9 終局――彼を迎えに来たのは
「何処だ!何処に居る!」
その記憶は、熱と煙と共に浮かび上がる。
低い声が辺り一帯に響きわたった。阪島の城。
いつの間にこんなに大きくなったのか、と頭領はその城を見た時つぶやいていた。彼の遠い記憶の中の城は、もっとこじんまりしていたという。
だとしたら現在の国主が増やしたに決まっている。
嘉勝も頭領もそう意見が一致した。
何にしろ物を大量に持つ、それを表にひけらかすということにずいぶんな手間と時間を使っている奴のようだった。
実際その後に投降し、捕らえた家臣もそう証言している。
その美しく磨かれた廊下を汚れた足でひた走る。階段を駆け昇る。襖をけり倒す。障子を突き破る。
「出てこい! 大人しく首を差し出せ!」
その声にはどういう力があったのだろう、と後になって櫂山と南里の二人は思う。二人はその声に思わず引きずられないようにするのに精一杯だった。
三人の走る勢いは止まらなかった。
所々に火がつき始める、壁に柱に襖に畳に床に。
落ち掛かってくる天井の梁。
美しく飾られた部屋も、仰々しく積み上げられた仏壇も、誰か側室の部屋だったのだろうか、掛けられた見事な衣装の数々も… 全てが崩れ落ちていく。
落ちてくる火の粉を払いながら勢いよく彼らは駆け昇っていく。
駆けていく途中にも無論、敵の雑兵が向こうからこちらから飛びかかってくる。
その鍛えぬかれた嘉勝の腕が振り回されるごとに、その場に血が流れる。実際、その場に居合わせた敵兵は、嘉勝のその姿に恐怖した。
後ろでくくっただけの黒い長い髪は乱れ、汗と血で顔にべたべたと張り付いている。かっと開いた目はぎらぎらと光っていた。雑兵達は嘉勝に向かっていくのが怖かった。誰であったろうか。一人が叫んだ。
鬼だ!この男は鬼に決まっている!
雑兵達の間にざわつきが起こった。こに国の人間は鬼という言葉に敏感である。
「…ええい何をしとる! たった三人ではないか!」
兵の中でも少しは命令を出す側なのだろうか。少々上等な鎧をまとった者が部下を叱咤激励する。それでもその男も鬼という言葉に衝撃を受けていたのだろうか。語尾がやや震えている。
「殿! 後ろから…」
ち、と嘉勝は舌打ちをする。それでも懲りずに立ち向かう、泣きそうな顔の、まだ少年のような敵兵を切り払いながらも、嘉勝は何やら機会をうかがっていた。
どどどどど、と階段を昇る音が近付く。
城の他の場所からの増援がやってきたようだった。
それは背後からやって来る。…やって来た!
「殿!」
雑兵とは言え、鬼という言葉に震えたとはいえ、四方八方を取り囲んだことで、やや彼らは安心したのだろうか。急に表情を明るくして、手にした刀を握る手に力を込めだした。
万事休す。櫂山も南里も自分の額から背中から油汗が流れるのを感じていた。そしてそっと主君の姿を見る。
え?
