表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
永海の××な日常  作者: 大豆ラテ
3/4

○ 不知火 後編

 次の日にも、僕は学校が終われば真っ直ぐ、あの埠頭へと向かった。

 埠頭に係留している船がなくなっていて、老人の姿も無かった。けれど、海際へ行けば、あの人が居た。心臓が高鳴った。

 あの人は、昨日と変わらない様子で、青くちらつく黒髪を潮風に揺らして、海を見つめていた。

 その後姿に、僕が「こんにちは」と声をかけると、「こんにちは」と低めによく響く、澄んだ声がかえってくる。

「来たんだね」

 その言葉に虚をつかれて、口ごもってしまう。またね、と言っていたのは、社交辞令だったのだろうか。気が重くなる。

「えっと、はい」

 すると、彼女は「来ないと思ってた」と続けて、こちらへ顔を向ける。「でも、聞きに来たんだよね? 火の話」僕がそれに頷いたのを見て、彼女が微笑んだ。

 透き通るような、海に溶けていきそうな綺麗な笑顔。本当のところは、不知火だとか、火の話だとかではなく、彼女自身に惹かれたから、僕はここに居た。

 一目惚れというやつなのだろうか。ほんの少し話をしただけの彼女に、不思議なほど惹かれていた。

 不思議なのは、彼女自身もである。何者なのだろうか。例の不知火の話に詳しいことも、なにもかも、酷く気になるのだ。

 火の話を聞きに来たというのは、口実。彼女のことが知りたかった。

「どこまで話したかな。そう、たどりつくためにはって所だったね」

 彼女に「座って」と促されて、岸壁の隣に少し間を空けて腰掛ける。足元では相変わらず、波が砕けて白く弾けている。

「楽園へ行くには、色んなものを置いていかなきゃいけない。それでも、みんな行ってしまう。行った人達の話もあるんだ」

「その、楽園にですか?」

「そう。記録で一番古いのは……伝説になっちゃうけど筒川嶼子の話だね」

 聞き覚えが無い名前に「筒川?」と首を捻っていると、「ええと、浦島太郎って聞いたことある?」とのこと。

「浦島太郎なら分かりますけど」

「浦島は丹波の話だけれど、良く似た伝説がここにも有るの。筒川嶼子は浦島の別名だね」

「どんな話なんですか?」

「大体は変わらないよ。ただ、竜宮からは一度帰って来た後に、竜宮のことが忘れられず、亀の案内で辿った道を今度は竜宮の火を便りに廻って戻り、それでおしまい」

「ここの火が、その竜宮の火ということですか」

「そうかもしれない。他に口碑だと、竜宮のことが忘れられなかったのは、海鳴りの音が日に日に響いたからって説明がされてたりもするね」

 その話をする彼女には、海を見つめているときの不思議な様子とは違う、生き生きとした美しさがあった。「もっと時代が下っての記録だと……」もしかすると、僕が想像していた大学生かもというのが当たりで、歴史系を専攻しているのかもしれない。などと思いながら、彼女の話の一つ一つに頷いて答える。

 もっと時代の近い話になってくると、益々そう思えた。本当に見たような語り口での彼女の講釈は分かりやすくて、ついでに彼女の声が耳に心地よかった。

 彼女の話を聞いていると、想像以上にその不知火の伝説には、沢山の話が残っているようで、今まで知る機会が無かったのが不思議な程だった。

 浦島太郎の話を初め、かぐや姫なんかにある蓬莱を目指して船出して帰ってこなかった話や、海の浄土へと旅立った話、それに習って亡くなった人を水葬していたという話、海が見える山中からその火を拝んでいた話など、幾らでも話は尽きなかった。

 それに、伝説の話だけではなくて、少しオカルト混じりになってくるけれど、戦時中に起きたその海上での戦闘機の墜落事故や未帰還、それに符合する不知火を見たという記録。

 さらに近い話だと、未帰還の船。そして、複数の行方不明者とその書置きにあった、時期も年代も違うのに、奇妙に一致する海鳴りと火の話。

 話を聞いていると、海の楽園が本当にあるのだと、真実味を帯びてくるような気にさえなってくる。

 そういうこともあって、自分で思っていたよりも真剣に話にのめりこんでいた。気になるところを二、三と質問すれば、すぐに答えが返ってくる。

 はっきり言えば、彼女への下心で聞こうとしていた話だったけれど、その海の向こうの楽園の話は、僕の中で大きく膨らみきっていた。不知火の写真も、中村に頼まれたからではなく、自分が撮りたいと思うからとなる程度には。

