00 銀の刃
吐息が静寂に溶けてゆく。白濁した空気がすぐさま霧散する様子を蒼詠は床に這いつくばった体勢でただ静かに見つめていた。
あれだけ悴んだ身体も体力が衰えつつある今、震えることはない。瞼すら下ろすのが億劫で、閉じずにいれば微かに覗いた眼球が冷気に晒され、乾燥していくのが分かった。
(疲れた)
体は力なく横たわっているのに、思考は鮮明だ。
(……美しいな)
自分がいるのは冷たい石の牢獄のはずなのに蒼詠の目には今も燃え盛る炎が映っていた。
数日前に蒼詠が住む皇城を焼いた炎だ。
それは蒼詠が識る中でもっとも過激で、残酷で情熱的な色をしていた。紅薔薇のような艶もあり、夕陽のような暖かみもある。それと同時に血が吹き出したような躍動感もあった。
記憶に刻まれた炎は過去のものなのに今も消える事なく、こうして荒れ狂っている。
(なぜ、こんなことになったんだろうか)
新月の夜だった。星明かりすら掻き消す闇夜を、女たちの悲鳴と野太い男たちの怒声が震わしたことで敵襲に遭ったと気付いた。敵国の仕業か、反乱軍か、人為的に火を放たれたのは理解した。
蒼詠は、すぐさま宦官に火を消すように命じたが、その日が乾燥し、強風だったのが災いして小さな火はたちまち業火と化した。
風に煽られ勢いを増した炎は漆の壁を喰らいながら大地を舐める。勢いは止まらず、それどころかより一層と激しさを増しつつある熱火は蒼詠の足元まで広がっている。呼吸する度に肺が焼かれ、苦痛から涙が浮かぶのに蒼詠は魅入られたようにその場から動けなかった。
(みんなは無事に逃げられたのだろうか)
下半身が炎に舐られたことで蒼詠は自分よりも他者を逃すことを優先させた。あの炎の勢いはもう止められない。それならば、今自分が救える者だけでも逃がそうと思ったのだ。
身体が弱い蒼詠をいつも気遣ってくれた優しい乳母、こんな自分に忠誠を誓ってくれた近侍に宮女——全員が蒼詠を心配し、残ろうとしてくれたのを皇太子の命令だと冷たく突き放した。
(死にたく、ないな)
——生きたい。
愛したこの国をもっとより良くするために蒼詠は生きなければならない。
そう心は訴えるが、身体は限界に近い。手当てもされず、食事も満足に与えられないこの身体では、ここから逃走することは難しい。どうすればいいのか、蒼詠が思考していると声変わり前の澄んだ声が牢の中に響き渡った。
「……蒼詠にいさま」
この部屋で唯一外と繋がる扉の前で一人の子供が立っていた。歳の頃は十二か十三歳だろうか。子供ながらに他者の目を引く容姿をしている。茜色に染まる髪は少し癖っ毛で、それがまた少年の可愛らしさを引き立たせており、その瞳は夜の海を映し取ったように星の煌めきを放っている。噛み締められた唇は赤く色づき、蒼詠と目があったことに気づいたからか涼やかな目元からは涙の粒がいくつもこぼれ落ちた。
少年の正体が異母弟だと気付いた蒼詠は無理やり口元に笑みを乗せた。うまく笑えているか分からない。それでも今は異母弟を泣き止ませたかった。
「……りゅう、けん」
乾いた喉が引き攣る痛みに耐えながら、少年——龍賢の名前を呼ぶ。
「怪我、はないかい?」
鉛の体に鞭を打ち、ずるずると体をくねらせ、龍賢の元へ這いずり近づく。
滑稽な姿を視界に入れても龍賢は笑うこともせず、更に顔を歪めた。
(……よかった。怪我は、なさそう)
成長途中の肢体を包む袍は汚れも破けてもいない。覗く手足や顔にも怪我らしきものが見当たらなくて蒼詠は破顔する。
龍賢はその蒼瞳に哀傷を宿らせて、ぎゅっと拳を握りしめた。
「その怪我……。誰が、あなたを傷付けたのですか」
さあ、と答えて蒼詠は動きを止めて、目を丸くさせた。
薔薇色の頬を流れ落ちる涙は、奥に怒りを揺らめかせながらも悲しみに暮れる瞳は、決して自分に向けられたことのないものだった。見たこともない龍賢の姿が珍しくて、眺めていると金属が擦れる音が聞こえた。
「俺は、あなたの幸せを願っていただけなのに」
龍賢は泣きながら腰に佩いた剣を抜き取る。
「やめッ」
「——ごめんなさい」
悲愴な声が謝罪の言葉を紡ぐ。
それと同時に蒼詠の心臓を銀の刃が貫いた。




