貧乏神ちゃんは、人生を詰ませたい
僕には、人間の世界が少しだけ違って見える。
人間たちは、自分の人生を大層な物語みたいに思っている。けれど僕から見れば、だいたいは盤面だ。
持ち駒は不公平。金も才能も運も、最初からばらばらに配られている。それなのに、人間はみんな、自分だけは上手く逃げられると思っている。
財布。スマホ。ポイントカード。見栄。不安。あと少しあれば届く、という幻。
それを失くした瞬間、人間は詰みに近づいたような顔をする。
僕は、その顔が好きだった。
財布の中を見て固まる顔。請求書を二度見する顔。口座残高を確認して、しばらく画面から目を離せなくなる顔。
もっと好きなのは、金だけでは済まなくなった時の顔だ。
電車が遅れる。スマホの充電が切れる。家電が壊れる。雨が降る。予定が崩れる。小さな楽しみが、目の前で取り上げられる。
ほんの小さな一手でいい。
それを積み重ねて、逃げ道を消していく。
好きだったものを無駄だと言わせる。
休むことを罪だと思わせる。
そこまで行けば、もう勝ちだ。
詰み。
逃げ場なし。
人間はそこで、自分から言う。
もう駄目だ。
この人生は詰んでいる。
その瞬間が、たまらなく好きだった。
――好きだった。
「……でもさぁ、最近の人間って、ちょっと簡単すぎるんだよねぇ」
僕は配信用のリングライトの前で頬杖をついた。
画面の中に映る僕は、十歳かそこらの少女に見える。
黒い髪を左右で結び、赤みを帯びた目でこちらを覗く。黒とくすんだピンクのフリル、安っぽいリボン、チョーカー、厚底靴。
ぱっと見れば可愛い。
でも、リボンはほつれ、レースには小さな穴があり、厚底靴は片方だけ底が削れている。
地雷系、というより。
地雷そのもの。
踏めば爆ぜる。関われば生活が壊れる。
僕の前には、高級そうな椅子と、やたら大きいモニターが三枚。画面には為替チャート、コメント欄、投げ銭通知。
配信タイトルは、こうだ。
貧乏神流・絶対勝てるFX講座。
講座のふりをした、詰み筋への誘導だ。
「はぁい、よわよわ人間のみんなぁ。今日もお金、増やしたいよねぇ? 働くの下手。貯めるの下手。でも夢だけは一人前。かわいそー」
コメント欄が流れる。
『先生、今日もお願いします』
『昨日のポジション爆益でした』
『負け分取り返したいです』
『追加入金しました』
いいね。
まだ負けていないと思っている。まだ取り返せると思っている。自分だけは大丈夫だと思っている。
「まずぅ、適当な証券口座を開きまぁす。次にぃ、手持ちを適当に突っ込みまぁす。生活費? 家賃? 知らなぁい。勝てば払えるよねぇ?」
「ショートポジションを取りまぁす」
画面上のチャートが、すとんと落ちる。
「はい、儲かりましたぁ。ね、簡単でしょ? こんなのもできない人間さん、もしかして自分のお財布の読み方も分かってないのかなぁ?」
コメント欄が沸いた。
もちろん、これは僕にしかできない。
僕が売ったものは下がる。僕が指先でちょいと触れたものは、少しずつ運を失い、値を落とす。
人間が真似すれば、ただの自爆だ。
「損切りは大事だよぉ。でもぉ、ここで切ったら負け確定だよぉ? いいのかなぁ。みんなは雑魚じゃないもんね? まだ勝てるよね? 勝てるまで握れば、負けじゃないもんねぇ」
焦る。追加入金する。損切りできない。取り返そうとする。眠れなくなる。
そして、負ける。
僕は貧乏神だ。
人間を貧しくするのが仕事で、趣味で、生まれつきの性分。
けれど、最近の人間は落ちやすい。
少し逃げ道を塞ぐだけで、すぐ盤面を見るのをやめる。
その日も、僕はひとりの金持ちを潰した。
都内の高層マンションに住む若い投資家。高級時計をつけ、SNSにはいつも高い肉と高い酒と高い景色を載せている。
高い持ち物を並べただけで、自分の囲いが固くなったと勘違いしているタイプだった。
だから、まず少し勝たせた。
餌の歩みたいに、小さな成功を渡してやる。
次に、もう少し大きく勝たせた。
自分が攻めている気分にさせて、賭け金を上げさせる。
最後に、全部を逆に動かした。
三日後、男は床に座り込み、空っぽの目で画面を見ていた。
「ほらね。金があっても、貧乏になるでしょ? 残念でしたぁ。お金持ちごっこ、終了でーす」