 それに、彼女も楽しげだと思う。僕の都合のいい妄想でなければだけど。

 話をしているうちに、だんだんと話題もずれていく。火の話から、不知火の写真の依頼をしてきた中村の話に飛んだ。中学からの友人で、新聞部。無駄にある行動力で、しょっちゅう迷惑をする。だけど、それが楽しくもある。そんなふうな友達が居るという、雑談。

 今度は、僕が話役で、彼女が聞き役になっていた。それまでの話とは真逆な具合に、意味のないような雑談ばかりだったけれど、彼女はしっかりと聞いてくれているようだった。

 友達の話、家族の話。探偵ドラマの話もして見たけれど、彼女は見ていないようだった。

 学校で起きた事件、しばらく前に不審者が入り込んだことがあったのだ。その時には、中村が取材しようと言い出したり、陽子が退治しようと言い出したり、それをどうにか押しとどめたりと、大変だった。そんな話。

 話をする合間に、彼女のことも幾らか聞いてみたりもした。大学生ですか、とも聞いたけれど、そうではないとのこと。

 ここには下見に来ている、と言っていた。何の下見なのだろうか。

「君は、ねえ、行ってみたいと思う?」

 話し込んでいたのが一区切りした頃、ふいに、彼女がそんなことを聞いてきた。

「行ってみたい、その楽園に、ですか?」

 彼女が頷いたのを見て、少し考える。そもそも楽園はどんなところか。浦島太郎の物語そのままなら、随分楽しいところなのだろう。でも。

「楽園に行くには、色んなものを置いていかなきゃいけない、ですよね。どんなものを、置いていかなきゃいけないんだろう?」

「そう。筒川の話なら、彼が一度帰って来た時には、もう故郷も何も無くなっていたね」

「ううん。他は、どうです?」

 そう聞けば、彼女は顎に手を当てて宙を見て「そうだね」しばらく思い出すような様子で考えた後口を開く。

「戒道上人が海の浄土に旅立つのだと、彼は船に身一つで乗り込んでる。戦時中の海難事故、清水利樹の場合は戦闘機の機体は回収されてるね。行方不明者達のうちの……36年前の新実と10年前の平尾については、部屋から持ち出されたものは何も無かったと記録に残ってる」

