○ 不知火 前編
永海市では風の強い夜には海鳴りが聞こえる。僕の住んでいるあたりは海から程遠く、ごうごう、ごうごうと空気に溶けたうなり声のように攪拌されて響くのだ。
何人かはその音を「呼び声だ」と言っていた。去年三回忌が済んだ僕の祖父もそうだった。
僕にはただの音に聞こえる。今は、まだ。
東向きの窓から、カーテンの合間を縫って差し込む朝日で目が覚める。ぼんやりした頭で目覚まし時計を見ると、丁度セットした時間。ぴぴぴと鳴り出したそれをチョップで止めてやる。
起き上がってあくびを一つ、伸びをする。今日の朝ごはんは何だろうか。
下のキッチンで歩き回る母さんの足音を聞きながら、高校へ行く支度を始める。
「母さん、おはよう」
「はい、おはよう。もうご飯できてるからね」
今日の朝ごはんは、ごはんと味噌汁にししゃもの焼き物、それから作り置きの付け合せが幾つか。魁道家のいつものという感じがした。
僕が席に座ると、母さんも横に座って、いっしょに手を合わせていただきますと、二人で食べ始めた。
「昨日は海鳴りの日だったわねえ、明の部屋でも聞こえた?」
「んー、気がつかなかった。ところで、父さんは?」
多分、仕事で泊り込みなんだろうなと予想しながら、そう聞くと、「警察署。仕事が長引いてるみたい」当たったようだ。
「忙しい時期なのかな」
「警視さんだし、お仕事は色々あるのよ。それより、高校生だって忙しい時期じゃないの?」
急に矛先がこちらを向いた。味噌汁を飲むふりをして母さんの顔を覗うと、白い歯を見せて笑みを浮かべている。悪い兆候だ。
「さっき、陽子ちゃんがジョギングしてたわよ。朝練だって」
「ふーん」
「明はしないの? 朝練」
「写真部に朝練は無いよ……」
どちらかといえば体育会系の母さんには、お隣さんの陽子みたいな健康的生活が好ましく映るらしい。幼馴染なせいで、よく引き合いに出されて困る。
これ以上、面倒な話に繋がらないうちに、急いでご飯の残りをかきこんで「ごちそうさま、行ってきます」と立ち上がった。
「はい、いってらっしゃい。気をつけてね」
そう言って笑う母さんの声を背に家を出た。
教室に入って自分の席に鞄を置くと、「明、おはよう!」と隣の席から威勢のいい声がかかった。
「うん、おはよう」
そう返事をすると、「元気ないなー、朝ごはん食べた?」などと言うのが、僕のお隣さんで幼馴染の榊原陽子という女だ。学校の席まで隣り合っているあたりが縁というものなのだろうか。
「食べたよ」
「ふふふ、当てたげようか。ししゃもと味噌汁でしょ」
当たり。とは口に出さずに、無い胸を張る陽子を眺める。したり顔で「簡単な推理だよワトソン君」などと言い出した。そういえば、昨日は探偵ドラマを放送していたか。
「母さんに聞いたんだろ」
「えっ、何で分かったの」
「簡単な推理だよワトソン君」
目を丸くする陽子に、思わず苦笑がもれた。
「そんな驚くようなもんじゃないだろう。母さんが、陽子の朝錬見たって言ってたから、その時に聞いたんだろうなって」
「あー、情報提供者が実は共犯者だった……!」
「なんのだよ」
そんなふうに陽子と駄弁っていると、男子生徒が一人寄ってきた。
「お、中村。おはよう」
「中村くん、おはよう!」
その生徒、中村は手をひらひら振って「おはようさん。魁道、ちょっといいか?」と僕の机の上に一枚の紙を広げた。
中村の所属している新聞部が発行している、学校新聞の草案らしい。幾つかの記事の下書きで紙面が埋っている。
「これこれ」
中村が指差した記事を、僕とついでに陽子が覗き込む。そこにはこうあった、『怪奇、永海港に不知火現る』記事の担当者の名前は、当然のように中村とあった。
「えー、不知火ってお化けでしょ! 港に出たの?」
好奇心に燃えて尋ねる陽子に、中村は重々しく頷いた。その後に「そういう噂がある」との答え。「あれ?」と陽子。
「つまり、噂話からの捏造記事と」
「いや違うって、信憑性はあるの! 証拠が無いだけ!」