櫂山は目を疑った。嘉勝は何一つ表情を動かしてはいなかった。むしろその表情は、笑っているようにも見えた。それもひどく人の悪い類の。
我が意を得たり。
嘉勝は懐に素早く手を入れ、黒の珠を一つ取り出し、それを思いきり床に投げつけた。
「!」
きん、と一瞬鋭い音が頭の中を突き刺した。
櫂山も南里も息を呑んだ。それはひどく気持ち悪い感触だった。よく鍛えられた鋼を舌で舐めさせられた時の、ぞわりと背中を這う気持ち悪さが、自分の頭の中に直接固められたような気がした。
しかもそれはそれだけでは終わらなかった。いや、むしろそれは始まりに過ぎなかった。
地を這う程低い声が、響いた。
地を這う程低いが、その声は、何者にも止め得ぬ程鋭いものだった。
「目を開けろ!」
言葉が頭に直接叩き込まれた。櫂山は思った。彼はこの感触に覚えがあった。
そうだ、これは。
あのほえんの歌と…
声が、音が、直接頭に叩き込まれる。ほえんの歌はその時自分の中の忘れかけていた記憶を掘り起こした。思い出して、と優しく。それとその感触は近かった。
だがその使い方は明らかに異なっていた。
何故その力を自分達の主君が使えるのかはまるで彼には判らない。聡明な彼は、判らないより前に、とりあえず考えられる頭ではないことに気付いていた。
声に込められた力は、そのまま絶対の命令となって、嘉勝を取り囲む全ての者に作用している。
櫂山はそれに気付くと、ともすれば動かなくなりそうな手を振り上げて、自分の頬を力一杯打った。
効果はあった。自分を動かす頭の全てが再びつながったのを感じた。そしてその手は、相棒にも同様に使われた。おそらくは自分に対してよりやや強く。
「…痛てえ! 何する櫂山!」
「気付いたか南里よ。殿、これは…」
「案ずるな。まぼろしよ」
敵兵は彼らを取り囲んだまま、呆然として誰も動こうとはしなかった。
何が見えているのか、二人には判らない。だがそれがひどく強烈な、心の中の恐怖をえぐり出しているものであることは想像に難くなかった。
何故なら。
何故なら、敵兵の顔という顔は、全て、叫び声を上げる寸前のものだったのだ。
目は大きく開いている。だがその焦点は合っていない。口は半開きとなり、次々に流れ出してくる唾液をくい止めることすらしない。
「行くぞ」
嘉勝はその叫ぶ寸前の者達をかき分けて、その横を悠々と走り出した。
その直後、叫び声が一つ上がるのが南里には聞こえた。そこが強烈な叫び声の渦と化するのが彼らにはたやすく想像がつく。三人は足を速めた。
その黒い珠は、途中でもう一度使われた。そこには女子供が味方の兵に、今にも斬られる寸前だった。
同様に投げつけた珠とともに、嘉勝は逃げろ、と言った。
そして、彼はそのようにした。それまで斬ろうとしていた刀を捨て、その手に女子供を抱きかかえ、走り出した。下へ下へ。…途中で叫び声を上げ続ける集団が居たのを見ただろうが…おそらくはそれを横目にも見ずに走り続けるだろうことは、二人にはたやすく想像ができた。
櫂山は複雑な表情をして主君を眺めた。彼は何と言ったものかすぐには判らなかった。だが知識欲は戸惑いに勝つ。
「…お見事でございますが… その様な術を何処で」
「お前にしては珍しいな。忘れるなど」
は? と櫂山は問い返す。一体自分が何を忘れたというのだろう。
「俺には鬼がついていると言ったろう?」
鬼ですか、と櫂山は眉を寄せる。
そうだ鬼だ、とやや芝居めいた口調で嘉勝は声を荒げる。もっとも、と彼は付け足した。
「とても怖い奴だからな。なまじのことでは助けてはくれぬ」
そしてひどく晴れやかに笑った。血と汗にまみれているとは思えない程に明るく。
そして櫂山はその明るさがひどく怖かった。怖い怖いというこの地の鬼などよりずっと怖かった。
*
「…これで突き当たりか」
増やしたとはいえ、そう高い城ではない。かの尾張を、そして全国にその力を示した男が近江の地に建てたそれに比べれば決して大したものではない。
そしてとうとう一番上まで来てしまった。
「何処だ!」
地鳴りのように嘉勝の声は響く。珠を使っている訳ではないのに、その声は大きく、強く、辺りの障子や襖をがたがたと揺らした。
もうそれほど揺れる物も無かったのだ。火はこの最上階にも手を伸ばしはじめていた。下手すると、彼らの脱出自体も難しかった。
「立てこもる奴というのはなあ。だいたい馬鹿だから高い所へ昇りたがるのよ」
傲慢な程の声で嘉勝は言い放つ。その声が届いたのかどうか。がた、と一つの部屋の戸が音を立てた。
「そこか!」
嘉勝は勢いよくその戸を蹴り倒した。人の姿が、目に飛び込む。
壁を背にして、小太りの、初老の男が立っていた。
そこだ。
嘉勝は、その部屋に飛び込もうとした。
何の音だ?
