第3話 襲撃
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ユウトがカール達を庇って怪我をした翌朝。
「おはようございます」
「おは、よう……ございます」
ユウトがエリスを見かけて声をかけると、エリスが尻すぼみな声で返事をした。
その様子にユウトが首を傾げる。
「あの……どうかしましたか?」
「いえ。何でもないですよ?」
今度は普通に返事が出来た。
ユウトは「気のせいか」と小さく呟いて、二人で居間に向かう。
「そういえば、早速着てくれたんですね」
機嫌が良さそうなエリスの視線はユウトの体に向いている。ユウトが今着ている服は、昨日エリスから貰った物だ。
少し勿体無い気もしたが、折角貰ったのだからと早速袖を通してみた。
「はい。とても着心地が良いですよ」
「良かった。気に入って貰えましたか」
「えぇ、元々着ていたものよりもしっくり来ます」
そう言うと、エリスの機嫌が更に良くなった気がした。
「ふふ。お世辞でも嬉しいです」
「お世辞じゃないですよ」
そう言ったユウトの言葉は、事実お世辞ではない。材質自体は元の服――学生服よりも劣るのだろうが、きちんとユウトの体に合わせてあるため、体に馴染むのだ。
それが伝わったのか、エリスは本当に嬉しそうに笑った。
「エリスねーちゃん、まだおかしくない?」
そんな二人の様子を隠れて見ていたカールがぼやく。
「おかしいことはおかしいけど、前とはちょっと違うような?」
「うん。エリスお姉ちゃん、嬉しそうだったよ」
「そう?」
「そうね。今のエリスなら心配要らないわ」
言葉を交わしていた三人が背後から急にかけられた声に、ビクッと肩を震わせた。
「……院長先生?」
「一体いつから……?」
「おはよう。さて、一体いつからかしら」
そう言って惚けるサーシャに少し怯えたカール達だった。
朝食を終え、ユウトがエリスを手伝っていると、珍しいことが起きた。
「それじゃあ、水汲み行ってきます」
「あ、待って下さい。私も行きます」
そう言って、エリスがユウトの後に続く。
広場の場所や井戸の使い方が分からなかった最初の時以来、エリスが一緒に来るのは初めてだった。
瓶を持つのはユウトなので、二人で行く理由は無いのだがと思いつつ、エリスと居るのが嫌な訳ではない――むしろ嬉しい位なので、何も言わずに一緒に行くことにした。
道中、他愛も無い話をしながら広場へ向かうと、向かって来る村人と会った。
「おはようございます」
――また、微妙な反応されるんだろうな。
そんなことを思いつつ会釈すると、予想外の反応が返って来る。
「おう、おはよう。怪我はもう良いみてぇだな」
「え……あ、はい。おかげさまで」
「おかげさまでって、治したのはエリスちゃんで俺は何もしてねぇよ」
困惑しながら答えると、男が豪快に笑う。
横でその様子を見ていたエリスが、嬉しそうに会話に混ざる。
「おはようございます。トムおじさん」
「おうエリスちゃん。今日は旦那と一緒なんだな。若い衆が嘆いてるぜ」
「旦那て……」
「エリスちゃんには是非うちの息子の嫁に来て欲しかった――」
「おじさん。あまりおかしな事を言わないで下さいね」
ニッコリと笑顔を浮かべてトムを威圧する。
「あ、はい。ごめんなさい。……相変わらず怒るとおっかねぇなぁ」
「何か言いましたか?」
「何でもないですっ。そ、それより、ユウト……で良かったよな」
「はい」
「その……悪かったな。今まで」
バツが悪そうにトムが頭を下げる。
一瞬何に対する謝罪か分からなかったが、すぐに思い当たった。
「あぁ、いえ。急に身元不明の男が村に来たら、そりゃ警戒しますよ。気にしないで下さい」
「すまねぇな。昨日の件でお前さんが悪い人間じゃないってのは良く分かった。他の奴等もな。急に態度が変わって腹が立つかも知れないが、どうか勘弁してやってくれ」
「本当に気にしないで下さい。認めて頂けただけで十分ですから」
「ありがてぇ。それにしても、お前さん随分言葉遣いが丁寧だな。記憶が無いって聞いてるが、良いとこの生まれだったりするのかねぇ」
「それは覚えていないので何とも。でも、言葉遣いならエリスさんや院長先生も丁寧ですよ?」
「あぁ、サーシャさんは王都から来た人だからな。どんな生まれかは聞いたことねぇけど。それにエリスちゃんはそのサーシャさんに育てられた訳だし。まぁ、どこの生まれでも構わんさ。今更だが歓迎するぜ、改めてよろしく頼むな」
「はい。よろしくお願いします」
しばらくトムと会話を楽しんでから別れると、エリスが僅かに笑い声を漏らした。
トムと話しているときから、エリスはずっとご機嫌だ。
「嬉しそうですね」
「それは勿論嬉しいですよ。ユウトさんだって、頬が緩んでますよ?」
「ずっと避けられてましたから――」
そこまで言って、今日に限って珍しくエリスがついて来た理由に思い至る。
「もしかして、こうなるのが分かってました?」
「そうですね、半分は」
昨日ユウト達を掘り起こした時、手伝ってくれた村人達はカールとテリーを庇うように倒れていたユウトを見て感心したようだった。元々、村人達があまりユウトを歓迎していなかったことを知っているエリスはその様子を見て、もしかしたらと考えていた。その予想が当たっていたことはトムが証明してくれた。
だが、それはついて行こうと思った理由であって、ついて行きたかった理由では無い。――だから、半分だ。
「半分? ……じゃあ、もう半分は?」
「それは内緒です」
そう言って先に行ってしまうエリスを、ユウトが慌てて追いかけた。
その後も孤児院に戻るまでの間に何人もの村人とすれ違ったが、今までのことが嘘のように皆笑顔で話しかけてくれた。
ユウトと村人の関係が少し進展するのと同時に、ユウトの訓練も進展を見せる。
今までケイトとの訓練は魔力の制御を習得するために時間を費やしてきた。魔力の制御は魔術の基礎だが、上を見ればきりが無い。
それでも、ユウトの制御技術はようやく魔術を使用するに足る水準に達したため、魔力制御の訓練に加えて本格的に魔術を使う訓練も始めることになった。
「それじゃあ、実際に魔術を使ってみましょう。ちなみに魔術の概念は覚えてる?」
「はい。魔力を使用者のイメージした事象に変換し、引き起こす技術です」
「うん、正解。それで、どうやって魔術を使うかだけど、まず体内の魔力を制御して使用する分だけ引き出します。これを魔力を練るとかって言うね。それから、望む現象をイメージしながら魔術名を唱えます。これで完成。ちょっとやってみるね」
そう言って、ケイトが魔術の準備を始める。ユウトにも分かりやすいように、一つ一つの手順をゆっくりと行なう。
体内の魔力を操作して魔力を一点に集め、それを維持しながら魔術の完成をイメージする。今回は氷の刃だ。宙に幾つもの氷刃が生じ、目標に向かって飛翔するイメージを頭に描きながら、魔術名を口にする。
「“アイスエッジ”」
