消したくて消せない
四月七日・曇り
入学式。憧れて入ったこの高校で、私はどんな三年間を過ごすのかしら。垂れ幕に施されている、椿を模した校章は、なんて立派で素敵なのかしら。
――― 中略 ―――
隣の席に座った子は、真面目そうな子だった。日本人形みたいに目鼻立ちが薄っすらしていたけれど、私はその子を可愛いと思った。目が合うと、逸らしてしまったので、私も恥ずかしくて俯いた。
明日は仲良くなれるかしら。
四月二十六日・晴天
体育の授業で、あの子とペアを組んだ。髪の香りを褒めてくれた。
自転車でドラックストアへ向かうのは、気分が良かった。
春の風がスカートを煽って、「めくれちゃうよー」なんて言って、笑った。
鳴海さん、鳴海愛子さん。
私達の名前には、愛がお揃いで入ってるんだ。
六月九日・曇りのち大雨
どうしよう。どうして? ドキドキして、どうして? 熱い。どうしたら――― 中略 ―――私どうしてしまったの?
今日は鳴海さんが学校を休んだ。
ちょっと蒸し暑くなった前日の熱気に油断して、布団もかけずに寝たんですって。
私は一日中寂しくて、下校時間に突然振り出した大雨に泣きそうだった。
いつも使わない、下駄箱に忍ばせた折り畳み傘は、軋んでちっとも開いてくれなかった。
困っていると、先生がやって来た。
独身の、少し若い先生。でも、私よりかはずっと年上の、先生と言う生き物。
初夏の大雨と湿気にむせ返る程に湧き立った、土の香りの中、初めて嗅ぎ分けた、男の人の匂い。
先生はひょいと私に寄って来て、「貸してごらん」と手を出した。
私はその大きくてゴツゴツした手に、土間玄関で、彼と二人きりなのを強く意識した。
難なく傘を開いた先生。湿気て張り付いた傘の布が、一気に剥がれる音に私は身を竦める。
学校には女の子がたくさんいるのに、どうして誰も彼の魅力に気付かないのかしら?
傘の内側から、片目だけで追った。
校舎へ消える、先生の背広の背中。
――― 以下割愛 ―――
九月十三日・晴
夏休み、寂しかった。補修にワザと出てみたけれど、先生はうちわを煽いで「暑い、暑い」と上の空。
待ち望んだ二学期が始まると、私はとうとう打ち明けてしまった。
誰かに、知って欲しかった。先生を好きな自分を。
胸の内を明かすのは、荷物を一つ降ろす様だった。
私の大好きな女の子が、あまりにも真剣に聞いてくれるから、私は涙ぐみそうになりました。
先生がどんなに素晴らしいか話すのは、とても気持ちが良かった。
私だけが見つけた先生を、私が独り占めしている気分。
だから、私と先生に関わる事全てに、絶対に触れてほしく無い、なんて思った。とても激しく。だから、愛子ちゃんの応援の申し出を断った。応援なんて、少し、子供っぽい、なんて、何処かでツンとしている厭な私がいた。
橙の明かりが満たす教室で、ぽとりと落ちた、初めての嘘。
愛子ちゃん、大好きなのに。
*
清水君は、面白くて優しい。皆から程ほどに人気があって、彼の横に居れば大抵楽しく過ごせた。
クラスメートたちが馴染みだす頃、突然仲良くなっていた私と清水君に、よくこんな質問が繰り返された。
「お前らさ、いきなり仲良くなってたケド、なんで?」
「ねぇ? その前の日まで全然だったのに」
「清水、お前宮地さんにどうやって近づいたんだよ~!?」
それに私は当初、笑ってこう答えていた。
「私が他校生に絡まれてたのを、清水君が助けてくれたんだよ」
清水君は照れたように笑って
「そうそう、二十人相手にな」
なんて言って、笑いをとっていた。
結局、人を笑わせるのが好きな彼は、小心から出た「仲間二十人もいるぞ」と言ったセリフを笑い話にして、皆を笑わせた。それから最後に、「ホント、ガラ悪かったよな~」と必ず言うのだった。
それに対して私は深く頷いて、
「凄く煩かったし、怖かった」
「あそこの学校、偏差値低いんだろ」
「ああいう人だらけなのかな」
「ほんと、関わらない方が良いね」
周りは「怖いね~」なんて言って、盛り上がった。
王子様に助けて貰ったお姫様みたいな気分で、いた。
多分、清水君もそうだったんだろう。
私たちは仲良くなった。楽しかった。
周りが私達をセット扱いする様になって、別にイヤでは無かったし、実際清水君といる時間は長かった。
この学年で当たったクラスメート達はサッパリした優等生タイプばかりで、気持ちの良いクラスだった。もしかしたら、中には粘着質なものを持っている人もいたかも知れないけれど、クラスの空気を読んで身を潜めざるを得ない様な、そうしないと、真っ向から大きな声で正論の名のもとに自分の醜い一面に惜し気も無くライトを当てられそうな、そんな「爽やかでちょっと熱い」クラスだった。
なので、私達は変に冷やかされたり、表立って妬まれる様な事は無く、とても平和に仲良く過ごしていた。
なのにどうして私は、違和感を蓄積しているんだろう。
相羽君が、教科書の問題なんか解いたりするから!