男はただ震える指でスマホを更新し続けていた。
「ねえねえ、今どんな気持ち? 昨日まで成功者だったのに、今日はただの数字見て固まってる置物だねぇ。かわいそ。ざぁこ」
でも、笑いは長く続かなかった。
簡単すぎた。
どうせなら、最後まで盤面を見ている何かを、真正面から折ってみたかった。
「……つまんないなぁ。もっとこう、手応えのある人間いないの?」
その日の配信のあと、僕は街へ出た。
雨上がりの午後だった。
街全体が大きな家計簿みたいに見える。あるいは、よくできた盤面だ。改札を通れば残高が削れ、コンビニへ入れば支出が生まれ、広告を見れば欲しいものが増える。
何も奪わなくても、人間は比べるだけで勝手に足りなくなる。
少し誘えば、勝手に悪手を指す。
僕は鼻歌を歌いながら歩いた。
そして、古本屋の前で足を止めた。
そこに、ひとりの男がいた。
佐久間律。
二十代後半。独身。賃貸アパート暮らし。収入は低い。貯金も少ない。服は安物。靴はくたびれている。鞄も古い。髪も適当。
金持ちではない。
どう見ても、金持ちではない。
それどころか、僕が手を出す前から、かなり運が悪そうだった。
湿った財布の匂い。濡れた靴下の匂い。あと一歩で信号が赤に変わる匂い。スーパーで最後の一個を取られる匂い。
律は、それをまとっていた。
「なにあれ。最初から守り薄すぎじゃん。かわいそー。三手くらいで詰むタイプ?」
律は店に入る前に、財布の中を確認した。小銭を数え、ため息をつき、それでも古本屋へ入る。
百円棚の前で、真剣に背表紙を眺める。
一冊抜く。戻す。別の一冊を抜く。
梨木香歩の『西の魔女が死んだ』を手に取り、ページを開き、紙の匂いを嗅ぎ、少し笑う。
僕はその笑い方が気に入らなかった。
百円棚で、なぜそんな顔をするのか分からなかった。
その時、店の奥から店員の声がした。
「すみません、それ、値札つけ間違えてました。三百円です」
律は固まった。
三百円。
彼の今日の予算は、おそらく百円だった。
普通なら、少し恥ずかしそうに戻す。少し惨めな顔をする。
僕は期待した。
「はいはい、そこで顔赤くして戻すやつね。見慣れてるよぉ。お金ないって大変だねぇ」
だが、律は本を戻し、別の百円本を手に取った。
「レアアイテム、要求レベル足りずか。じゃあ今日はこっちのルートだな」
そう呟いて、少し楽しそうにページをめくる。
「……ん?」
律は落ち込まなかった。
恥じなかった。
ただ、分岐した。
「なにそれ。逃げ道を塞いだのに、なんで別の筋を見てるの」
その後も、律には小さな不運が続いた。
惣菜は目の前で売り切れた。雨に降られた。自販機には小銭を飲まれた。部屋の電球も切れた。
不幸が降るたび、律の中で何かが削れるはずだった。
けれど、違う音がした。
かちり。
律はそのたびに名前をつけた。
限定アイテム争奪戦、敗北。
自販機ミミック。
視界制限ステージ。
僕の一手は、律の中で全部、遊びに変わっていく。
久しぶりに、胸がざわついた。
「いいじゃん」
地雷みたいなフリルの裾が揺れた。
「久しぶりに、ちょっと攻めがいありそう。せいぜい逃げてね。すぐ詰ませちゃうけど」
こうして僕は、佐久間律を標的にした。
*
その夜、律は僕の動画を見た。
『貧乏神流・絶対勝てるFX講座』
律は夕飯のもやし炒めを食べながら、それを眺めた。
『ショートポジションを取ります。儲かります。ね、簡単でしょ? みんなも僕みたいにできたらいいのにねぇ。ま、無理かぁ』
律は少し考えた。
それから、画面を閉じた。
「そもそも種銭がないからな。参加条件を満たしてないイベントだ」
終了。
「……ん?」
普通なら、少しは揺れる。
なのに律は、何事もなかったように皿を洗い始めた。
「は? そこは見るでしょ。夢見るでしょ。貧乏なのに現実見えてるの、可愛くなぁい」
翌日。
律は財布を落とした。
もちろん、僕の仕業である。
現金三千円少々。ポイントカード。期限切れの割引券。身分証。
人間にとって財布を落とすのは、それなりに痛い。
僕は電柱の上から楽しみに見ていた。
「ほらほら、守りの駒、ひとつ消えたよぉ。低収入には効くでしょ? ねえ、効くよね? 効いて?」