瞬間、集めていた魔力が変質し、氷の刃となって現れる。そして、標的と定めた木の幹に飛来し、突き刺さった。
「こんな感じ。まずは魔力を練るところからやってみよう。コツとしては、器を一つ作って、そっちに魔力を流し込むような感じかな。使う魔術によって必要な魔力量は違うけど、注ぐ量が足りないと発動しないから気をつけてね。逆に多い場合は、その分威力が上がったり範囲が広くなったりするから、慣れてきたらその辺りも意識して使えるようになると良いよ」
「はい」
指示されたとおり、体内の魔力を一部分隔離するように操作する。
「うん。魔力の制御はちゃんと出来てるね。次はイメージ。折角だし、同じのにしようか。さっき見たのをそのまま想像してみて。イメージが固まったら、魔術名を唱える」
――氷の刃をイメージ。さっきの光景を思い浮かべて……。
頭の中でケイトの使った魔術を反復させながら、唱えた。
「“アイスエッジ”」
しかし、何も起こらなかった。
「……あれ?」
ユウトとケイトの声が重なる。二人とも思いがけない事態に首を傾げていた。
「もう一回やってみよう」
ケイトに言われて再び魔力を集めて、イメージを固め――
「“アイスエッジ”」
やはり何も起こらない。
「あっれ……おかしいね。魔力はちゃんと練れてるし、イメージは出来てるよね?」
「……そのつもりなんですが」
「うーん、もうちょっと試してみよう、次は火で――」
その後も魔術を使おうと試みたが、一度も成功することは無かった。
そして、その試みが二十を越えた辺りで、難しい顔をしたケイトがユウトを止めた。
「何でか分からないけど、ユウト君は魔術が使えないみたいだね……」
「……才能無いんでしょうか?」
「魔力があって制御も出来てるんだから、才能ってことならあるはずなんだけど。それなのに使えないなんて聞いたこと無いんだよね。他に原因があるのかな……?」
「その原因って?」
「んー、今のところ検討も付かないなぁ。このまま魔術の練習しても仕方が無いし、本当は魔術の後にするつもりだったんだけど“探査”に入ろうか。“探査”については前に説明したね」
「でも、俺は魔術が使えないんじゃ……?」
「“探査”はあくまで魔力の制御技術の一端だから、魔術とは違うよ」
“探査”は魔力を体外に放つことで周囲の魔力を感知する技術で、魔力を変換して一定の現象を引き起こす魔術とは異なる。
現状原因は不明だが、ユウトが魔術を使えないだけならば、“探査”は使えるはずだ。
「じゃあ、やってみよう。集中力が大事だから、まずは目を閉じて。体内の魔力を少しずつ外に出してみて。うん、その調子。外に出した魔力が制御下に残ってる感覚はある?」
「……はい。大丈夫です」
「なら、それをもう少し広げて。ゆっくりね。制御を離さない様に――」
一通りのレクチャーを受けると、“探査”を使うことが出来た。出来たといっても、一応は“探査”と呼べるという程度の物だ。殆ど全神経を集中しなければ使えないし、その範囲もほんの数メートル程度だった。
「ちゃんと使えたね。魔術が使えない原因は別に探るとして、今は魔力の制御と“探査”を集中して練習しよう。特に“探査”は冒険者になるなら必須技術だよ。町の外じゃいつ魔物に襲われるか分からないから、常に使うよう心掛けておかないと」
「ずっとだと疲れてしまいそうですね……」
先程全神経を集中するような状態でようやく形になった“探査”を、何時間もやり続けるところを思い浮かべて顔を顰めた。
それを見てケイトが笑いを漏らす。
「今はそうだろうね。でも慣れればそうでもないんだ。例えば、私の場合はそんなに集中してなくても数十メートルくらいは分かるよ。勿論、ちゃんと集中すればもっと広いけど、普段はそれくらいで十分だからね。ユウト君も慣れていけばその範囲はどんどん広くなるはずだよ。それに、“探査”は奥が深くて、極めようとすれば終わりが無いよ」
「周りにある魔力を感知するための技術じゃないんですか?」
「そうなんだけど、感知するだけじゃないんだ」
ケイトの不自然な言い回しに首を傾げる。
「魔力を感知するってことは、魔力から読み取れることは全て“探査”で知ることが出来るってことなんだ。実際、相手の魔力量まで分かったり、魔術を使う兆候みたいなのが分かる人も居てね。もっとも、それらが分かるようになるのはずっと先だと思うけど」
魔力というのは目に見えないが、その状態は様々だ。分かる者からすれば、魔力の多い者と少ない者には相応の違いがあり、魔術を使う際には魔力の状態に変化が生じる。
それを捉えられるかどうかは“探査”を使う者次第だが、魔力からは多くの情報を得ることが出来る。
「それに、私はやったことないし出来ないけど、ランド達は自分のすぐ近くくらいなら殆ど無意識で使っていられるみたいだよ」
「無意識にですか?」
「うん。それこそ数メートル程度だろうけど、乱戦の時とか周りに居る魔物の位置を把握できるから重宝してるみたい。慣れてるっていうのは勿論あるんだろうけど、狭くて済む分そもそもあまり集中が必要ないんだろうね」
ランドやカイン、それにアンも“探査”を使えるが、その範囲はケイトには及ばない。そのため広範囲の“探査”はケイトの役割になっているが、ランド達はそれとはある意味逆方向に秀でている。
それが範囲を狭くした無意識下での“探査”だった。
前衛の三人は戦闘中は殆ど魔物の側に居るためまともに集中している余裕は無い。しかし、複数の魔物と戦うこともあるため、背後や横から攻撃を受ける場合もある。
自分のすぐ近くだけとはいえ周囲にいる魔物や仲間の位置が分かるのは、頻繁に動き回り眼前の敵に注意を払わなければならない前衛にはありがたいことだった。
「なるほど……。何にしても、練習あるのみってことですね」
「そういうこと。これから私と一緒の時は広さを意識して練習ね。それでランドとの訓練の時は、動きながら“探査”を使うように。最初は意識しながらやってみて。ずっとやってれば、そういう癖が付くはずだから」
その後ケイトとの訓練は、ケイトの言葉通り魔力の制御と“探査”の質を上げることに終始することになった。
一方、ランドとの訓練も進展を見せた。
筋トレの時間が短くなり、その代わりにランドとの模擬戦が含まれるようになったのだ。一応の型が出来てきたのと、模擬戦を出来るだけの体力と筋力がついたから、ということだ。
元々、ランドは模擬戦をメインに据えてユウトを鍛えるつもりだった。戦い方や戦いの勘は単なる訓練じゃ身につかないというのがランドの持論で、それはカインも同意している。
本当は死ぬか生きるかの実践を繰り返すのが最も効率が良いのだが、一歩間違えれば命が無いため流石にそれは出来ない。そのため、実践ではないがそれに近い模擬戦を行なうことになった。
「次は右だ」
ランドが攻撃する箇所を宣言してから木剣を振る。ユウトはランドの宣言から一瞬遅れで反応し、たどたどしく剣を防ぐ。
「反応が遅ぇ! 今度は上!」
次々と繰り返される斬撃にユウトの防御が追いつかなくなる。
――くそっ。それならっ!
