」
賢介は素朴な疑問を伊緒にぶつけた。
伊緒は、再びカルビいっぱいの丼を賢介の前において着座した。
「だって、賢介のパソコンに入っていたお料理ソフト、ぜ~んぶ四人分の量だったんだもん。う巻きとサラダも四人分ダヨ」
そう言って、伊緒はポテトサラダを小皿に取った。
「パソコン?」
賢介の箸が止まる。伊緒はカルビ丼に箸をつけた。
「あっ、美味しい。こっちはどうかな・・・・・」
伊緒は、ポテトサラダを少し摘んで口にした。
「ふにゃ~。こっちも中々ですネェ~。おいちっ(おいしい)」
と、伊緒は両手を頬に添えて満面の笑みを浮かべた。
「ちょ、ちょっと、伊緒」
「なあに」
「さっき、パソコンの料理ソフトって聞こえたんだけど・・・・・」
「うん、そう言った」
伊緒はキッパリと答えた。
賢介は、再びカルビ丼に箸を付け、一口味わってから、う巻きとポテトサラダもそれぞれ一口食べた。
そして、お吸い物を一気に飲み干した。
「全部・・・・・うまい・・・・・」
「ありがとっ♪」
伊緒はマイペースで、楽しそうに食事を進めていた。賢介は伊緒の記憶力や理解力が高いと感心していた。
「ところでさあ。伊緒は何歳なんだ?」
「ナンサイって、ナニ?」
「年齢だよ。伊緒が生まれて、地球が何回、太陽の周りを回ったかってこと」
「ああ、一年が三六五日。生きていた日数割る365ネ」
「ま、まあ、そう」
賢介は首を傾げた。どう考えても、ふざけているとしか言えない伊緒の返事。でも、そんな、遠まわしな性格に見えない。
賢介は、お吸い物をゆっくりと飲んだ。
「あのね、ワタシ四歳」
伊緒は、悪意も悪気も無く答えた。賢介は、お吸い物を噴いてしまった。
「賢介、きたないヨ」
「あのなあ・・・・・」
「チョット、待って!」
コトッ
外の通路で音がした。伊緒はその音を聞き逃さなかった。ゆっくりと立ち上がり、外部の通路に面している部屋に入って外部の様子を感じ取った。
伊緒は、ダイニングに戻るとバルコニー側のカーテンを全部閉めた。
「どうした?」
賢介が、急に席を立って動き回る伊緒に尋ねた。
伊緒は椅子に腰掛けて、賢介の瞳を見た。
「賢介、ご近所付き合いはいいの?」
「何だい、突然。右は新婚の夫婦。共働きで帰りが遅い。一戸建を買うんだって張り切って金貯めているよ。二人とも後2時間ぐらいしないと帰ってこないな。右はおばあちゃんが一人で住んでたんだけど、一昨日、息子と同居するって言って引っ越したよ。、高血圧なんだと」
「そう・・・・・。賢介」
「ん?」
「チョット話があるけどいい?」
「・・・・・」
伊緒は賢介の耳元で囁く。伊緒の話を聞いて賢介の持っていた箸は、手から滑り落ちた。
闇の中。水平に直線を描きながら煙が続いている。
シュルルルル~~~ッ。
まるで、流れ星のように進む物体は、真っ直ぐ賢介の部屋に向かっていた。賢介の対面のビルの非常階段から、ロケットランチャーが放たれていた。
ガラスの割れる音がして、チカチカと一瞬光ると、轟音とともに内側からマドが弾けた。もくもくと黒煙が立ち上り、室内一面炎に包まれた。




