AM5時
真っ暗だった部屋が自分の望みとは無関係に優しくゆっくり瞼を明るさに慣らしていった。
スマートフォンをいじりつづけて何時間が経ったのだろう。
ネットサーフィン、ゲーム、SNS…
隣の部屋で寝ている両親にも妹にも知られないように寝たふりをし、ただひたすら暗い部屋の中で用事もなく過ごしていた。
朝が来るのはとても苦しい。
これといって特に貯金はないが働いていた会社は反りが合わないという理由だけで先行きが不透明だと言って辞めてきた。方々から借りている金があるにも関わらず。
・次の仕事をどうするか
・先々やってくる生活費や支払いはどうすればいいのか
・家族とはどうやって振る舞えばいいのか
何も意欲が起きないことがこんなにも力を使うものなのか、とこの状況になって初めて感じた。
朝方寝て、昼過ぎに起きる。そうすれば一週間のうちの半分ほどは毎日一所懸命に仕事に出ている家族と顔を合わさないから何も詮索されないで済む。
なんとなく目覚めて、特に用意されているわけではない食べ物を探すことから一日が始まり、ある程度腹が満たされたら自室に戻りまた眠りにつく。
22時ごろ目覚めたら家族がいないところで自分の気配を精一杯の力で殺して夕飯を済ませ、そそくさと自室に戻り、その繰り返し。
(自分は一体何をしているんだろう。)
(なんのために生きているんだろう。)と毎日毎日自問自答の繰り返し。
嫌なことや不公平に感じたことがあると決まって思い出すことがある。
あまり正確には覚えていないが今から7,8年前…といったところだろうか。
池袋駅や大通りから少し離れて人通りも落ち着いた所を買い物から帰ろうとしたところだった。
「あれ?種田じゃない?久し振りー!やっぱそうだよ!お、相変わらずダメっぷりが出てるなー!いや、その軽い感じは逆にいいことなのかな?まぁいっか!どう?元気?」
2年ほど前にアルバイト先が一緒だった時の中川先輩だ。
周りからはあまり良い評判は聞いていないが、利口なバイト仲間達は、年上とのバイトを円滑に済ますため「耕介さん」と呼んでいた。
音楽の専門学校に通い、今はアーティストを目指しているとのことだが、これといってトレーニングをしているとかライブハウスで歌っているとか、所謂、夢に向かっているような話を聞いたことはなく、もちろん見たこともない。
アルバイト時代にも、会話はしていたのだが、元々会話が弾むというよりもとにかく一方的だった。
今の音楽界を制するには如何にしてキャッチーなメロディーをくっつけられるかが大事。それなら歌詞はなんでもいいんだよ。という話から、仕事にしてもその心持ちがないなら仕事に対しての熱や姿勢も違うんだよ、などと持論を押し付けられることが多かった。
言っていることと実際やっていることの温度差や、結局アルバイトの話が大半を占めるから、この人は理想しか語れないクズ同然だな、あんたはずっとアルバイトだけしてればいいさ。なんてことを感じたことがきっかけでそれに呼応して自然と体が避けていたのだが、あまりに唐突だったし、何よりいきなり失礼なことも言えないだろうと冷静になり、ひとまず会話だけは合わせてみた。
「あ、どうもおひさしぶりです。俺は相変わらずですね。中川さんは元気ですか?あれからどうですか?」
「あー、俺?俺は、あー、いいんだよ。うん。普通、普通。今まで通り。それよりさ、今から少しだけ飲みに付き合ってよ。一時間だけでいいからさー。頼むよー。暇なんだよー。」
「え?」
当時を振り返るとなんであの時中川先輩の誘いに付き合ったのか。今でも信じられないが、嫌悪感を体全身で感じたにも関わらず口から出た答えはただ単に何も考えていなかっただけなのかもしれない。
「一時間だけならいいですよ。それぐらいなら遅くならずに済むんで。」
「お!いいねー!あの頃はアル…、仕事の後に誘ってもほとんど来なかったのに付き合い良くなったじゃないか!なら、あそこの小さい店でいいか!」
たかだかアルバイトのことをわざわざ「仕事」と表現するのも相変わらずだ。アルバイトと言えど多少のプライドがあったのだろうか。
そんなことは関係ない、さっさと終わらせて帰ろう。そう思った。
「この後予定があって時間がもったいないんで早く入りましょ。」
もちろんこの後の予定など、ない。
「そうだな。」
中川先輩の少し左後ろを歩く形で向かって行った。
ガラガラと開いた引き戸を入って行くと、二名掛けのテーブル席が三組、壁側に並んでいる。右側には口元目元には接客の時に浮かび出る皺が50代ほどに見える黒色短髪の威勢の良い男性が立っていた。
正に『居酒屋の大将』と言う言葉がぴったりだ。
ねじり鉢巻なんかしていてくれたら言うことない。
「いらっしゃい!今はまだ誰も来てないから好きなとこ座っていいよ!今日は予約もないからさ!」
「じゃあ入ろうか」と言いながら中川先輩は左奥のテーブル席に向かい、入り口側の席に座った。
中川先輩の持っていた荷物が邪魔になり、奥の席に向かいにくくなった。
(先に行ったんだから奥に行けば良かっただろ…。やっぱりこの人とは合わないな。)と思いながらも一時間だけだから、と何も言わずに席に着いた。
「種田、何飲む?」
メニューを見ながら尋ねてきた。
「とりあえず、生でいいんじゃないですか?」
「種田、いや、ちょっと待て。大将!」
なんでですか?と聞く間も無く、大きく手を挙げて、まるで以前ここに来たことがあるかのような馴染みのような親近感を感じさせる声を出した。
「あいよ!」とカウンターから威勢の中にも同じく親近感を感じさせる声が返ってきた。
「ここのオススメは?」
「焼鳥だ!オススメは塩だな!やっぱ焼鳥はそのままの味が活きる塩が一番だよ!タレもあるけどにいちゃん達はどうするかい?」
「うん。じゃあビールだな。焼鳥、塩でいいよな?種田、タレも食いたいか?」
と、聞いてきた。
「あ、はい。」
特に何も考えず、なんとなく答えた。
「じゃあ大将!生を二つと、ハツとつくねとネギマを塩とタレで一本ずつ!」
「あいよ!十秒で持ってってやるぜ!」
少しして、切り干し大根が入った小鉢とビールが出てきた。
「急でありがとな、ってことで、おつかれ!」
「おつかれさまです。」
ジョッキで軽く音をさせた。
ゴクッと喉を鳴らし、鳥を焼いている音を聞きながら、さっきの注文前に気になったことを尋ねてみた。
「あの、なんでビール頼むのを少しためらったんですか?」
「あー、あれか?あれは単純に大将のオススメが聞きたかったんだよ」
「初めての店ではいつもオススメを聞くんですか?」
「いや、いつもはしないさ。でもよ、だって今日は一時間って時間で美味しく帰るんだからよ、オススメに合ったものを飲みたいだろうよ。」
「へー…すごいですね。」とジョッキを手にした。
店に入るまでのたった何十秒で自分の欲求をフルに満たすために頭が回ったのか。と純粋な気持ちで感心した。
「新鮮な刺身にビール?そんなの俺は嫌だね。」
「俺は嫌じゃないですけどね。」
なんだか想像していたよりも今日は会話のやり取りができそうな気がしていた。