「本当に、何もかもって感じですね」

 頬を掻く。基本的には行方不明の記録なので当たり前なのだろうけれど、全て置いたまま去っている例ばかりだ。

「行方不明者の話だと、家族に連絡も取ってなかったみたいだしね。ああ、でも持っていけるものあるよ」

「え、何ですか?」

「亀」

 亀。それだけ言って彼女は、謎賭けでもしているように微笑んだ。亀といえば……。

「浦島太郎が、子供から買い取った亀ですか?」

「もしくは、釣上げた亀だね。あれは彼の所有物だけど、竜宮まで持って行ってるよ」

 なるほど。確かに、元々竜宮のものだったとはいえ、所有物を持ち込んでいることには違いはない。

「ということは、海のものなら持ち込めるんでしょうか。魚とかを飼ってるなら、それを連れて行ったり」

「魚? 飼ってるの?」

「ええと、金魚なら」

 僕がそういったのを聞いて、彼女がふふっ、と声を漏らして笑った。「金魚は海につれてっちゃだめだよ」まったくその通りで、気恥ずかしくなり頭を掻いた。

「でも、そうですね。なら、何も持って行けないんですね。全部置いてその、楽園に行くのなら……どうだろう、分からないです」

「ふうん。絶対に行かない、ってわけじゃないんだ。家族を置いても?」

 目を細めて、彼女が僕を見ていた。ふと、彼女の顔が赤色にきらきら輝いているのが気がついた。もう日が傾いているのだろう、そのせいか、急に寒気を感じた。

「分からないです。なんだか、捨てれるわけ無いんだけど、何処かに行ってしまうのに惹かれるんです」

「そう」

 彼女は、まだ僕を見つめている。なんだか落ち着かなくなり、思いついた言葉をそのまま口に上らせた。

「その、あなたはどうなんですか? 行ってみたいですか?」

 問いかけてみた。すると、彼女はきょとんとした表情、自分が聞かれるとは思っていなかったという様子で目を丸くした。

「私? 私は……」

 呟いて俯き、考え込んだ。じりじりと輝く夕日が海に反射して、散っていく。やがて、彼女が顔を上げる。

「そうだね、こっちに居るのが辛かったら、向こうに行くのかな」

 彼女は海を見る。僕もつられるように同じ方へ顔を向けた。視線の先で、夕日が海に浮かぶ火のように揺らめいていた。「それとも、一緒に行きたい人が居るなら」小さな囁きが聞こえた気がした。

 思わず、彼女の横顔に目を向けた。じっと海を見つめるその横顔は、昨日より一層寂しそうに見えた。

 何も言えないままでいると、彼女が立ち上がり「さて」とこっちに手を差し出した。

 恐る恐る手を掴むと、予想外の勢いで、ぐっと引き立てられる。彼女の手は柔らかかった。

「もう夕日も終わるから。今日はおしまい」

 名残惜しいと思いながら手を離す。「はい」と答えて頷いた。

「明日も来るの?」

 そう聞かれて妙に嬉しさがこみ上げてきた。できるだけ、それがばれない様に気取って「はい」と頷く。

 彼女は微笑んで、「またね」と手を振った。


 それから、僕は毎日のように放課後にはあの埠頭に向かい、彼女はいつもそこに居て、日が暮れるまで一緒に話をするのが日課になった。

 時折、埠頭には小さな船が係留されていて、その時には必ずあの老人が漁具の手入れをしていた。そんなときには、あいさつの声をかけると、「写真は取れたか?」だとか「毎日熱心だな」だとか、いろいろと声を返して笑っていた。

 そうやって、彼にあいさつをしてから、岸壁へ向かうのだ。

 彼女との話は、ほとんどが日常生活やらなんやらの雑談ばかりになっていた。なんでも、海の火についての話は、あれで大体の概要だそうで、あとはたまに雑談の中で小さく触れる程度だ。

 色々な話をした。陽子が学校でよくしているようなドラマだとかの話は、やっぱり彼女はあまり見ていないようだった。それから、不知火の写真はどうやら中村の〆切には間に合わなそうで、必死に別記事を書いていることの話は、くすくすと笑いながら、「火はそう簡単に見えるものじゃないもの」とコメントしていた。

 僕はこれ以上ないぐらい楽しかったし、彼女もよく笑っていたから、楽しんでいるんだと思う。いつも夕暮れまで話して、「またね」と別れた。

 ただ、彼女の名前はまだ知らない。彼女も、僕の名前を知らない。理由は無い。なんだか、タイミングを逃したというのが本当のところで、今更聞くのも恥ずかしいし、彼女が聞いてくることもなかったからだ。

 でも、互いの名前を知らないけれど、毎日あって話をするという関係は、なんだか不思議な感じで、特別な気分になれた。

 だからか、他の人には、家族にもあまり話したことが無いようなことも話題にしていた。

 例えば、進学のこと。陽子は教師になりたいとかで、教育大の推薦枠を目指している。中村は、出版関係で、色々なところに出入りして勉強しているようだ。僕は、どうなのだろうか。

 何か夢があるわけではない。熱中できるものも。写真部に入ったのも、家の倉庫にカメラがあったからという理由だ。

 そんなことを話したときに、彼女は「だから、何処かに行くことに惹かれる?」と言っていた。

 そうなのだろうか。僕には自分のことが分からなかった。

 それから、祖父の話もした。祖父が海鳴りのことを呼び声と言っていたことを、思い出したからだ。その話をしていると、彼女の目はふと遠くを見るようになって、僕の後ろに誰かを見つめているようだった。

「おじいさんは、海に行ったのかな?」

「いえ、祖母が亡くなってから漁師の仕事もやめて、それでも、たまに釣りなんか出かけてたんですが。転んで骨を折ってから寝たきりになって。それからは、海が見えない部屋がいいって閉じこもって、そのまま」

