6 過去5――鬼は果たして本当に人を食うのか
「もうじき森です」
ある時馬引きの男は言った。
「もう見えるでしょう。あれですわ」
嘉勝は目をこらして見た。それは確かに森だった。自分の国には存在しない、ひどく大きく高く、深そうな森だった。彼はその森に目をやりながら、ほえんのことをふと思い出していた。
「今年、贄は出たのか?」
ふと嘉勝は馬引きに訊ねていた。
「ええ、出たようです。ついこないだかな」
思い出すかのようにふと馬引きは空を仰ぐ。
「でもひどいもんですわ」
囁く様な声で言う。
「何でもそちらの国から連れてきた人だそうですが、どうも思った以上に綺麗な人だったんで、わが国主どのは、贄になどするより自分のものにしたかったんですわ。ですがそのお方、それを断固として断り続けまして。そして自分から森へ飛び込んで行ったらしいです」
!
「無論それも俺達普通の連中には初めから贄として出したと言われるんですよ」
馬引きは苦笑する。
「詳しいな」
「耳聡いだけですわ。耳年増なんですわ。ああそれじゃおばはんのようですな」
彼はやや大げさな手つきで茶化してみせる。
「でも殿さん、あなたはそのまま死なせるには惜しい人ですな」
「さあて」
馬引きはにっと笑った… ような気が嘉勝にはした。
森の手前まで来た時だった。時々空を仰ぎ見ていた馬引きの表情が変わった。
「何か雲行きがおかしそうですな」
「そうだな」
確かにおかしかった。風の向きが変わったかと思うと、急に黒い雲が低く、空一面を覆い始めた。にわか雨が降るのではないか、と誰もが思った。
その予想は当たった。
ふっと水の感触が頬に当たる―――
と思ったらもう降り出していた。整備のされていない道はすぐにぬかるむ。森はすぐ横にあった。
と、その時だった。
「おっと」
馬引きが急によろけた。馬に身体を軽く預けてその平衡を保とうとする。
「気をつけろよ」
嘉勝がそう言った時だった。
馬引きは懐から小刀を出すと、いきなり嘉勝を縛り付けていた縄を切った。馬を引いていた縄をその手に渡した。にやりと笑う。そして勢いよく馬の腹を蹴った。
!
「逃げたぞーっ!」
馬引きの男の声が辺りに響く。それを合図としたのか、後ろにやはり同じように引かれていた腹心二人も同じように縄を切られて馬を蹴られていた。
「殿!」
高い声が耳に届く。できるだけの大声で嘉勝は怒鳴る。
「散れ!」
固まって動けばそれだけ捕まりやすくなる。
嘉勝は慌てて手綱を持つ。縛られていた手はなかなか勘を取り戻さないが、それでも無我夢中でやれは人間何とかなるものである。
だが馬引きのような奴ばかりではないのが現実である。すぐに馬で追手が出た。
嘉勝はすぐそばに森があることに気付いた。そして馬から飛び降りた。
森へ駆け込んだ。追手が幾人かやはり馬を降りた。
嘉勝を追う。嘉勝は走る。
一人が嘉勝に追いつく。刀を振り上げる。
思いきり横蹴りを加える。
相手は吹っ飛ぶ。刀が飛ぶ。
嘉勝はそれを拾う。大した刀ではない。だが無いよりましだ。
そしてそのまま走る…
*
「へえ。大変だったんだ」
彼女は嘉勝の広い額に触れながらそう言った。
触れた手のひらから記憶が流れ込んでいるらしい。不思議なことだ、と嘉勝は思ったが、そういうこともあるのだろう、とも思った。何せ目の前にいる物自体が怪異なのだから。
「でもこういうことがあったならお前は結構幸運だ。まだお前の命数は尽きていないと見える」
「どういうことだ。俺のどの部分が幸運だというんだ。確かに命拾いしたのは幸運だとは思う。だが」
「そのことを言ってるんじゃないさ」
彼女は片方の眉を吊り上げる。
「あたしはこの国のことなら何でも知っている。あたしは鬼だからな。まあいい。今度はあたしの番だな。お前の会った幸運の正体という奴を言ってやろう」
彼女はにやりと笑う。
「十数年前にこの国の跡継ぎが消えたのは知ってるな」
「ああ、聞いた。神隠しとか言っていたな」
「神隠し、ね。冗談じゃない」
彼女は口の端に意地悪そうな笑いを浮かべる。
「あれは、さらわれたんだよ」
「誰に」
「頭悪いな。考えてみろよ」
「…現在の国主か?」
そお、と彼女はうなづいた。そして再びうつ伏せに寝ころぶと頬杖をつく。
「現在の国主は若い頃から野心家でね。先代の穏健なやり方が気に入らなかったんだ。兄だろうが何だろうがそんなことはどうだっていい。奴は戦国の将になりたかったんだ。今の世がそうだからね」
「…馬鹿なことを」
「あたしはお前の方がまだ似合うと思うがね」
「馬鹿を言え」
「お前に馬鹿呼ばわりされる程あたしは馬鹿ではないと思うがな?…まあいいさ。それでその跡継ぎは行方知れず。だが死んだという確かな証がある訳ではない。ただまわりはあきらめている。何故ならその子供が消えたのが、この森の辺りだからだ」