半ば強引に前に出る。しかし――。
「ばればれだっ」
「がっ……ぁ」
そこを狙われ、カウンター気味に腹部にランドの膝が入る。
ユウトが痛みに蹲ると、ランドが木剣を首に当てる。
「これで死亡だ。痛くても足を止めるな。相手が人間だろうが魔物だろうが、動けなくなったらおしまいだ」
「っ……はい」
痛みを堪えながら立ち上がって返事をすると、ランドが少し満足そうな表情を見せたが、すぐに引き締める。。
「それから、手詰まりだからって強引に前に出ようとすんな。下手すりゃ今みたいに狙われてるぞ」
「気をつけます。でも、何かしないと防戦一方になっちゃうんですよ。しかも、ランドさんが速すぎて徐々に追いつけなくなりますし……」
「それは俺が速いんじゃなくて、お前が遅いんだ」
「え? でも……」
溜め息交じりのランドの言葉に戸惑う。
確かにユウトは剣を持ったばかりで素人に毛が生えた程度だが、言うほど遅くはない……はずだ。しかし、ユウトには実際にランドが自分よりずっと速く感じていた。
そんなユウトの戸惑いを察知してか、ランドが言葉を続ける。
「そりゃ俺の方が長く鍛えてるんだから、お前に比べりゃ速いだろうけどな。そうは言っても、大した差はねぇよ。幾ら鍛えてるっても、同じ人間なんだ、超人みたいな動きが出来るわけじゃ無い。なのにお前が速すぎると感じるのは、お前の判断が遅いせいだ」
「判断が遅い?」
「さっき、右って言った後、防御に移るまでに一瞬の間があったな。それのことだ。右と言われて右から攻撃が来ると認識し、それにどう対処するかを決める。お前はその認識や判断が遅いんだよ。そのせいで肉体的な速度に大した差はないのに俺が速いように感じるんだ」
「ぅ……どうすれば良いんですか?」
「まずは失敗しても良いから、自分で素早く判断する癖を付けろ。失敗したらどこが悪かったか考えろ。それを繰り返していけば、その内素早く最適な判断が出来るようになるはずだ」
「要するに――」
「当分の間は俺にやられ続けろってことだ」
そう言って意地の悪い笑みを浮かべる。それとは対照的にユウトは顔を引き攣らせる。
「……お手柔らかにお願いします」
そう言うしかなかった。
そんなランドとの訓練を続けていると、時折ユウトが怪我をするようになった。
「ただいま」
「おかえりなさ――また、怪我してるじゃないですか」
「まぁ、木剣とはいえ、殴られれば痣くらいは出来るよ」
「痣くらいって……前は骨にヒビが入ってましたよ」
「……そんな時もある、ということで」
「あまり心配させないで下さい」
「ごめんなさい」
シュンとなったユウトを見て、エリスが苦笑する。
――こうしていると小さい子みたいですね。
そんなことを思っていると、背後からカールがユウトをからかう。
「ユウトにーちゃん、また怒られてら」
「怒られてる訳じゃない」
ムッとした様子で言い返すと、カールと一緒に居た子供達が言い募る。
「怒られてるようなものじゃないかなぁ」
「心配かけるのは良くないよ?」
「ぬぅ……」
カールだけでなく、テリーやエイミィにまで言われてユウトが唸る。
明らかにからかっている様子のカールは兎も角、本心で言っているらしいテリーやエイミィには言い返せない。
「はいはい。すぐ夕飯だから居間に行きましょう。ユウトさんは後で治療しますから、部屋に居て下さいね」
「はーい」
カール達と一緒になって子供のような返事をするユウトに、エリスがクスクスと笑い声を漏らした。
夕飯を済ませ、後片付けを終えたエリスは言っておいた通りユウトの部屋を訪れた。
「あら?」
扉をノックしたが、反応が無い。
部屋に居て下さいと言っておいたし、ユウトもそれに返事をした。忘れているとは思えないし、敢えて言うことを聞かなかったということはユウトに限って有り得ない。
――もしかして……?
「ユウトさん、入りますよ?」
ゆっくりと扉を開けると、ユウトはちゃんと部屋の中に居た。居たが――。
「やっぱり、寝ちゃってますね」
ユウトはベッドに倒れ込んだように、うつ伏せになって寝ていた。
それを確認して、エリスが音を立てないよう静かに部屋の中に入る。
治療だけなら、起きている必要は無い。むしろ、寝ている間の方が体が休まるため、治癒術の効果は高まる。
治癒術は魔術の一種で、名の通り傷を癒したり解毒したりする効果を持つ。攻撃性の高い他の魔術とは対照的なため、治癒術と呼んで区別されている。
魔術を使える者の中でも治癒術が使えないという者は多く、治癒術の使い手は魔術の使い手よりも更に希少だ。治癒術は基本的に人体が本来持つ自然治癒力を高めることで短い時間で治癒させる魔術なのだが、そもそも人体を治癒するというイメージが難しい。
そのため、我流で使える者が殆ど居ないのが現状で、治癒術の使い手の大半は教会出身者だった。
教会は人体の構造や、医術とまでは言えないがそれに近い知識や技術を独占している。教会出身者――要するに神父やシスターだが、それらの者は教会で治癒術を教わる。しかし、そうでは無い者はそれらの知識や技術を知る機会が無かった。
エリスはシスター見習いのようなことをしているが、実際はシスターでは無いため、ちゃんとした教会でそういった教育を受けたことは無い。しかし、サーシャは元シスターでそういった教育も受けている。エリスはサーシャから色々なことを教えられており、治癒術もその一つだった。
「それじゃあ、失礼しますね」
ユウトを起こさないよう小さな声でそう言うと、ベッドの近くに椅子を置いて座る。そして、痣のある腕に手を触れる。
「“ヒール”」
“ヒール”は傷を治す一番基本的な治癒術だ。その効力は使用する魔力の量とイメージの鮮明さに比例する。
エリスの場合、ちょっとした傷なら殆ど一瞬で治すことができ、多少深い傷でも少し時間がかかる程度だ。
但し、致命傷となるような傷の場合は高めた自然治癒力でも追いつかなくなるため、治せる怪我には限度がある。例えば手足が切り落とされたような場合、傷自体は塞ぐことが出来るが、手足を繋いだりすることは出来ないし、それこそ心臓を貫かれたりすれば治療は不可能だ。
エリスの手が触れているところから暖かい熱がユウトに伝わって、ゆっくりと痣が消える。
「えぇと、他には……」
腕以外に傷や痣が無いか確かめる。
そうしていると、ユウトの寝顔に目が留まった。
――ぐっすり寝てる。毎日の鍛錬で疲れているんですね……。それにしても、何でしょうか、この感じ……。
あどけない表情で眠っているユウトの顔を見ていると、何か言いようの無い気持ちが湧き上がってくる。
しばらく手を止めて、ジッとユウトの寝顔を見つめる。
――あぁ、この感じ。あの人が感じていたものに似ているかも……?
エリスが思い至ったのは、夢で見た女性が男性と共に居るときの感情だ。何となくだったが、それに近い気がしていた。
そのまま少しの間考えて――。
――よし。
決めた。
ギシギシと音をさせながら、ゆっくりとベッドに上がる。
そして、ユウトの顔の近くに両足を揃え、正座を少し崩したような体勢で座った。
――そおっとそおっと。
ユウトを起こさないよう最大限の注意を払いながら、その頭をゆっくりと持ち上げて、自分の膝に――正確には腿の辺りだが、そっと乗せた。
「何か……凄い恥ずかしいですね」
ポツリと呟く。
自分の膝の上にユウトの頭が乗っているという事実が、思った以上にエリスに気恥ずかしさを感じさせていた。
今エリスがしているのは、所謂膝枕だ。
エリスが急にこんなことをしたのには一応理由がある。
エリスがユウトに感じた何かは夢の女性が感じていたものに似ているが、それがどんな感情なのかはいまいちよく分からなかった。だから、真似をしてみたのだ。
エリスが見た夢の中で女性が一番その感情を強く感じていて、尚且つエリスの印象に一番強く残っていたのが、女性が男性に膝枕をしているところだった。
その夢では、男性も起きていて女性と穏やかな様子で何か話をしていたのだが、ユウトが起きている時にするのはエリスには敷居が高く、なによりユウトに何と言ってお願いすれば良いのか分からなかった。
そのため、とりあえず眠っている今ならとやってみたのだが。
――少なくとも、あの人はこんな恥ずかしい思いはしてませんでしたね……。
そもそも条件が違い過ぎるのか。
夢の二人は夫婦だった。同じ家族とは言っても、エリスとユウトの関係は夫婦とは大きく違う。
もう止めようかな、と考えながらふと視線を下に落とす。
その視線は当然、膝の上にあるユウトの顔に向く。そのユウトの表情が、先程よりも安らいでいるような気がした。
それを見たエリスが幸せな気分になって――。
「あぁ……そうなんだ」
それでようやく気が付いたエリスが、無意識に言葉をこぼした。
――あの人と同じなんだ。ユウトさんと居ると安心する。穏やかな顔を見ていたい。すっと一緒に居たいって思う。
エリスがユウトの黒髪を撫でる。
くすぐったかったのか、むずがるように体を身動ぎさせた。
その仕草を可愛く思い、くすくすと笑みがこぼれる。
考えてみれば、当然だ。あの女性は男性と夫婦だった。なら、一緒に居て抱く感情なんて決まっている。
――私はユウトさんに恋をしているんだ。
そのことに気付いた今なら、あの女性がどれだけ深く男性を愛していたのか良く分かる。
エリスは、あの女性ほど深い愛情を多分まだ持っていない。それが微妙な違いを感じさせていたのだろう。しかし、いつかあの女性の想いに負けないくらいユウトのことを想える時が来る。そう確信出来た。
分かってしまえば感じ方も変わってくる。
――こうしているのは恥ずかしくもあるけれど、幸せね。
最初は気恥ずかしさしか感じなかったが、今はずっとこうしていたい気分だった。
今にして思えば、アンやケイトがユウトを狙っているようなことを言ったとき、不愉快な気分になったのはきっと嫉妬したからだ。あの時は良く分からないまま、表情だけ取り繕ったのを覚えている。――本当に表情だけしか取り繕われておらず、心情が駄々漏れだったが。
きっとその頃から、気になっていたのだろう。
これはエリスにとって初恋だ。そもそも恋愛という物を意識したこと無かったエリスにとって、自分が恋をするという実感が無かった。それでも気付けたのは、あの女性が感じたものを追体験するような不思議な夢のおかげだった。
――そういえば……、ユウトさんが来てから夢で見たことを前より鮮明に思い出せるようになった気がする。
昔はそんな夢を見たということや、女性と男性が添い遂げて幸せを感じていた、というような漠然としたことしか思い出せなかった。だが、今は女性がどんなことをして何を思ったのか、大まかにだが思い出せるようになっていた。
そこで、改めて思い出した。
――あの男の人、ユウトさんに似ていた……?