 何故、最後に海を見たくなかったのだろうかは、そのとき僕には分からなかったし、今も分からないまま。でも、彼女には何か分かった様子で「見たら、行ってしまうからだね」と囁いていた。


 そんなふうに、僕の日常の中に彼女が居るようになってから、幾らか時間が過ぎた。

 もうじき、月末がくる頃の日だった。

 中村は写真の〆切が来たとかで、不知火の写真が間に合わなかったことをぶつぶつ愚痴を言ってきたが、なんとか間に合ったらしい代替原稿のことを褒めてみると、ころっと態度を変えてドヤ顔になっていた。意外と高評価を頂いたらしくてなによりである。

 それで、もう不知火の写真を撮る必要は無くなったからか、陽子が遊びに行かないかと誘ってきた。中村と後何人かで、カラオケにでもという話だったが、断ることにした。不知火の写真を撮りたいから、ということにしておいた。

 陽子は「律儀だね」と尊敬のまなざしらしきものを向けてきたけれど、まあ、その、あの人に合いたいだけなので、曖昧に言葉を濁して、さっさと出て行った。


 その日は、埠頭に小さな船が見えた。あの老人が居るのだろうから、あいさつをしてからと思って近づいたけれど、何か様子が違った。

 いつもは無心に漁具を繕っていたあの老人が、網を放り出したままぼんやりと座り込み、じっと海を見ていた。

 驚いたけれど、とにかく「こんにちは」と声をかけてみた。けれど、老人は「ああ」とだけ答えて海から目を動かすことはなかった。

 しばらく、無言。波音だけが響き、海鳥の声もない。やがて耐えられずに、何かあったのか問おうと口を開いたとき、それよりさきに「この、埠頭がな……」と老人の枯れた声が漏れた。

「この、埠頭が、もうじき廃止されるんだ」

「廃止……ですか?」

「もう破棄されてるようなもんだが、もう船を泊める許可が下りなくなる……俺の船も」

 老人の声は、酷く疲れていた。「新しい場所も、使用料だの、挨拶回だの、随分だ」そう呟く声も、潮風に紛れて散る。

「海の上では、そんなことはないのに。陸に上がると色々なしがらみがつきまとう。いや、これは要らない話だな」

 潮風に錆びた目だけが、じっと海の遠くを見ていた。

「なあ、あの火の写真はとれたか?」

 彼を慰めるような答えを言えないことが、心苦しい。しぼりだすように「いえ……まだです」とだけ答えた。

「そうか」

 そう呟いた老人は、もう何も話さず、僕のことも忘れたように海を見つめ続ける。

 頭を下げて、なんだか逃げるように足早に立ち去る僕の背に、海へ行きたいな、という老人の願うような呟きが聞こえた。


 岸壁でいつものように彼女と並んで座った僕は、あの老人のことを話した。この埠頭が廃止されることも。

 僕の中に奇妙な不安があった。この埠頭で出会った彼女。その関わりが廃止と一緒に途切れてしまうような気がした。

 もちろん、そんなものは幻覚だとは分かっている。別に埠頭がどうなろうが、会うことはできるはずなのだ。そもそも、埠頭は廃止になるといっても、即座に更地になるものでもないだろう。