嘉勝は右の肩にひどい衝撃を感じた。
国主の手には、短筒が握られていた。
「…」
嘉勝は自分の身に何が起こったのか、すぐには判らなかった。
だが。
ふ、と右の肩が動かないことに気付いた。生暖かいものが流れていることに気付いた。
「…殿!」
一歩遅れてきた南里の高い声が響いた。
「来るな!」
再び短筒の音が響いた。二人はその音が何であるか気付いて身を落とした。何故そんなものを!
櫂山は目線を上げて機会を推し量る。どうにかしてあの短筒を奪わねば!
飛び道具はあまりこの地方には入ってきていなかった。それ故に寄せ集めの集団がそれでも勝利を掴んできたとも言える。新しい物好きの国主ではあったが、武器は範疇外であったらしい。
野心持ちという割には頭が回っていない。櫂山はそう冷ややかに評する。
その国主は、と言えば、慣れない短筒を撃った反動で壁にもたれかかっていた。撃った、そしてまぐれでも何でも当てた本人が驚いていては世話はない。
「いい加減にしやがれ!」
嘉勝が叫んだ。肩は次第に痛んできてはいたが、気を失う程ではない。むしろその痛みをこらえるせいか、彼の言葉は普段以上の迫力をつけていた。
国主は壁から背を離すことができない。べったりとその肉が盛り上がったような身体を、べたべたと貼り付けたような唐絵の壁に押しつけている。
「わ、わしにどうしろと言うのだ…」
「大人しくここで死んでもらう」
「…い、嫌だーっ! 何故わしが死なねばならんのだ! わしはこの国の主であるぞ! そなたごときが無礼であろう…」
「あいにく、それを言うなら、貴様は俺に殺されるなら同等と認められたと誇った方がいいさ。お初にお目にかかる。桜野太郎嘉勝だ」
「何… 桜野の…」
目を極限まで大きく開け、国主はそれ以上の言葉を見つけられずに、ぱくぱくと口を開け閉めする。
「その桜野が何故に野武士が集団に居るかと問いたいか」
慌てて国主は首を上下させる。
「それは簡単だ。利害が一致したのよ」
「な、何の利害だ…」
「ようやく口が利けるようになったか。だがそれすらも判らぬか。貴様の命よ。貴様はこの阪島の国主にはふさわしくない」
「ふさわしくないだと? わしは先の国主の弟だ! 血筋の上で何の問題があろう? 世継ぎの男子が消えてしまい、先の国主の兄上までが相次いで亡くなった時、この国をまとめたのはわしだ! 他の誰にできた!」
「無論そのようだな。だがそもそもの原因にそれを言われた所で痛くもかゆくもない。聞こえるだろう?」
嘉勝は窓の外を指す。炎の燃える音に混じり、何やら声が聞こえる。
「新しい国主、だと?」
「貴様は本当に家臣に恵まれなかったようだな。誰も貴様に教えなかったと見える。ただの野武士と思っていたか。その頭領こそ、貴様の甥にして先代が長子。正統なるこの国の国主よ。貴様が昔、森に捨てさせた!」
国主の顔が青ざめる。
「わ… わしだという証拠が何処にあるというのだ! 家臣の誰やもが気がふれて世継ぎの君を盗み出したかも知れぬが!」
「あいにく見ていた奴がいるんだよ」
「…だ、誰が…」
「鬼だ。この国の鬼が。この国の森に住む鬼が見ていたんだよ。そしてその子を里へ預けた。奴は全てを知っている。あんたが民の訴えに耳を塞いで贅沢な暮らしをしていたことも」
う、と嘉勝は顔をゆがめる。肩の傷が痛んだらしい。
「…鬼か、そんなつくり話を…」
「つくり話としたなら貴様達こそ大したものだ。かの春の宴にてあの者が俺達に話したこの阪島の鬼のこと、覚えていよう」
「何…」
「それは私の一存!」
唐突に飛び出して来た者があった。
「お前は」
「全ては私がいけないのでございます! 斬るななら私をお斬り下さい!」