年はユウトよりも少し上だったが、ユウトを少し大人にすればまさにあんな感じだと思えるくらいに似ていた。
しかし、すぐに否定する。
――いえ。同じ特徴だから、私が勝手にユウトさんに似せてしまったのね。
不思議な夢といっても、所詮は夢だ。結局のところエリスの記憶や感情に左右されるのだし、元々男性の顔は覚えていなかった。そこにユウトが現れたため、無意識にユウトを元にして男性の姿をイメージしてしまっただけなのだろう。
――そんなことより、今はこの時間を楽しもう。
余程疲れているのか、起きる様子の無いユウトに治癒術をかけながら、膝の上で穏やかに寝ているユウトの寝顔をじっくりと楽しむことに決めた。
翌日、目を覚ましたユウトは先日ランドに打たれて出来ていた痣や傷が無くなって、体が軽いことに気が付いた。
「エリスさんが治療してくれたのか。そういや、来るって言ってたのに寝ちゃったな……」
折角治療してくれたのに悪いことをした。
――おそらくもう起きてるだろうし、ちゃんとお礼言って、朝食の準備でも手伝うか。
そう考えて身支度を整えて部屋を出る。
予想通りエリスは既に起きていて、台所で朝食の準備をしていた。
「おはようございます」
そう後ろから声をかけると、エリスが振り返って輝くような笑顔を浮かべる
「おはようございます。……どうかしましたか?」
あまりに眩い笑顔に見蕩れてしまったユウトを不自然に感じ、エリスが首を傾げた。
その仕草がまたいつも以上に可愛く見え、ユウトが微かに動揺する。
「い、いえ。何でも無いです」
とりあえず否定だけして、コホンと咳を一つして落ち着きを取り戻す。
「昨日はありがとうございます。それと寝てしまってすみませんでした」
「いいえ。こちらこそありがとうございました」
「へ?」
何故か反対に礼を言われて、ユウトが呆けたような声を出す。それで一瞬だけしまったという顔をしたエリスが誤魔化す。
「あぁいえ。こちらの話です。治療するって約束でしたから、気にしないで下さい」
「はぁ……。でも、治療してくれたのに、自分だけ寝てしまって……」
「良いんですよ。寝ている方が治癒術の効果は高いですし、疲れているんですから仕方ありません」
「ありがとうございます。あ、俺も手伝います」
「はい。お願いしますね」
そのまま二人で並んで朝食の準備を始める。
それから少し経った頃、他の住人達が起きてきた。
「……なんか、昨日と雰囲気違わない?」
「そうだね。……エリス姉かな? 何となく、前よりユウト兄に近くなったような?」
「二人ともとっても仲良しだね」
「仲良しといえば仲良しなんだけど、少し違うような?」
「三人とも、隠れて覗き見するのは良い趣味とは言えませんよ」
ビクッと三人が肩を震わせる。
台所の中の様子を窺っていた三人の背後にはサーシャが居た。
――いつの間にっ!?
相変わらず気配無く近づいてくるサーシャに驚きを隠せない。――といっても、三人に気配を察知するような技術は無いのだが。
「それは悪いと思うけどさ、院長先生」
「どうかしたの?」
何か言いたげなカールにサーシャが問うと、テリーが代わりに答える。
「うん。エリス姉の様子なんだけど」
そう言って、中の様子を見るよう促す。
「あらあら」
中を覗いたサーシャは二人の――特にエリスの雰囲気の変わりように気付いた。
――やっぱりそういう事。あれはちゃんと自覚してるわね。それにしても、良く自分で気付けたものね。
何となくエリスがユウトを異性として気にしている節があるのは気付いていた。しかし、エリスが自覚するのはもっと後だろうと考えていた。なにせ、今までも村の同年代の男達に幾度となくそれらしいアプローチを受けているのに、全く気付いていなかった程だ。
誰かが――エリスの交友関係を鑑みるにアンかケイト辺りが何か入れ知恵したのかもしれない。だが、それはそれでエリスが幸せになるなら結構なことだ。
それにしても――。
「初々しいけど、とても自然な感じがするわねぇ」
ユウトとエリスの二人がお互いを意識しながら近くに居る様子は初々しいが、何故か一緒にいるのが当然のように感じる自然さがあった。
しかし、不思議そうに呟いたサーシャに、子供達が当たり前だと自信満々で答える。
「そりゃ、俺達家族だもん」
「一緒にいるのが自然だよね」
「うん」
三人の言葉にサーシャが瞠目する。
子供達が当たり前のように家族だと言葉にしたことに驚いた。
確かに、今までもユウトを除いた五人で一緒に暮らしてきて、家族同然に過ごしてきた。だが、今まで一度も家族だと口にしたことは無い。それはカール達だけではなく、エリスやサーシャ自身もそうだった。
カール達は孤児院に来てからそれなりに長いが、赤子の頃から居たわけではない。要するに、それぞれの両親のことを覚えているのだ。今両親と共に居ない理由はそれぞれだが、そんなカール達に家族だと言ってしまうのは憚られた。
それと同時に、カール達もサーシャ達を家族のように思っていても、家族だとは思えないのだろうと考えていた。自分達では本当の家族にはなれないのだと最初から諦めていたと言っても良い。その諦観をカール達への配慮という形で誤魔化していたのも事実だった。
「……家族」
サーシャは動揺を隠し切れず、言葉を溢した。その様子に気付かず、子供達は嬉しそうに笑っている。
「うん。ユウトにーちゃんに言われたんだ」
「院長先生がお母さんだね」
「お母さん? でも、お母さんは居るよ?」
エイミィが素直な感想を漏らす。
その言葉に、サーシャが僅かに怯えたような表情を見せる。エイミィの言葉は、まさにずっとサーシャが気にしていたことだった。
だが、テリーはそんなことを気にした様子も無い。
「そうだね。だけどここでは院長先生がお母さんだよ。エイミィは院長先生の子供で、僕の妹なんだ」
「院長先生の子供……、テリーお兄ちゃんの妹?」
「そう。それに俺やユウトにーちゃん、エリスねーちゃんの妹だ」
「嫌かい?」
「……ううん。凄い嬉しい」
本当に嬉しそうに、そう言った。
エイミィはカール達よりも幼い。そのため、血の繋がりだとか、実の両親がどうといった事を理解していない。しかし、だからこそエイミィの言葉は純粋だ。
余計なことを考えず、ただサーシャの娘でユウト達の妹であることを嬉しいと言った。
それはサーシャがずっと聞きたかったことであり、聞けなかったことだ。
感極まったサーシャは思わずエイミィを抱きしめる。
「院長先生、どうしたの?」
「……なんでも無いの。私もエイミィが娘で嬉しいわ」
「えへへ」
そのまま頭を撫でられて、エイミィが気持ち良さそうに笑う。
「勿論、カールとテリーもね」
「へへ」
「うん」
顔を上げたサーシャが優しく微笑むと、カールとテリーも照れたように笑った。
そうしていると、準備を終えたユウトが居間に出てきた。
「あれ、皆何してるんです?」
「ふふ。何をしていると思いますか?」
「んー、……カールが何かやったとか?」
「すぐ俺が何かしたことにしないでよ!」
「悪い悪い。冗談だって」
怒ったカールにユウトが笑いながら謝る。
その様子は実に兄弟らしかった。