半眼で中村を見やると、胡散臭い笑顔で手もみを始めた。「だから、魁道に」「写真を撮ってこいって?」遮ってそう言う。「おお、何で分かった」分からいでか。
「そもそも、不知火って確か九州の話だろ。こっちじゃ聞いたこと無いし」
「だからニュースになるんだって! レア、レア物なんだよ!」
中村は拝むように手を合わせて「頼むよー、なんならそれっぽい写真ならなんでもいいから」などと言い出す。
「中村くん、それってやっぱり捏造じゃ……」
「いや、違うって! ほら、ちゃんと見える条件とかも調べたの! ここ、ここ見てみ!」
記事を読むと、そこには海鳴りの止んだ夜に不知火が灯る、とある。
「海鳴り……」
思わず、口に呟きが出ていた。その言葉に何故か惹かれるものを感じた。死んだ祖父のことを思い出すからだろうか。
途端に、中村が我が意を得たりとばかりに食いついてくる。
「そうそう! なんかさ、海鳴りが続いた後の夜に見えるんだって、詳しい場所とかはまたあとでメールするから、よろしく!」
そうまくし立てて、返事も聞かずにばたばたと走り去っていく。
ぽかんとしていた陽子が、「え、えーと」と言葉を探して天井を確認している。
「大変だねえ」
「まあな……」
苦笑する陽子に、そう、生返事だけ。海鳴り、その単語が酷く耳に残った。
その日の授業は、どこか上の空で聞いていた。海鳴りと不知火のことは、いつの間に僕の中でどんどん膨れ上がって、持て余していた。
そうして、随分長く感じた授業が終わり、放課後。教室に人はまばらだ。陽子はもう部活でおらず、中村も写真が間に合わない時用の記事を作るとかで、とっとと出て行った。
不知火についての詳しい情報は、既に中村からメールが来ている。というか、朝のあの後すぐに長文メールが地図の添付画像付きで届いたあたり、事前に準備していたらしい。
断られたら、どうする気だったのだろうか。もしかしたら、断られることは無いと踏んでいたのかもしれないが。
どうも、うまく使われているような気がするのが癪だが、とにかく不知火が現れるという場所に行ってみることにした。
地図に書かれていたのは、学校近くの川沿いから下って、海岸沿いに少し行った所にある古い埠頭だ。
わりと距離があったので、一度家に帰ってから自転車に乗ってきてみると、随分と寂れた場所だった。
自転車を止めてデジタルカメラを構える。ファインダー越しに見えるのは、閑散とした波止場と波に揺れる小さな船がひとつ。シャッターを切り、カシャリと音が響く。
そういえば、漁師だった祖父からこの埠頭の話を聞いたことがあったことを思い出した。
昔は相応に利用されていた埠頭だったけれど、近くにできた埋立地のせいで潮が変わり、船が出にくく魚も消えたとかだったか。
今では、船を留める人も殆ど居らず、釣り人も寄り付かない場所になってしまったそうだ。
不知火は、確か沖の船が出す明かりの反射が原因とされていたと思うけれど、そうではなくお化けの火というのなら、いかにもという雰囲気はあるのかもしれない。
近くの案内板に自転車をチェーンで結んでカメラ片手に、まずは一席だけ浮かぶ漁船のところへ行ってみることにした。
海際まで来ると潮の香りが強い。漁船の係留されている岸辺には、その持ち主らしい老人が居た。
地面に腰を下ろし、漁具であろう網の手入れをしている。他に人は誰も居ない……この老人は、何故この埠頭を未だに使っているのか、眺めているだけでは分からなかった。
「こんにちは」
そう声をかけてみると、潮風に錆びた茶色い目が、帽子の下からこちらをちらりと覗き、頷いた後すぐに黙々と網の手入れに戻った。
「少し、いいですか?」
もう一声をかける。また、茶色い目がこちらを見た。断られるかな、と思っていると、意外にも「ああ」と承諾らしき声が返ってきた。網の手入れの手は止まらないのだが。
「この海で、不知火が出るという噂を聞いて、調べているんです」
老人はくぐもった声で「不知火」と口にした。波にもまれて擦れ切った喉から出る声は、酷く聞き取りづらかった。「沖に見える火のことです、不思議な」そう補足してみる。