「お前は人を食うのか?」
「そう言われているらしいな」
上目使いに彼女は嘉勝を見上げる。
「合っているとも言えるし、合ってないとも言える。だがお前達が想像する意味での『食う』なら、あたしはそんなことはしない」
「では合わない人間が来ると殺すというのは」
「それは正しい。というか、あれはそもそもあたしを殺しにやってきた連中だからな。むざむざ殺されるのは性にあわん」
「すると子供は」
「もちろんだ。あたしは食わない。確かに子供は捨てられていたさ。それも冬の最中に身分が判らない程の薄着でね。だがそれは近くの里へと回した。あたしは子供を見殺しにできる程冷たくはないつもりだが面倒を見る程優しくはない」
「その割には俺の面倒は見たな」
「それは簡単だ」
平然と彼女は言う。
「お前にはそうしたかったからな」
「どういう意味だ?」
彼女は再び起きあがると、片方の手を伸ばし、ぐっと嘉勝を引き寄せた。度重ねて見せつけられる、この見かけによらない力に、さすがに彼も慣れてきていた。
「お前はこの顔の奴が好きだったのだろう?」
彼女は自身の顔を指す。嘉勝はうなづく。違うと言った所でこの鬼は彼の記憶を読んでいる。嘘などついても仕方がない。
「この手も」
手を掴ませる。力はあるが、しなやかな手。
「この肩も」
肩を掴ませる。強く掴んだら、壊れそうな程の細くて丸い肩。
「この身体の奴が好きだったのだろう?」
「そうだ」
「お前はあたしが彼女を食ったと思っているのではないか?」
「思わないと言ったら嘘になる」
「だとしたらお前は半分合っている。そしてあたしを半分彼女と思いながら抱いた。それもまた半分合っている」
「お前は何を言いたいんだ」
「食う、という表現がまずいんだよな」
嘉勝の手を自分の首筋に当てさせる。まだやや熱い。
「この身体は彼女の身体だ」
「…乗っ取ったのか?」
「いや」
首を横に振る。
「そうではない。彼女もまた、この中に居るんだ。最初の鬼からの記憶と人格が、ほえんという人間と融け合ったんだ。…つまりあたしは鬼であり、ほえんでもある」
そして彼女は今度は嘉勝の手を自分の額に当てさせた。
*
足を踏み入れた森は、ひどく暗かった。
気を張ってここまで一人で飛び込んでしまったが、この先どうするか、となどほえんには何一つとして思いつかなかった。
こんな高い木々は彼女は見た事がなかった。自分の国の木にはこんな高いものはなかった。
とにかく中へ進んでみた。外へは出られないのだ。出たくもないのだ。
この国の国主の前に連れ出された時、まあ嫌な予感はしたし、だいたいその予感は当たることも気付いていた。
ほえんは自分を育ててくれた寺の住職が自分を奉公に出させなかったかうすうす知っていた。下手に外に出したら自分がどうなるかなど、目に見えていたのだろう。それよりは敬愛する国主の… あの嘉勝のもとへ行った方がよほどいい、と。
ほえんはあの男が最初から好きだった。
無論最初はそういう意味ではない。ただ見ていて気持ちよい奴と思っていた程度だ。
それがあの秋、だんだん惹かれていく自分に気がついた。
ほえんには奇妙なくらい身分意識がなかった。それは自分の声と、歌と関係があった。
確かに生まれついた所は皆違う。だが例えば自分が歌った時身分によって違う反応を見せるか?
否。そんなことはない。皆何らかの反応を見せる。そこに違いがあるとすれば、それはただ人が違うからであり、身分が違うからではない。
そしてまた、ほえんが嘉勝に惹かれたのは、確かにあの時彼に言ったことで正しいのだ。
彼女はその、彼の叩く太鼓に惹かれたのだ。その音を出す人間に惹かれていったのだ。
それがたまたま国主だったのだ。
ただの太鼓打ちだったら話は簡単だったろう。だがまあそれも、彼女にはどうでもよかった。
いずれにせよ、今ここで森から下手に出たりすれば、一度入ったものとして連れ戻され、今度こそ、一度死んだものならどう扱ってもよかろう、と阪島の国主にいい様にされかねない。
それは嫌だった。
この国の国主が嫌、なのではない。
あの嘉勝以外では嫌なのだ。
自分が好きなのはあの男だけで、それ以外の奴はどうしても嫌なのだ。それだけなのだ。
さて。
ほえんはぺたんと腰を下ろす。ここまで来れば完全に迷ったな。
それを期待していた。彼女は意外と自分が計算高いことは知っている。下手すると、無意識のうちに出口を見つけているかもしれない。それはまずかった。
奥へ奥へ。
ほえんは鬼に会いたかったのである。
嘉勝との話の中で、鬼はどうやら無闇に人を殺して食っているのではないだろう、とほえんは考えた。
そして思った。
この国の地を富むなり痩せさせるなり動かしているような者だったら、何かしら会って話してみれば可能性はあるのではないかと思った。
言葉が通じないだろうか?