「ユウトさん、ありがとうございます」
「はい? あの、礼を言われる理由が分からないんですが……?」
「気にしないで下さい。それと……、あまり弟を苛めてはいけませんよ。ユウト」
「あはは、気をつけ――ぇ?」
突然口調と呼び方が変わって、耳を疑ったユウトが聞き返すように声をあげる。サーシャは笑顔を返すと――。
「母親が息子に他人行儀ではおかしいでしょう?」
そう言った。
――あぁ。カールとテリーに言ったことが漏れてるな。
サーシャの言葉で何となく事情を察したユウトが苦笑する。しかし、息子だと言われたことも、呼び捨てにされ、言葉遣いが少し砕けたことも、全く嫌だとは思わなかった。
「なら、私に対しても敬語やさん付けはおかしいですね」
ユウトの後から台所から出てきたエリスが澄まし顔で言った。
「エリスさんまで」
「ユウトさん。エリス、ですよ」
「いや、あの……」
「エリス、です」
戸惑うユウトをエリスが追い立てる。
ちゃんと覚えている訳ではないが、ユウトは同年代の女性を気安く呼んだことが無い――ような気がしていた。それが正しいかどうかは分からないが、何にせよエリスとそのように接するのは、どこか気恥ずかしいものがあった。
だが、エリスはそんなユウトの事情は知らないし、そもそも考慮しない。今や遅しとユウトが呼ぶのを待ち構えている。
しばらく逡巡した後、決意を固める。
「その……、エリス」
照れながらエリスの名を呼ぶ。
「……エリスお姉ちゃん、お顔真っ赤だよ」
「しっ。ここは静かに見守ってあげましょう」
エイミィの指摘通り、エリスの顔は真っ赤に茹で上がっていた。
――どうしよう。凄い恥ずかしいけど、凄い嬉しい。それに、はにかんだところが凄く可愛い。
そのエリスは、そんなことをグルグルと考えていた。
対して。
「ユウトにーちゃんも顔赤くなってら」
「うっさい!」
「カール兄、もうちょっと空気読もうよ……」
同じように顔を赤くしていたユウトはカールにからかわれ、テリーは呆れたように溜め息をついていた。
それからしばらく経ち、ユウトの訓練も進んだ頃、ランドが訓練が終わったところで、急にこんなことを言い出した。
「あ、そうだ。明日から数日間俺達は居ないけど、訓練サボるなよ」
それはユウトにとっては思いがけない言葉だった。ユウトが村に来てからランド達は見回り等で外に行くことはあったが、日を跨いで村に居ないということは一度も無かったからだ。
「え? どこか行かれるんですか?」
「ああ、一度ガロに行くことになったんだ」
「それはまたどうしてですか?」
「依頼の更新よ」
ユウトの疑問にカインとアンが順に答える。
ここ最近はランドとの訓練時間にカインとアンが居るのは珍しい事ではなかった。
それというのも、模擬戦にカインとアンも参加していたからだ。勿論、ユウトとランドが模擬戦をしているときにカインとアンが模擬戦をしている――と言うわけではない。三人ともが、ユウトの訓練相手だ。
当人の言によれば「同じ相手ばっかりじゃ変な癖が付くかもしれないし、色んな経験を積んだ方が良い」ということだったが、ユウトの目には、暇だったし、ちょっと遊んでやろう位のつもりだったようにしか見えなかった。
もっとも、そうだとしても、三人ともがそれぞれ戦い方が異なるため、実際良い経験になるので文句をつける理由も無かった。
「依頼って、この村のですよね?」
「そうだ。ここの防衛に関しての依頼だ」
「なら、この村で済むのでは?」
ランド達は冒険者だ。
本来、冒険者は大きな町を拠点として様々な依頼を受けることが多い。だが、この村は様々な依頼どころか大きな町には絶対にあるギルドすら無い。にもかかわらずランド達がここに滞在しているのは、偏にそういう依頼を受けているからだ。
ランド達が受けているのは、大雑把に言えばこの村を守るという依頼だ。
大きな町であれば兵を募ったりすることも出来るが、小さな村ではそうはいかない。しかし、そういう小さな村の方が人の多い町よりも魔物の被害に遭いやすい。そのため、村を守るために冒険者に依頼をすることが少なくなかった。
この村は以前魔物に襲われ、何人もの住人が殺されたことがある。その時の経験を踏まえて、依頼を出していたのだが、それをランド達が受けたのだ。
その依頼主は当然この村の村長であり、依頼の更新なら村長との話し合いで済むのではないのか、というのは当然の疑問だった。
「直接の依頼ならそれで良いんだが、一応ギルドを通してあるからな」
「ギルドを仲介した依頼に関しては基本的にギルドを介して行なう決まりだ。更新自体は決まっているが、それまでの報告や更新の申請なども全部ギルドでやらなければならない」
「本当は結構前に行かなきゃいけなかったんだけど、ユウトの訓練見てたりしてたから後回しにしちゃってたのよね」
そう言って、気まずそうに笑った。
直接の依頼というのはギルドを介さず冒険者が直接依頼人から依頼を受けた場合を言う。依頼は通常依頼人がギルドに依頼を出し、そこで事前の調査や依頼人の信用、報酬の設定等を行ない、事前に報酬を預かっておく。
それによって、依頼を公平かつ適切に取り扱い、依頼に伴って生じ得るいざこざを回避するためだ。
しかし、その代わりという訳ではないが、依頼の受理、報告その他諸々はギルドで行なわなければならなかった。
そして、この村から一番近いギルドがある町は、北東にあるガロという大きな町だった。
「前に教えたはずだぞ?」
「アハハ、そういえばそうでした……」
今度はユウトが乾いた笑みを浮かべて誤魔化す。
「まあ、そんなわけだ。ちゃんとした模擬戦は出来ねぇけど、今までずっとやってたから俺達の動きは大体イメージできるはずだ。そのイメージと実際に戦うつもりで鍛錬しておけよ」
「そうは言っても、軽めで良い。たまには体を休めるべきだ」
「そうよね。ここのところ、随分ユウトの鍛錬厳しかったし」
――半分くらい貴方達のせいですけどね。
そんなことを思いつつ、頷いた。
翌日、ランド達は早い時間にガロに向かって村を出発した。
ガロまでは徒歩で大体半日といった程度の距離がある。手続きだけでなく、久しぶりの休養も兼ねているため、戻って来るのは大体四日後の昼頃になるだろう。
ユウトはランドに指示された通り、ランニングと素振りはいつもと同じように。模擬戦に使っていた時間はその半分くらいをランド達をイメージしながら実際に体を動かす――謂わば仮想模擬戦に使い、残った時間は自由時間にすることにした。
勿論、ケイトと行なっている魔術訓練の時間は、普段通り魔力制御と“探査”の訓練を行なった。
そうして少しだけ空いた時間は、いつもはあまり構ってやれないカール達と遊ぶ時間に充てることにした。
いつもと少しだけ違う、しかし変わらない日を過ごし、明日にはランド達が戻ってきて、まさに今までと全く同じ日々に戻ろうという直前になって、事件が起きた。
「そろそろ暗くなってきたし、帰ろうか」
ユウトと子供達は孤児院から少し離れたところで遊んでいた。訓練は早い時間に終わらせ、それから今までずっと遊んでいたのだが、そろそろ日が落ちて暗くなり始めている。村の外という訳ではないが、そもそも孤児院は村の外れにあり、そこから更に少し離れているため、村の家々の明かりは殆ど届かない。