「ああ」
得心がいった、という声。そして、網の手入れを止めて僕のほうへ顔を向けた。老人は少し微笑んでいるようで、それに驚いた。
「知っている、見たことがある。あれは、不知火って名前なのか」
掠れた声で話す老人は、何度か頷くと「あの火を見に来たのか」そう続けた。
「はい。それから、写真を撮るつもりで来ました」
「そうか」
頷いた後、首を捻って「あれはしょっちゅう見れる訳じゃなし……けど綺麗なもんだったが、写真だと、どうかな。上手くは撮れん気もする」と口にする。
「写真では難しいんですか」
「いや、俺も写真を撮るわけじゃねえし、分からんな。そのままは撮れない気がするってだけだ」
「そのままは、ですか?」
いつの間にか、老人は目を細めて遠くを見ている様子になっていた。僕の後ろに、昔見たらしい不知火を思い出しているのだろうか。
「ああ、あれは本当に綺麗で……見ているとあっちに何か、こう、良い場所があるような、そんな気分になるんだよ。写真を見ても、そんな気分になるだろうか」
「ううん。撮ってみない事には、なんとも分からない感じですね」
「まあ、そりゃあそうだ」
老人は振り向いて海のほうを指差した。「俺が見た時のは、あの沖の、島も何もない辺りだったよ。それで……」言いながら、今度は埠頭の外れ、岸壁の辺りを指差す。
「あの辺りから見た。夜中、雨の日だったと思う」
「分かりました、ありがとうございます。……写真、一枚いいですか?」
そう聞くと、老人はにかっと白い歯を見せて笑った。カシャリ、とシャッターを切る。ファインダー越しに顔の皺が一層深く複雑になった。
「火が撮れたら、俺にも見せてくれ」
僕は頷いて、老人に教えられた方へ向かった。
海際といえば投げ釣りをする人や、おこぼれを狙う猫や、色々と騒がしいものだけれど、ここは違った。
聞こえるのは、波がテトラポットに砕ける音だけ。あの老人の船も遠く、人の気配は無い。視界はよく晴れているのに、先の場所より増して寂しい。
何とはなしにカメラを構え、シャッターを切る。カシャリと音が鳴って、空と海ばかりの景色を切り取った。
カメラを下ろすと、岸壁に座っている人が居た。さっきの写真の画面に入る位置のはずなのに、全く気がつかなかった。何故?
その人へと近づく。
「あの、こんにちは」
その人が振り向いた。真黒のショートカットが潮風に揺れて、海の反射か、青くちらついている。遠くからでは気がつかなかったけれど、線の細いその顔立ちは、女性のものだった。
見覚えのない顔。近所の人ではないのだろう。日に焼けたことなど無いような白い肌の美しさに、ドキリとした。
「こんにちは」
女性にしては低めによく響く、澄んだ声。微笑みのような、表情は無いような、不思議な様子でそう返ってきた。
「ええと、なにをなさってるんですか?」
言葉が思い浮かばず、そんなふうに聞いてみた。女性は、顔にかかる髪を払って、考えるような様子を見せた。
その仕草は大人びていて、年上なんだろうと思う。市内に通ってる大学生だろうかと思い浮かんだ。
「そうだね。ここから、海を見てた。誰かに話しかけられるなんて、思ってなかったな」
「その、ごめんなさい」
思わず謝る。すると、その人は分からないような微笑ではなくてしっかりと、笑みを浮かべた。
「いいよ、かまわない。でも、海を見てるのって、そんなに変かな?」
首を傾げて「思わず話しかけてしまうぐらいに」。僕は慌てて「いえ、そうじゃないですけど」と取り繕った。
「ただ、この埠頭は滅多に人もいないみたいですから、それ珍しくて」
「ふうん、そうなんだ。昔は沢山居たのにね」
「あ、それに、ここに不知火の写真を撮りにきたから、話を聞きたかったんです」
そういってカメラを見せると、彼女はふっくらした下唇に指を当て「不知火?」と呟いた。さっきと同じように、「沖に見える、不思議な火のことです」と補足すると、「うん、それなら知ってる」と頷いた。
老人のときといい、不知火という名前が通っていない。九州でのそれとは、呼び名が違うということなのだろうか。