あれから、お礼と言うという名目で、私は相羽君とLINEで繋がった。
『ミチルです。教科書、ビックリしました』
次の文を打とうとしている合間に
『おお!(何かのアニメキャラが万歳しているスタンプ)』
私はペースを崩されて
『教科書ビックリしました』
二度同じことを……と何故だかへこんでいると、
『全問正解? (カッコつけてるクマのスタンプ)』
私は笑ってしまって
『ほとんど違ってました(ウサギのキャラが泣いてるスタンプ)』
『(大笑いしている憎たらしいオジサンキャラのスタンプ)』
「もうっ」
LINEでの会話で声が出たのは初めてだった。
でも、ちゃんと伝えたくて、だって、私は勘違いしている様だったから。それを、正したくて。貴方の為に、て言う、私の名目。
『あの時、部屋から逃がしてくれようとしてくれたんですよね?』
「既読」の表示はされたけど、返信は無かった。
『私、あの時はわからなくって、後からそうなんじゃないかって思って……』
ボタンをタップしながら、「違ってたらどうしよう」と不安を伴った疑惑が私を突いてきた。「ちげぇよ、バーカ」なんて、相羽君が意地悪く笑う顔が一瞬浮かんだけれど、
『本当にありがとう』
『二十万人には勝てねぇ~から(包帯を巻いて松葉杖をついている謎の動物キャラ)』
『(笑)二十人。その前に、部屋から出る機会をくれたでしょう?』
『日記、読んだ~? (ニヤニヤしているクマのスタンプ)』
相羽君は、のらりくらり。
私は誰かと相羽君の話がしたい。
けれど、このクラスでは、もう出来ない。
クラスが変わったって、清水君は事あるごとに(例えば、新しい私と共通の友達が出来た時とか)武勇伝を語るだろう。だって、今だってそうだから。何かしら機会があると、その話が顔を出すから。
私は彼の勲章になった。
助けてもらっていながら、彼のそれを汚したら、一体どうなるだろう……。
教科書の相羽君の名前は、消しゴムで消してしまった。
でも、そしたら今度は相羽君への罪悪感。
『遊んでる』『浮ついてる』『不潔』『低レベル』
直接ぶつけてはいないけれど、思ってしまった事は消しゴムでは消えない。
あの一日のどこを、どう消したら、理想道りになったのかな。
でも、どこかを消したら、貴方の良さがきっとわからなかった。
そんな事くらいは判るから、だから余計に。
私は誰かに相羽君の話がしたい。
彼は、素敵なんだよって、誰かに教えてあげたいの。
*
『ちょっと読みました』
『おぬしもワルよのう』
『高校生みたい』
『かわいい?』
『知らないよ(笑)でも、字はすごくキレイ』
『どんな話?』
『とりとめの無い毎日……かな』
『おもしろい?』
『後ろめたい気分。でも捨てれない』
『あ~』
『手元にあると、気になって。赤裸々だから余計に』
『裸!?』
『どうしてそうなるの(笑)』
『あんなボロイ屋根裏にあったって事は、もうBBAだな』
『BBA?』
『ババア』
傲慢も謙遜も要らない。
浅ましさも。