日が完全に落ちれば真っ暗になるため、危なかった。
「えー。もう少しくらい良いじゃん」
「あんまり遅くなるとエリスが心配するだろ」
「ユウト兄は早く帰って、エリス姉と一緒に居る方が良いよね」
「テリー。……お前、余計なことを言うようになったな」
「お兄ちゃんとお姉ちゃん仲良しだもんね」
それぞれ特徴のある弟妹とやり取りをしながら、孤児院に向かう。
しかし、そこで人影が近づいてくるのが見えた。
「ユウト!」
「……トムさん? どうしました?」
近づいてきていたのは、トムだった。
ここまで走ってきたのか、息を切らせている。
「はぁはぁ……。お前、ゴートの奴を見なかったか? まだ帰ってないみてぇなんだ」
「ゴートさんが? ……いえ。朝、挨拶してからは一度も」
ゴートというのは村の住人で、トムと同じ三十代半ば位の男性だ。
「そうか……。どこ行きやがったんだ。あいつ」
トムが吐き捨てるように言う。しかし、その声には心配しているのが透けて見えていた。
「朝見かけたときは、西の森に向かっていたようでしたけど……」
「西の森か。そういえば、最近はずっとそっちで仕事してたな」
ゴートは木こりをしており、村の近くの林や森に行って木を採っている。今朝会った時も斧を手にしていたので仕事に行ったのは間違いないだろう。
西の森は村から少し離れたところにある。
本来森や山などは魔物が棲み着きやすいため、あまり近づかないのだが、西の森は何故か殆ど魔物や猛獣の類が出ないこともあって、時折中に入ることもあった。
西の森には良い木が有る。前々からゴートはそう言っており、実際西の森で採れる木は質の高い物が多かった。質が高ければその分高く売れるし、村の中では良い物と交換できる。
そのため、ゴートにとっては西の森は良い仕事場と言えた。
「三人目のガキが出来たからって、張り切って稼ごうとしてやがったからな……」
そうは言っても、魔物や猛獣が全く出ない訳ではないため、やはり危険度は他の場所に比べれば高い。それは当然ゴートも知っているはずだが、それでも危険を推して稼ぎたかったのか、それとも大丈夫だと楽観視していたのか。
どちらにせよ、こうなると西の森で何かあったと考えるのが妥当だ。
「俺は西の森に行ってきます。トムさんは一応他の場所を探してみて下さい。一時間ほど探して見つからなければ俺も戻ってきます」
「あぁ、頼む。だが無理はするなよ。危険なのはお前も同じなんだからな」
「大丈夫です。一応冒険者志望ですから」
そう言って笑う。
その気負いの無さに安心したのか、トムも落ち着いた様子で他の場所を探しにいった。
「そういうことだ。皆はエリスと院長先生にこのことを伝えておいてくれ」
「はーい」
「念のため、戸締りとかはちゃんとしておくんだぞ」
「分かってる。ユウト兄も気をつけてね」
「おう」
三人を帰してから、西の森に走る。
その振動でカチャカチャと腰の剣が音を立てた。
ユウトの腰にはずっと鉄製の剣が下げられていた。これはランドの予備の武器だが、一時とはいえ村から居なくなることを憂慮したランドが念のためにと、そのまま残していった。
しばらく走ると、西の森に着く。
日が落ちていることもあって、中はかなり暗い。隙間無く草木が生い茂る――というほどではないので、昇った月灯りがところどころ差し込んではいるが、全体的に影になっている場所が多かった。
入る前に一度“探査”の範囲を最大にする。未だ未熟なユウトの“探査”では有効範囲はそう広くないし、集中も必要だ。しかし、やらないよりはずっとマシだ。
――とりあえず、人も魔物も居ないか。
“探査”の有効範囲内に魔力は無かった。
ケイトから聞いた話では“探査”に対する技術として“隠蔽”と呼ばれる魔力を外部から察知されるのを防ぐ技術が存在するらしい。しかし、これは“探査”に比べると遥かに難しい技術で使える者はそう多くないし、魔物に至ってはAランクの魔物で一部使えるらしい個体が居るという程度だ。
なので、この場では“隠蔽”を使った何者かが居るかもしれないという可能性については排除した。
また、“探査”の範囲内に魔力は無かったが、ゴートが居ないという結論とは結びつかない。何故なら、魔力を持つのは生物だけだからだ。
ゴートが戻っていないのが、迷子や怪我か何かで身動きが取れなくなっただけだというなら兎も角、仮に魔物か何かに襲われていたのであれば、既に生物でなくなっている可能性がある。
死んだ者は魔物であれ人間であれ体内の魔素、或いは魔力が完全に消える。もしゴートが死んでいれば、“探査”の範囲内に居ても“探査”では感知出来ないということだ。
ユウトは周囲に注意を向けながら、森の中に足を踏み入れた。
方角を見失わないように気をつけながら、ゆっくりと歩く。
そうしてしばらくの間歩くと、何か形容し難い気分の悪くなる臭いが鼻を突いた。
嫌な予感を覚え、そのまま臭いが強くなる方向に向かって進むと、その臭いの元に辿り着いた。
「これ、は……うっ」
ユウトが目にしたのは無残な姿になったゴートだった。
服は当然のようにぼろぼろで、体中は至るところに噛み千切られたような痕がある。手足も肉が抉れて骨が見えていたり、指も幾つか無い。もしかしたら生きたまま噛み千切られたのだろうか、暴れたような痕跡や千切られた箇所から流れた血の跡が周囲に残っており、顔は涙や涎などでぐしゃぐしゃになっている。
ユウトはそのあまりの光景にえずいてしまった。
その時、ユウトの集中は完全に途切れていた。意識は目の前のゴートに向けられ、想像以上の無残な姿に平静を保っていられなかった。
それはすなわち、“探査”を使っていないということだ。
「っ!?」
気付けたのは単なる偶然だ。
背後に何かが迫ったような気がして咄嗟に身を投げた。
その咄嗟の行動が出来たのはランドとの訓練の賜物だ。しかし、気付くのが遅すぎたため、ユウトの左肩に鋭い痛みが走り、裂傷が刻まれた。
「ぐっ」
その痛みはユウトが今まで感じた事の無い類の痛みだった。
傷自体は浅い。少し引っ掛けた程度の、それこそ薬でも塗っておけば済むような軽い怪我だ。しかし、その傷は間違いなく敵意と殺意をもって加えられたものだった。
それがユウトにとっては何より恐ろしかった。
ユウトに傷を負わせた張本人。それは狼のような魔物だった。
名をソルジャーウルフという、Dランクの魔物だ。二メートルほどの体躯は灰色の毛で覆われ、爪や牙は普通の狼より著しく発達している。個々の強さはそれほどではないが、基本的に最低でも数体が一緒に行動し、群れをなす性質を持つことで知られている。
ソルジャーウルフはユウトを睨みつけ、嗤うように大きな口を開いて牙を見せ付ける。
「ひっ……」
その恐ろしい風貌に、ぶつけられた生の殺意と初めて体験する殺意の篭った攻撃、直前にゴートの無残な状態を見たこと。それらによってユウトの戦意は完全に失われていた。
――に、逃げなきゃ。こんなの……殺されるっ!?