それは、あの春の使者だった。だが鎧も何も身につけていない。髪も解け、ただ白い単衣を身につけているだけだった。その首筋には、幾つもの傷跡が見える。
「お前何処から…」
「牢の柵は燃え尽きました。殿、もう全て終わりでございます。いさぎよく御腹を」
「貴様の指図は受けぬ!」
「いいえ今度こそは。あの折の少女とて、殿が無理強いしなければ、むざむざ森に一人で入っていくなどということもなかったでしょう」
「だがあれを連れてきたのはお前の独断ではないか! お前が献上した者をわしがどうしようとわしの勝手。承知で連れてきたのではないか」
「ですからそれは私の責任でございます!」
う、とそれだけ叫ぶと、もと使者の家臣は、その場にうずくまった。
南里は慌てて駆け寄り、肩を貸す。
「…かたじけない…」
一方の櫂山は、目線を国主から離さない。何しろ、それでもまだ手には短筒があるのだ。いつ何かのはずみで引き金を引かれてしまってはたまらない。
「別にお前の言ったことは間違ってはいないさ」
家臣はその低い声にはっとする。
「だが半分だけだ。よく調べ直すがいい」
「あなた様は一体…」
ちら、と嘉勝は家臣の方を見た。だが。
「殿!」
櫂山の声が響いた。嘉勝は顔を再び前に向ける。…だがそれは微妙に遅かった。
肩の痛みが、ほんの少し反応を遅らせた。
音が響いた。
「…わしは死なぬ、死なぬぞ…」
嘉勝は顔を上げる。焦点の合ってない目がそこにはあった。その目をにらみつける。櫂山が走り出す。短筒が向けられる。だがそこに目が入っていない。
二発目の弾は、嘉勝の右の胸を射抜いていた。さすがのこの男も、その場に膝をついた。それでも減らず口は止まらない。
「往生際の悪い親父だ… どうせそんな簡単に死ねるもんがあるならさっさとてめえ一人で逝きやがれ」
「一人で死んでたまるか…」
「俗物め!」
その言葉は妙に相手の中に刺さったらしい。再び嘉勝に銃口を向ける。だが引き金に上手く指がかからない。
…
右の手が動かない。
では。
嘉勝は左手で小刀を抜いた。
「櫂山伏せろ!」
投げつけた。
狙う時は、それだけで殺せる所を。奇妙に冷静な自分が居た。
それは首に命中した。前国主はその場に倒れた。
だが。
嘉勝もまた、そこで力を使い果たしてしまったのだろうか。その場に崩れ落ちるように倒れた。
「殿!」
櫂山が叫ぶ。だが敵将にとどめをさすことは忘れない。ここでまた何かが起こったら!
南里は家臣を引きずりながら彼らの主君に駆け寄る。
嘉勝は前のめりに倒れ込んでいた。まだ息はある。手の空いている櫂山が彼を起こした時だった。
懐から、紅い珠が転がった。
てんてんてん、と固い音を立てて転がった。
それは夢なのかもしれない、と二人は思った。
きん、と空気がその時一気に張りつめた。
二人はその音が頭に突き刺さるのを感じた。
寄るな。
それは覚えのある声だった。
そんな馬鹿な、と二人は目を見開く。目の前の珠に亀裂が入る。ああその音か、と妙に彼らは納得する。
…
弾けた。
二人は耳を押さえた。だがそれは耳を押さえて消える類のものではないことなど判っていた。頭を押さえた。だがそうして消えるものではない。
頭の中にその声は、音は、意味もない言葉をまき散らして、ぐちゃぐちゃにかき回していく。
目の前に極彩色が炸裂する。どうしてそんなものが見えるのか、二人にはまるで判らない。何故だ、どうしてだ。
と。
弾かれた、と櫂山は感じた。何やら形の無い力で、櫂山は自分がその場から弾かれたのを感じた。
触るな。
強烈な音が、声が、櫂山の頭を割るような勢いで駆け抜ける。
それは自分だけが言われたのだ、と櫂山は感じた。何に?