 だけど、不安はふつふつと湧き上がってくるのだ。彼女から、安心させてくれる言葉が聞きたかった。

 けれど、彼女はその話を聞いた後「そう」と呟いただけだった。

 そして、急に立ち上がると「明日は雨だから、来ないほうがいいよ」と言った。まるで、僕の不安を煽るように。

 何も言えないまま、僕も立ち上がる。彼女は背を向けて歩いていく。

「さようなら」

 彼女は、またね、とは言わないままに別れた。

 その日の夜、酷く大きな海鳴りの音が、いつまでも続いていた。


 しとしとと垂れる雨の音で、その朝は目が覚めた。昨日の夜の天気予報では、晴れと言っていたのに。

 服を着替えながら、彼女のことを思い起こす。彼女は確かに、雨になると言っていた。天気予報も間違ったことを、偶然だろうか。

 階段を降りてリビングに入ると、いつものように母さんが台所にいた。それと、珍しく父さんも席について、新聞を広げている。

「おはよう」

「おう、おはよう」

「はい、おはよう。すぐにご飯用意するわね」

 自分の席に座る。目の前には、父さん、の広げる新聞の裏面。地元の祭りが海外の姉妹都市で披露されたとか何とか。どうでもいいか。

 ぼーっとしていると、母さんが朝ごはんを運んできてくれる。ごはんと味噌汁にめざしの焼き物。いつものだ。

「はい、お待たせ。お父さんも、どうぞ」

「ああ、ありがとう」

「玄関に、雨具の用意してますからね」

「ん、すまんな」

「天気予報だと晴れだったのに、嫌ねえ」

 母さんも自分の分を用意して、席に着いた。三人で「いただきます」と手を合わせた。

「まあ、外れることもあるだろう」

「そりゃ、そうですけど。何だか、父さんの亡くなった時思い出すから、嫌なの」

「ああ、あの日も予報が外れたんだったか」

「ええ、そうですよ。最後くらいって思ったのに、そのせいで結局海を見ないまま」

「親父は、海は見たくないって言ってただろ」

「行きたくなるからって。だから最後だけはって思ったんですよ」

「上手くいかないもんさ」

 夫婦の会話を尻目に味噌汁を飲んで、ごはんをかきこむ。めざしをつまんで、頭ごと。

 さっさと朝食は終わらせて、「いってきます」と席を立つ。

「おう、いってらっしゃい」

「もっとゆっくり食べなきゃ、身体に毒よ。いってらっしゃい」

 と、両親の声を背に合羽を羽織り、学校へと向かった。


 教室で朝会前に陽子と少しだけ話をした時、昨日の海鳴りのことを話題にした。「大きいし長い海鳴りだったな」と言ったら「そうだっけ?」である。探偵ドラマが最終回になって、次に始まった新作を見ていて気づかなかったらしい。

 呆れて「あんなにでかい海鳴り聞き流すぐらい面白かったのか」と聞いたが「うーん、微妙だったよ?」などと言っていた。ついでに「他にいい番組もないし、DVD借りてこなくちゃ。明も行く?」とも誘われた。

 どうしようかとも思う。あの人は雨だから来ないほうがいいと言っていた。埠頭には今日は居ないのだろう。けど、それでも。

 それでも、彼女のことが気になった。昨日の彼女の様子は、奇妙だったから。

 だから、陽子の誘いは断った。また今度、ということにして。

 埠頭へ行くことに決めると、あとの学校での時間はあっという間に過ぎた。


 雨と風が強くなっていた。合羽の上から染みてきた水気が、身体の隅を濡らしている。

 悪い視界に目を凝らす。埠頭に老人の船は無かった。この雨の中何処へ行ったのだろうか。

 いや、それよりも、彼女は居るのだろうか。いつもの岸壁へ向かう。

 普段より遥かに波が高く、海が近い。白く泡立つ飛沫も、薄暗い雨空で濁っているようだった。

 彼女は……居た。岸壁近くに伸びる波止の、一番奥。暗くて人影としか見えないけれど、それは彼女だった。

 急いで走り寄る。近づくにつれ、人影が彼女のいつもの服を着ているのが見える。合羽も傘も無く、濡れ鼠の後姿。もっと近くなり、雨に濡れた黒髪が仄暗くゆらめくのも見えた。

 ふいに、足が滑った。「うわっ」すっ転んで、思わず声が出る。尻餅をついて痛い。海に落ちなかったのは幸運だろうけど。

 それで気がついたのか、それともずっと気がついていたのか。彼女が振り向く。

「来ないほうがいいよって、言ったのに」

 いつも通りの、低めによく響く、澄んだ声。微笑みのような、表情は無いような、不思議な様子。なのに、それを見て僕の心がざわついた。

 こんな雨の中で濡れたまま、危険な埠頭で、その異様さ。それ以上にその姿が、彼女の後ろに広がる、海も陸も空も雨に混ざり合って曖昧になった風景に、溶け合うようだったことに。