魔物の脅威については当然のように聞かされていたし、分かっていたつもりだった。しかし、話で聞くのと実際に目にするのでは、致命的なまでに大きな違いがあった。
その違いに恐怖し萎縮したユウトは、死を恐れ、魔物から逃れたいという気持ちしか湧いてこなかった。
――あ、あれ……?
逃げなければと立ち上がろうとして、しかし、立ち上がることが出来ない。完全に腰を抜かしてしまい、膝がガタガタと震えている。
それでも、少しでもソルジャーウルフから離れようと体を引きずるようにして後ろに逃げる。
その様子を見たソルジャーウルフが、今度こそ本当に嗤った。
理解したのだ。
眼前に居るのは獲物ですらない、単なる餌に過ぎないのだと。抗うことはおろか逃げることすら出来ない、ただの肉の塊なのだと。
そうと分かってしまえば警戒することも無い。悠々とした態度でゆっくりとユウトに近づく。
その度にユウトは顔を引き攣らせ、後ろに下がる。
――遊んでいる。
恐怖に満ちた思考の中でも、それがはっきりと分かった。
餌が恐怖し、うろたえ、泣き叫ぶのを楽しむために、わざとじわじわと追い詰めているのだ。
それが分かってもユウトは逃げる以外のことを考えられなかった。
弄ぶようにソルジャーウルフがユウトを少しずつ追い詰めていく。
そして、下がろうと後ろに伸ばしたユウトの手が何かに触れる。ヌチャという嫌な感触に、咄嗟にその対象を確認してしまう。
ユウトの手が触れたのは、全身を引き千切られたゴートの体だった。
血や、おそらくはソルジャーウルフの唾液だろう、それらに塗れたゴートの体は血の臭いや獣の臭い、他にも幾つかの臭いが混ざって異臭を放っている。
そんなゴートの死体を見て、ユウトは更に死を実感する。
――こんな風になるのか、俺も。あいつ等に食われて、グチャグチャにされて……。
訪れるであろう自分の結末に背筋が震える。そして、まるで走馬灯のように少し前の自分を思い出した。
森に入る前、心配してくれたトムに大丈夫だと言った。
それは間違いなく本心で、それこそユウト自身が現実を正確に認識できていなかった証拠だった。
魔物を舐めていたつもりは無かった。だが、直に魔物を見たことのないユウトは魔物の存在に実感が無く、どこかで軽く見ていたのだろう。
体の震えが伝わったのか、カチャリと音を鳴らした腰の剣に目が行く。
ランドから剣を受け取った時、それに今回の事態に際して実際に使うかもしれないと考えた時、心のどこかで剣を持って戦うことに期待し、浮かれていなかっただろうか。
あれだけランド達に念を押されておきながら、命を懸けた殺し合いを甘く見ていた。
それがたとえ意識していなかったことだとしても、それは所詮ユウト自身が愚かだったからに他ならない。だが――。
自分が死んだら、後はどうなるだろう。
ふとそんな考えが頭を過ぎる。
自分はどうせ食われるだけだ。死ぬ前に、死にたくなるくらい痛い思いや怖い思いをするだろうが、死んでしまえばその後のことなど分からない。
しかし、残った者はどうか。
覚えていないが、両親や居るか分からない兄弟や友人達。その人達は今も戻らない自分のこと心配しているのだろうか。死んだと分かったらどう思うのだろう。
薄情かもしれないが、顔も分からない人達がどう思うかなんて実感が湧かなかった。
だが、エリス達はきっと悲しんでくれる。
単なる願望に過ぎないかもしれないが、泣いている姿が容易に想像できた。
サーシャは息子だと言ってくれた。カールやテリー、エイミィは兄と呼んで慕ってくれる。エリスからは兄と言われたことは無いが、大切に思われているのは分かる。
――そうだ……。そんな皆を悲しませるのか?
諦めていたユウトの心に疑問が湧く。
――自分が死ねば後は知らないって、こんな危険な奴等を野放しにしておくのか? 次に襲われるのは、俺の家族かもしれないのに?
「有り得ないだろうが、そんなこと」
無意識に言葉に出た。
エリス達が悲しんでいる姿なんて見たくない。たとえ直に見ることが無くても、悲しませると分かっていて何もしないなんて許されるわけが無い。あんな奴等に大事な家族が襲われるなんて以ての外だ。
二度と会えないのも御免だ。どんなに怖かろうが、痛かろうが、会えなくなるよりはずっと良い。
――何もせずにそんな結果を受け入れるなんて、死んでも嫌だ!
奥歯を噛み締め、ソルジャーウルフを睨む。
――良く見ろ。アレのどこに怖がる要素がある。ちょっとでかいだけのただの犬っころじゃないか。俺はずっとランドさん達と鍛錬を重ねてきたんだ。爪と牙が付いただけの毛皮を恐れる理由なんか無い。
思い出そうとすれば鮮明に思い出せる。容赦の無いランド達の一撃が。何度痛い思いをして痣を作ったか。
確かにランド達に殺意は無かったが、逆にあそこまでの鋭さは魔物には無い。
――怖がりさえしなければ、対応できない相手じゃない。
そう自分に言い聞かせて、奮い立つ。
そして、ゆっくりと自分の体調を確かめながら、立ち上がる。
抜けていた腰も、震えていた膝も今は既に治まっている。
――大丈夫。戦える。
腰に下げた剣を抜く。
ユウトが戦う意思を固める間、ソルジャーウルフは嗤うように大きな口を歪めながら襲い掛かることも無く、恐怖を煽るようにゆっくりとユウトに近づいていた。
餌が何かしようとしていると嘲りながらユウトの反応を待っていたのだ。しかし、剣を抜いたところで、ようやくユウトの様子が一変していたことに気付いた。
恐れ怯えていただけの瞳に、今は戦意が漲っている。
警戒したソルジャーウルフは不用意に近づくのを止め、足を止めた。
――丁度良い。
今までの腑抜けた気持ちは払拭できたが、まだ戦闘体勢に入ったとは言えない。少しでも時間が貰えるのなら願ってもないことだ。
息を大きく吸い、吐く。
――集中しろ。頭を研ぎ澄ませ。
余計な思考を全て弾き出し、戦うことに意識を集中する。そうしてみると、気付くことがあった。
ソルジャーウルフは群れる魔物だ。単独で居るとは考え難い。
そう考えて“探査”を使う。
――やっぱり居るな。
周囲に三体。先程までのユウトの無様な姿を見ても、まだ油断しきっていないのか、今も見えないように木の陰に隠れたままだ。
だが、警戒心が強いおかげで、ユウトの眼前に居るソルジャーウルフの援護に入るつもりはまだ無いらしい。
――まずは、目の前のコイツだけに集中すれば良い。
目の前のソルジャーウルフを殺せば何らかの反応を――おそらく三体ともがユウトを狙ってくるだろうが、今は先のことよりも一体を確実に減らす。そうすれば、四体同時に襲ってくるより幾分かは楽だ。
ユウトが地面を蹴る。
ソルジャーウルフが近づいてきていたとはいえ、瞬時に詰め寄れる距離ではなかった。しかし、訓練を積んだ人間が到達できる域を超えた速さを以って、ユウトは一瞬でソルジャーウルフに肉薄する。
ソルジャーウルフはその異常な速さに対応できず、急に近づいたユウトを迎撃しようと咄嗟に前足を突き出した。
直後、ユウトは横に跳ぶ。
突き出した前足で視界の半分を遮ってしまったソルジャーウルフは、死角に飛び込んだユウトを見失う。
ユウトはその隙にソルジャーウルフの横っ腹に体当たりするように突っ込んだ。それと同時に構えていた剣をソルジャーウルフの腹に突き立てる。
体ごとぶつかった刺突はソルジャーウルフの胴体を貫通し、反対側に剣先が突き抜ける。そのまま横に剣を薙いで、腹を半分ほど切り落とした。
ソルジャーウルフは傷口から臓物を吐き出しながら体を横に倒し、ビクンビクンと大きく体を震わせる。それを最後にぐったりとしたまま動かなくなった。