律はポケットに指を入れたまま、しばらく動かなかった。
喉の奥から、短い息が漏れる。
笑うには、少し時間が要った。
それからようやく、律は空のポケットを叩いた。
「おいおい、運営。難易度設定ミスってるぞ。詫び石はよ」
聞き間違いかと思った。
律は交番へ行き、紛失届を出した。身分証の再発行手順を調べ、カード類を止めた。
普通なら、ここで崩れる。少なくとも、今日一日は何も手につかなくなる。
「所持金ロスト、カード封印、身分証再発行クエスト発生。今月は課金不可。無課金縛りに移行だな」
翌朝、律は残高を確認し、スマホのメモ帳を開いた。
『今月限定・無課金攻略メモ』
「ログインボーナスなし。だがデイリー消化は可能」
「違う違う違う。そうじゃない。そこは『終わった』でしょ。なんで冷静にメモ帳なんか作ってるの」
僕は詰ませるために一手を打っている。
なのに律は、別の遊びを始めている。
次の日、僕は律の電車を遅延させた。
律は駅のホームで表示を見上げた。
遅延。
振替輸送。
人混み。
普通なら、苛立つ。焦る。運の悪さを嘆く。
律は少しだけ目を細めた。
「メインルート封鎖。迂回ルート探索イベントか」
そして、歩き始めた。
いつも通らない商店街。古い薬局。閉まったシャッター。昼だけ開くらしい定食屋。百円均一。小さな惣菜店。
途中で、見たことのないパン屋の前で足を止めた。
百二十円の塩パンが売っていた。
律は少し悩んだ。
「財布紛失後の課金は避けたいが、これは初回マップ報酬と見るべきか」
買った。
「うまいな。新規エリア解放報酬としては当たりだ」
違う。
そうじゃない。
不運は、人間から奪うためにある。
新しい店を発見させるためじゃない。
「むかつく……なに普通に楽しんでるの。よわよわ財布のくせに」
僕は、さらにいくつも小さな手を打った。
シフトを減らし、スマホの充電を切らし、部屋の明かりを奪い、買うつもりだったものを目の前で消した。
ついでに、古い押し入れの中身を崩してやった。
安いマグネット式の将棋盤が畳に落ちる。その上に、傷だらけの携帯ゲーム機が、かつん、と重なった。
律はそれをしばらく見ていた。
「懐かしいな。どっちも途中で止まってたやつだ」
そう言って、何事もなかったように押し入れを片づけ始めた。
盤面を崩したはずだった。
なのに、落ちてきたのは、僕の知らない遊び道具だった。
不幸のたびに、律の目は死ぬどころか、少しだけ細くなる。
あれは、泣きそうな目ではない。
何かの攻略情報を読んでいる目だ。
「むかつく」
僕は、律の部屋の天井からぶら下がるようにして呟いた。
「貧乏人は貧乏人らしく、もっと惨めにしてなよ」
律には聞こえていない。
聞こえていないはずだった。
だから、最後に楽しみを潰すことにした。
次の休日。
律は古本屋へ向かった。
月に一度の楽しみだった。
使える金は少ない。だからこそ、百円棚から一冊選ぶのが楽しみだった。
今日は、前から目をつけていた絶版本の文庫を買うつもりだった。
僕は先回りし、その本を別の客の手元へ滑らせた。
律が棚の前に着いた時、本はなかった。
律は棚を見た。
しばらく黙っていた。
僕は棚の上で足をぶらつかせながら笑った。
「残念でしたぁ。楽しみにしてたんでしょ? 月に一回のちっちゃな楽しみ、取られちゃったねぇ」
律は棚を見ている。
「悔しい? 悔しいよねぇ。だって君、それくらいしか楽しみないもんねぇ。百円の古本を買うために、何日も考えてたんだもんねぇ」
律の指が、棚の前で止まる。
「貧乏だとさ、欲しいものもすぐ買えないよねぇ。迷ってる間に取られちゃうよねぇ。ねえ、今どんな気持ち? 人生下手っぴだねぇ」
律は、ゆっくりと顔を上げた。
僕を見た。
普通の人間には見えないはずだった。
でも、律は見た。
「お前か」
ようやく焦ったか。
ようやく怒ったか。
「そうだよ。僕が貧乏神。君を貧しくしてるのは僕。どう? つらい? 悔しい? 金がないと、楽しみも守れないよねぇ」
律は黙っていた。
「君、負けてるよぉ。金もない。欲しい本も買えない。財布も消えた。ほら、貧乏って嫌でしょ?」