考え込んでいると、ふいに彼女が立ち上がった。
「そっか。あれに興味があるんだね、ふうん」
そして、ぐっと顔を寄せてくる。肌が触れそうな距離。思わずのけぞると、覗き込むようにまた寄ってくる。
「じゃあ、教えてあげようか」
潮の香りに紛れて、幽かな花の匂いがした。
心臓が高鳴る。どぎまぎしていると、彼女は「あの火のお話。言い伝え」と続けた。そうして、やっと顔を離した。
それを残念に思ったのは、仕方の無いことだと思う。
「やっぱり、興味無い?」
そんな風に言うから、慌てて「いや、聞きたい、聞きたいです!」と声を上げた。
「じゃあ、教えてあげるよ」
そう微笑む彼女に、僕は心を奪われていた。
彼女は、岸壁に座り直すと、僕に隣を示した。「座って」そう言われたとおりに、横に腰掛ける。「落ちないように気をつけてね」宙に投げた足の下は、波が砕けている。水面までは思っていたよりも高く、遠い。
地面に置いた手に入れる力が強くなる。知ってか知らずか、彼女は海を見つめて語り始めた。
「あの火は、遠く向こうにある楽園の火だって言われてる」
「楽園?」
「補陀落とか、ニライカナイとか言う人も居るね。そこから零れる火が、雨の降る夜に海の向こうに見えるんだ」
「雨の日なら、不知火が見えるんですか」
「ただの雨じゃない。そのために海鳴りを響かせて、海が呼んできた雨の夜にね。海鳴りは、呼び声だから」
今までのそれとは違う意味で、どきりとする。海鳴りは呼び声。それは、死んだ祖父がよく言っていたことだ。祖父も、この話を知っていたのだろうか。
足元で砕ける波音が響く。海際のここでは、あの、ごうごう、ごうごうと空気に溶けたうなり声のような音は聞こえない。
「呼び声が雨を呼んで、雨に濡れた陸と海が曖昧になって、そうするとあの火が見える」
「火が」
「そう。火を目印に、海の合間を進めば楽園にたどり着く。だけど……」
そこで、彼女は言葉を一度切った。じっと、海の向こうを見つめている。僕は何も言わずに、話の続きを待った。
「だけど、陸のものは持っていけないから。楽園にたどり着くには、色んなものを置いていかなきゃいけない。それでも、呼ばれた人は行ってしまうんだって」
それを話す彼女の横顔は、寂しそうな、安堵しているような、不思議な表情に思えた。
酷く心が惹かれて、じっと見つめていると、急にこちらに振り向いた。
「君も、あの火を見たら行きたくなっちゃうかもね」
そうして、「なーんちゃって」といたずらっぽく笑った。何故か、僕の頬が熱くなった。
目をそらして海を見ると、まるで火のように赤い太陽が、波間に沈み始めていた。気がつかなかったけれど、もうあたりは夕焼けに染まっていた。
「もうじき夜だ。今日は、火は見えないだろうから、そろそろ帰りなよ」
「あ、あの」
「なあに?」
少し、いいよどむ。それから決心して、言葉を続ける。
「明日も、ここに居ますか?」
彼女は、夕焼けの中に微笑んで頷いた。夕日の赤と海の青が曖昧に交じり合って、輝くようだった。
無意識にカメラを構え、シャッターを切った。カシャリ、と音が響く。
自分で撮ったその音で、我に帰って慌てる。
「あ、ご、ごめんなさい、いきなり写真なんか」
彼女は何も言わずに立ち上がった。そうして、海を見ている。
「あの……」
「火の話、また続きを聞かせてあげる。私は、しばらく海を見てるから」
僕も立ち上がって、頭を下げ、背を向けて歩いた。僕の背中へ向けて、彼女が「またね」と言った。
自転車の所まできて、一度振り返ると、もう誰も居ないようだった。
夜。仕事が終わって帰って来た父さんと、母さんと、三人で夕食をとった。
その時には、学校でのことなんかを話したけれど、何故か海辺でのことは話す気にならなかった。
話さないままご飯を食べ終えて、自分の部屋に帰る。
ベッドに寝転んで、今日撮った写真を眺めていた。
「あれ?」
思わず、声が漏れる。
「写ってない」
最後の写真、あの人の姿は何処にもなく、ただ輝く赤と青の海があるばかりだった。