――一体目。やれるじゃないか。相手の動きもちゃんと見えるし、いつもより体が軽いくらいだ。
実際に戦ってみれば、本当に一体何を恐れていたのかと思うほど呆気ない。
それはユウトの思い込みではなく、実際にソルジャーウルフの動きはゆっくりに見えていたし、体が軽いどころか鍛錬の時より遥かに速い。
しかし、そのことを客観的に指摘できる者は居らず、ユウト自身は鍛錬の成果を発揮できた程度にしか思っていなかった。
――すぐに襲ってくる様子は無いか。囲まれた状況じゃ分が悪いな。どうにか囲いを突破したいけど……。
今のユウトに背後や側面を気にしながら戦うだけの実力や余裕は無い。一対三は避けられないとしても、囲まれたまま戦うことだけは避けたい。
――下手に時間をかけない方が良いな。今ならまだ突破できる。
囲まれているとはいえ、その輪はまだ大きく、ソルジャーウルフ同士の距離もかなり離れている。
時間を置いて輪を狭められたら、相手に連携を取りやすくさせてしまう。しかし、今なら一体を狙っても、他のソルジャーウルフが即座にフォローに入るのは難しい。
そうと決めたユウトは剣を強く握り締めて、村側に一番近いソルジャーウルフに向かって駆け出した。
それと同時に他のソルジャーウルフもユウトを背後から襲おうと走り出す。しかし、今のユウトの身体能力はソルジャーウルフを上回っている。
他のソルジャーウルフがユウトに追いつくよりも早く、目標を視界に捉えた。
――居たっ。……迎え撃つ気か。それならっ。
視線の先に居るソルジャーウルフは、その場に留まりユウトを迎え撃つ気でいる。
ユウトはソルジャーウルフに真っ直ぐ向かっていき――直前で急停止をかける。そして地面に爪先を突き立て、ソルジャーウルフの顔面目掛けて足を振り抜く。
蹴り上げられたのは土埃では無く、最早土砂と呼ぶほうが適切だった。
地面が深く抉られるほどに蹴り上げられた土砂は、勢い良くソルジャーウルフの顔面を襲う。
「キャウンッ!?」
顔面を土砂で打たれたソルジャーウルフが悲鳴を上げる。その悲鳴の中に驚きが混じっているように聞こえたのは勘違いではないだろう。
何せ、やったユウト本人すら驚いていた。
単に目潰しくらいに考えていたのだが、予想外の結果になった。
しかし、これは結果として見るならば上出来以上だ。
顔に叩きつけられた土砂の痛みで、ソルジャーウルフの注意は完全にユウトから外れている。そんな状態で今のユウトを捉えるのは不可能だ。
ユウトは再び地面を蹴り、尋常ではない速さでソルジャーウルフの横に移動する。
そのまま剣を振り下ろして、その首を刎ねる。
その直後に、他のソルジャーウルフがユウトに追いついた。
――来たか。……悪く思うなよ。
そのことを“探査”で捉えていたユウトは、その場で体を回転させて背後を振り返る。そして、首が落ちて崩れ落ちたソルジャーウルフの体を他のソルジャーウルフに向かって蹴り飛ばす。
物凄い速さで飛んできた同胞の死体に驚きつつも、ソルジャーウルフ達は大きく跳んでそれを避ける。
しかし、蹴り飛ばした死体の影に隠れるように走りこんでいたユウトが、ソルジャーウルフが跳んだのを認めた直後にその影から飛び出した。
飛び跳ねたことで無防備に晒された腹に刃を当て、そのまま勢い良く突き入れる。
串刺しになったソルジャーウルフが剣の刺さった腹から血を流し、ぐったりと力を無くす。
ソルジャーウルフの分重くなった剣を横向きに下ろすと、ズルリと剣から死体が落ちた。
――これで三体。残りは……。
最後に残った一体に意識を向けると、戦意を失ったらしく一目散に逃げていった。
見える範囲に他の魔物は居ない。
――終わった……のか?
改めて“探査”を行なうが、ユウトの“探査”の範囲内には魔物らしき反応は無い。
それを確認すると、急に体から力が抜けた。
「は、あぁ……。生きてる……。俺、生きてるんだ」
無事生き残れたという実感がジワジワと湧きあがる。
――そうだ。ゴートさんの遺体。酷い状態だけど、せめて村に連れ帰って供養してあげないと。
ソルジャーウルフに食い千切られ無残な状態になっていたが、遺体は残っている。魔物に襲われた人間は大抵死体も残らず食い尽くされることが多いので、遺体が残っているのは珍しい。
殺されているのだから、それを運が良いというのは不謹慎だが、少なくとも遺体も見つからず供養もしてやれないよりかはマシだろう。
「――っ!?」
そこで、あることに気付いた。
本来遺体は残らない。しかし今回は遺体が残っている。これは偶然だろうか。
襲ってきたソルジャーウルフ達は、ゴートを探しに来たユウトを待ち構えていたようだった。
勿論、ユウト個人を狙ったわけではないだろうが、最初から探しに来た誰かを襲うつもりだったのではないか。
ゴートの遺体が一応は無事だったのも、探しに来た者の注意を向けさせるためではないか。
確証は無い。だが、もしこれらが事実なら、ソルジャーウルフの知能では考え付かない方法だ。
ソルジャーウルフの知能は並の獣と大差無い。
しかし、ソルジャーウルフの中にあってソルジャーウルフではない魔物。その魔物であれば、今回のことも納得がいく。
指揮官の名を冠するコマンダーウルフ。
ソルジャーウルフの上位種のようなもので、姿形はソルジャーウルフに良く似ているが二回りほど大きく、体毛は黒い。
何より、大きく違うのはその知能だ。
指揮官の名が示すとおり、コマンダーウルフはソルジャーウルフを指揮する能力がある。そればかりか、罠を張り、囮を使い、獲物を確実に仕留めるために、様々な手段を講じるだけの知能を持ち合わせていた。。
そのため、コマンダーウルフが統率しているコマンダーウルフの群れはその危険性が桁違いになる。
もっとも、それは単に優秀な指揮官がついているからというだけには留まらない。
コマンダーウルフの居る群れは、通常よりも遥かに数が多くなる。通常の群れが十体を切るのに対し、コマンダーウルフがいる場合は最低でも二十体。規模が多くなると五十体を越す場合もあった。
しかし、そうなると疑問が出来る。
何故ここには四体しか居なかったのか。四体揃って群れからはぐれたとも考え難い。そもそもはぐれたのであれば、ソルジャーウルフだけでゴートを囮にするような作戦を考え付くはずが――。
そこまで考えたところで、ユウトが弾かれたように走り出した。
――まずい。まずい。まずいっ!
考えてみれば当然だ。普段魔物がでないとはいっても、ここは森の中。何かあれば、腕の立つ者が来ることは容易に想像出来る。
先程のソルジャーウルフが待っていたのは、特定の誰かではない。特定の誰かではないが、村で特に腕の立つ者が探しに来るのを期待していた。
そして、あわよくばここで殺し、出来なくても時間稼ぎをするつもりだったのだ。
何故そんなことを画策したのか。――それは、確実に村を襲うためだ。
今は村にランド達が居ない。居ない時を狙っていたのか、それとも単なる偶然か。ランド達が居なくなってから数日時間を置いているところを見る限り、おそらく前者だ。ランド達が数日見回りをしていないことで、居ないと判断したのだろう。
そうなると、この囮は万が一ランド達が居た場合の備えであり、ランド達以外の戦力を狙ったものということだ。
何にしても現在村で戦えるのはユウトだけであり、そのユウトはまんまと誘い出され、時間稼ぎもさせてしまった。
村には今、戦う力の無い村人達しかいない。魔物にとっては格好の狩場だ。
――頼むっ! 間に合ってくれっ!
そう願いながら、ユウトは村へ急いだ。