 僕は、ここまで着ておいて、ただ呆然と彼女を見続けることしかできなかった。もしかしたら、見惚れていたのかもしれない。

「分からないうちに、あなたを誘いたかったけれど、あなたよりずっと行きたがっている人が居たから」

 彼女の言葉を聞いて、頭に思い浮かんだのは、あの老人の潮風に錆びた目の色だった。彼の船は……。

「あなたにも、呼び声は聞こえたのかな。そうだといいのだけれど」

 一歩、彼女が後ずさる。また、一歩。また。埠頭の端に両足をそろえて立つ。

 彼女の唇が動いたと思うと、ぐらりとその身体は後ろへ傾ぎ、音もなく海へ。波間に消えた。

「またね」

 その囁きは小さかったのに、雨と風の間を縫って僕の耳まで届いた。

 いつのまにか、海底にぼうと火が灯った。煌いて海面を照らした。光が雨に乱反射して立ち上り、海も空も陸も曖昧になって火が灯る。

 煌々と、赤々と、どこまでも深く続いていくランダムな光が、海に飲まれた星のようにゆらめいた。

 仄暗い雨の中に、海が照らされて浮かぶ。波の白い飛沫の膜を境に、埠頭より大きな魚影が尾をくねらせ、現れて消えた。

 気がつけば、僕はカメラを構えていた。揺れるファインダーの向こうに灯る海の火を、震える手で必死でシャッターを切った。

 このカメラは耐水性だったろうか。そんなどうでもいいことばかり頭に浮かぶ。何度もシャッターを切る。

 写真で、今目の前にあるものを、切り取っておかなければならないという渇望に指を動かす。そうでないと、何も残らないまま海に溶けていくようで。

 何度も何度も、シャッターを切った。


 雨風が過ぎ去った翌日は、昨日が嘘のような晴れだった。天気予報どおりの、快晴。

 いつも通りの朝を過ごし、いつも通りの学校を過ごし、そして放課後。

 僕はあの埠頭に来ていた。老人の小さな船は無い。あの老人も居ない。

 岸壁へと行く。あの人は居ない。近くに伸びる波止、あの人が昨日居た場所にも、居なかった。居たという、痕跡すらも。

 僕だけになった埠頭の波止から、じっと海を見つめた。海と空は、はっきりと地平線で別れている。

 白い飛沫の膜が波に揺れ、その奥の暗い底を覆い隠していた。ざわざわと、波音だけが絶え間なく響く。

 ただ、じっと見続ける。

 海の底に火が見えた気がした。

 波音がいつのまにか遠く響く、海鳴りに変わっていた。

 それは、彼女の呼び声が聞こえたようで、海へと僕は――

「なにしてんの?」

 振り返る。陽子が、きょとんとした顔でこちらを見ていた。

 もう一度、海を見る。もう、火は見えない。

「いや、別に」

「そう? あ。それよりね、昨日借りたDVD酷いんだよ」

「……あの雨の中借りにいったのか」

「そうそう! せっかく雨に濡れつつ借りにいってあげたのに、ほんとオチがひっどくてさ!」

「ふうん。どんなオチだったんだよ」

「え? えっとねー、そりゃもう……あれ、どんなだったっけ」

「ええ……」

「いや、だからね、忘れちゃうぐらいひどいオチだったの!」

「なんだそりゃ」

 ははは、と呆れ笑いが漏れる。「なによ」と陽子は頬を膨らませている。

 それでも笑ってると、何に釣られたのか陽子まで笑い出した。二人でひとしきり笑って、笑いすぎて涙目になったあたりでようやく納まった。

「んーと、明。一緒に帰る?」

「いや、もうちょっとここに居るよ」

「そう、じゃあまた明日ね」

 そう言って陽子は、「ばいばーい!」と元気よく手を振って去って行った。

 その後姿を目で追って、やがて見えなくなってすぐに、僕もその場を後にした。

 もう、あの人にここで合うことは無いのだろう。


 それから、あの人と出会う前までと変わらない日常に、僕の生活は戻っていった。

 しばらくしてから父さんに聞いた所、あの老人は船と一緒に行方不明になったそうだ。あの雨の日に海に出て、帰ってこなかったと記録されている。

 あの人のことも探してみたけれど、何処にもその痕跡もないし、誰も彼女のことを知らなかった。

 そして、最後に撮った写真も、ただただ何枚も雨の日の暗い海が写っているだけだった。

 あの火の写真を撮ろうと探して見つけたものは、みんな海に溶けたように消えてなくなっていた。

 でも、ひとつだけ。あの人が居なくなった日。

 あの日を境に僕には、永海の海鳴りが、呼び声のように聞こえるようになった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