だがそうしたら自分にはこの声がある。それが最大の武器だった。それがほえんの生きるための最大の武器だったのだ。
話言葉には力が無い訳ではない。話言葉には感情を、力を込めないようにしていたのだ。生きるためにそれは必要だった。自分が寺で育ったのもそのせいだった。住職は、そうするように自分を育ててくれた。
歌はここ一番という時に使いなさい。確かに。実にそれは効果的だった。
やがてそれはやってきた。ふわりふわりとやってきた。
意外にも、それは青年の形をしていた。だがその身体から溢れる生気は青年のものにしてはずいぶん弱々しくなりかけていた。
見かけは本当にただの人間だから、鬼などとは思えなくてもいいのかもしれない。だが決定的なものがあった。
それの髪は、燃えるような赤だった。炎のようだ、と彼女は思った。長く、結いも何もしていない髪がただ長く伸ばされている。髪は黒、それが当然とされる世の中だった。
角は… 角は見あたらない。だけどその赤い髪。それだけで十分だ、ほえんは思う。
そして鬼は座り込んだほえんを不思議そうに見つめると訊ねた。
「お前は誰だ…」
「私は歌師だ。ここへ贄として送り込まれた」
すると鬼は悲しげな笑うと、首をゆっくり横に振った。
「帰りなさい」
彼女には一瞬言われたことが理解できなかった。そして理解したら次には、困った。本当に困ったのだ。
「道を開けてあげよう。帰るがいい」
「帰れません」
ほえんはきっぱりと言った。両手を固く握りしめる。
「今この森を出たところで私には何にもならないのです」
そして言葉に感情を、力を込めた。
「お願いします。私を食うなら食ってください。ここから出る訳にはいかないのです」
すると鬼はすっと手のひらをほえんに差しだし、額に手を触れた。冷たい手だった。だが柔らかな手だった。ほんの数刻だった。
「なるほど。帰る訳にはいかないと。だがお前はそれだけでいいのか?」
ほえんは目をむいて訊ねる。ああ自分の記憶をのぞいたのか。
「どういうことですか?」
「もう会いたくはないのかい?お前の一番会いたい男に」
ほえんの脳裏に嘉勝の姿が浮かぶ。
「会いたいです。でも会って今の私に何ができましょう?下手に戻ったところでただのお荷物になりかねません。それは嫌です。嫌なのです」
鬼はどうしたものか、と言いたげな風情でその場に屈み込んだ。視線が彼女と同じ位の高さになる。
「お前はそ奴の力になりたいのか」
「当然でしょう」
「だが今のままではその男もその国も確実に消されるぞ」
ほえんは弾かれたように顔を上げた。
「ではどうすればいいと」
鬼は面倒臭そうに真っ赤な髪をかきあげた。
「…俺はいい加減こんな面倒で厄介な… 生きてることとは縁を切ろうと思っていたんだが… だから再三の贄にも手を出さずにきたんだよな」
ほえんはそれには何と言っていいか判らないので黙って鬼を眺めていた。鬼はふと手を伸ばすと、そのやや爪の長い、細く長い指でほえんの喉を撫でた。
「お前は面白い声をしているな」
「生まれつきです」
つい反射的に口を出してしまう。気を抜いたり、戦闘的になると一言多いのだ。いつも。
「ではお前、俺と取引をしよう。俺はお前に力を貸すことができる。お前のその大切な奴に力を貸すこともできる。だが俺はもういい加減この身体を捨てようとしていた所だ。もうずいぶん長いこと使っていたからな。だから力をきちんと使おうと思うならまだ若い身体が欲しい」
「身体を」
「…ああ間違えるな。取引と言っても俺は人じゃないから破るということはしない。だが取り返しはつかない」
ほえんは撫でられた喉が動くのがその目で見て判る程に生唾を飲み込む。
「それにお前の身体だけを貰おうというのではない。俺をお前の中に入れてくれという方が正しい。だが結果的にお前が鬼と呼ばれるものになるのは仕方がないが…」
「あのひとの力になれるのですか?」
ほえんは鬼が言わんとしていることを理解した。
「それはお前の動き次第だ。上手くやれば今の俺の力に加えて、お前自身の力を強く大きくすることができるやも知れぬ」
「私は私でいられるのでしょうか」
そうできなかったら意味がない。
「それはお前の意志の力次第だ。お前がお前でありたいと思えば」
「でしたら構いません。私は私で必ずいます」
ほえんは即答する。
「私の身体に入って下さい」
…まあ逆なんだよ実際にはね。食うも食われるも。
ふっと笑った、鬼の最後の言葉はそんな感じだった、とほえんは思う。