僕は身を乗り出し、律の顔を覗き込んだ。
「ねえ、そろそろ泣きなよ。僕、待ってるんだけど? 泣けないの? 感情の出し方も下手なの? ざぁこ」
僕は棚の上で膝を抱え、わざとらしく首を傾げた。
「早く絶望しちゃいなよぉ。その顔、僕に見せてよ。お金も時間も楽しみも削られて、もう駄目だってなる顔。ねえ、見せて。君みたいな強がり貧乏人が折れるところ、絶対かわいいから」
律は、百円棚から別の本を一冊抜いた。
背表紙には、江戸川乱歩の『陰獣』とあった。
著者名を見る。ページをめくる。
少し古い紙の匂いがした。
「金がないのは困る」
「でしょ?」
「財布を落としたのも困った。半額惣菜を逃したのも、普通に悔しい。欲しかった本が買えなかったのも、まあ、悔しい」
僕は笑った。
勝ったと思った。
「ほらぁ。やっぱり効いてるじゃん。強がってただけ? かわいそ。強がり貧乏人さん」
だが、律は本を閉じ、少しだけ口の端を上げた。
「ひとつ確認していいか」
「なに? 今さら謝る? それとも、僕の講座に入る? 特別に初心者コースから入れてあげてもいいよぉ。まあ、君の所持金じゃ受講料払えないけど」
「貧乏神って、神様なんだよな?」
僕は胸を張った。
「うん。そうだよ。だから、その力も絶大。金をなくす。運を下げる。時間を削る。選択肢を狭める。楽しみを奪う。目的を果たすためなら、だいたい何でも起こせるよ」
「目的」
律は、その言葉を繰り返した。
「お前の目的は、人間が絶望した表情を見ることなんだよな?」
「そう言っているだろ」
僕は得意げに笑った。
「金がなくなり、時間がなくなり、余裕がなくなり、最後に“もう駄目だ”って顔をする。あれが最高なんだよ。君も、いずれそうなる」
「俺を絶望させるまで、不幸を起こす」
「そう。君が泣いて、折れて、自分の人生を嫌いになるまで」
「死ぬまでか?」
「そうだよ。死ぬまで」
僕は笑った。
金を奪う。時間を奪う。余裕を奪う。選択肢を奪う。
それでも折れなければ、もっと奪う。
それが貧乏神だ。
「逆に言えば」
律は、本を閉じた。
ぱたん、と乾いた音が鳴る。
「俺が絶望しない限り、お前は一生俺のそばから離れられない」
僕の笑みが止まった。
「……ん?」
「そういうことだろ」
「いや、まあ、そう……だけ……ど?」
「じゃあ、末永くよろしく」
律は、そう言って笑った。
怒ってはいなかった。
諦めてもいなかった。
むしろ、少し楽しそうだった。
「神様が、死ぬまで主人公のそばにいて、感情を揺らしてくる」
「なに? 急になんの話? 敵って言ってるでしょ!」
「離脱なし。ルート固定。イベント発生保証付き」
律は、僕をまっすぐ見た。
「攻略対象としては、かなり親切設計だな」
「違う!」
古本屋の空気が少しだけ揺れる。
「僕は貧乏神! 君の人生をめちゃくちゃにする神様! 詰ませる側! 敵! 災厄!」
「陥落ルートか」
「堕ちない! 詰ませるの!」
その瞬間、僕の胸が妙な音を立てた。
きゅん。
いや、違う。
これは違う。
こいつは、僕を怖がらない。
絶望もしない。
僕は人の人生をあざ笑う側。
神なの。最強なの!
なのに今、こいつは僕を、攻略対象って言った!
屈辱だった。
なのに、なぜか目が離せなかった。
「……お前、頭おかしいんじゃないの」
「そうかもしれない」
律は、百円本を小脇に抱えた。
「攻略対象が逃げないのは助かる」
「対象じゃないってば! 僕は君を詰ませる側なの!」
「分かった」
律はレジへ向かいながら、少しだけ振り返った。
「貧乏神ルート、入ったな」
僕は、何も言い返せなかった。
腹が立った。
絶対に泣かせてやると思った。
なのに、胸の奥で。
ぴろりん。
すごく嫌な音が鳴った。
もともとは、連載中の『妖奇譚』の世界観を下敷きにした短編として書き始めました。
ただ、思ったよりこの二人だけで話が綺麗にまとまったので、本編要素はほとんど入れていません。
共有しているのは、怪異が普通に現代に紛れている世界観、その一点だけです。
本編未読でも問題なく読める短編です。
本編読んでくださっている方は、「あの世界のどこかに、こういう貧乏神もいるんだな」くらいに読んでもらえれば幸いです。