彼は自分の主君が何処に居るのか捜す。助け起こしたのは確かに自分の筈なのに、彼はこの手の中にはいない。では何処に!
「…との」
櫂山はようやくそれだけの言葉を喉の置くから絞り出す。
「殿!」
極彩色の向こうに、白いものが浮かんでいるのに櫂山は気がついた。そしてその真っ白な上に炎が。
…いや、炎じゃない。
それは、髪だった。
真っ赤な髪。
…
真っ赤な髪。真っ赤な髪。真っ赤な髪。
あれは、鬼だ。
「気はすんだ?」
櫂山の耳には、そう届いた。
彼らの主君を抱き起こしながら、その鬼は囁く。ひどく小さな声であるのに、それは確実に二人の耳に届いていた。
「もう構わないだろう?」
その位の傷なら死にはしない。この位の傷なら治してやろう。
そんな意味の言葉が彼らにも届く。
だったら自分達に返してくれ!
櫂山は出ない声で叫ぶ。喉が詰まる、息が詰まる、言葉が詰まる!
俺達の主君なんだ!
その声が聞こえたのだろうか? うっすらと嘉勝は目を開く。
「お前か」
櫂山は信じられなかった。それはひどく親しい者に呼びかける声だった。
「迎えにきたよ。これで最後だろう?」
「そうだ」
嘉勝は満足げにうなづく。
「これで、最後だ」
これで最後?櫂山はその言葉が記憶の何処かにあるような気がしていた。ああそうだ。あれは。
あの時だ。この城へ入る直前に、殿が…
そういうつもりだったのか。
そういうつもりだったのか。
櫂山は愕然とした。だとしたら、つじつまが合う。未来はそこにはない。
阪島と一つになった国に、桜野の地に、彼の姿はない。
彼はそこに自分の姿は、初めから見ていなかったのだ。
何てことだ!
櫂山は内心叫ぶ。どうして自分は気付かなかったのだ!
「頼む…」
彼はいつの間にかそんな声が自分から漏れ出るのを感じていた。そこには力はなかった。あのほえんが、自分の主君が発した声のようには。
ああそう言えば。混乱する頭の中で櫂山は別の事を思う。どうして殿はあのような… 鬼がついていたからか…
「返してくれ…」
言葉はゆらゆらと浮遊する。
「お願いだ… 森の鬼よ… 俺達のたった一人の主君なのだ…」
「だがあいにくあたしにとってもたった一人だ」
凍る寸前の水を掛けられたような、気がした。彼は背筋が一気に凍るのを感じた。
この声は、この声は、この声は!
この声には覚えがある!
そして鬼はゆっくりと振り向いた。その手の中には、彼らの主君の身体がある。
きつく抱きしめたその白い着物には、彼の真っ赤な血がゆっくりとにじんている。
「もう渡さない。これはあたしのものだ」
もう。櫂山は背筋の寒気がひどくなるのを感じていた。
鬼は真っ直ぐ櫂山の方を向く。彼は叫び出すところだった。
満面に笑みを浮かべている。
「ほえん!」
櫂山は見知ったその顔に恐怖した。その櫂山の取り乱した様子を見たのか、嘉勝は低く声を立てる。
「すまないな」
「殿!」
「だが俺はもう十分だ。それ以上のものなど要らない」
「我々はどうすればいいのです!殿!」
嘉勝は意識を失ったらしい。櫂山はどうすればいいのか完全に見失っていた。
渡したくなかった。あの女に。自分のただ一人の主君を。単純な独占欲だった。そして彼女にそれとなく森へ行くことを進めてしまった。無論そうと言葉にした訳ではない。しかし自分にその気があったことは事実だ。
そして、結局は失うのだ。
「…早く行きなよ」
にこやかに鬼は笑う。
「早く行かないと、焼け死んじゃうよ!」
あははははは、と笑い声が聞こえる。それはひどく楽しそうな声だった。ひどく正気な、本当に大切なものを、永遠に手に入れたものだけが発する、心からの笑いだった。
鬼はそしてゆっくりとその白い袖を振り上げる。
その途端、周りの炎が強く立ち上がった。
あはははははは。
耳について、離れない…




