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第6話 澱む白亜

同日

旧ラッフルズ・カレッジ

オエイ・ティオン・ハム棟 第五事務室 事務掛


「越智くん、まだ終わらんのか。昭南管内における部隊への物資手配書だぞ。少しは急ぎたまえ」


高い天井の下、タイプライターの音がけたたましく響く大部屋で、恰幅の良い主査が忌々しげに書類の束で机を叩いた。


「申し訳ありません、主査殿。現地業者からの調達数字が、どうにも計算が合わず……」


越智は猫背をさらに丸めて愛想笑いを浮かべた。国民服の袖は擦り切れ、その顔には熱帯の気候にやられた中年男の疲労が色濃く張り付いている。


「いちいち末端の数字など気にするな。どうせ現場の部隊に渡れば、物資の帳尻などすぐに合わなくなる。適当に検印を押して回せ。……まったく、これだから内地から回されてきたお役所上がりは。いいからそこに置いておけ」


「主査殿……しかし、この青い伝票ですが」


越智は書類の山から、一枚の罫紙を指差した。


「『特種医療薬品および精密衛生器材』の緊急調達となっておりますが……指定業者が、ここ昭南の『王榮發オウ・エンパツ商館』となっております。私の記憶では、あそこは貴金属や宝飾品を扱う商館のはずですが……」


「いちいち業者の素性まで気にするな。現地調達などそんなものだ」


「ですが他にも……予算の請求コードが、通常の『軍需品』ではなく、『外局乙』になっています。このコードなら、本来は経理部本局の金庫で厳重に処理されるべき特秘書類です。それがなぜ、我々が扱うただの『南方物資輸送』の伝票の山に紛れているのか……。もしかして、他部署からの誤配でしょうか。後で会計監査に引っかかると面倒ですので、本局へ戻した方が——」


主査は眉をひそめ、越智の手から伝票を乱暴にひったくった。


「馬鹿野郎、声が大きい。連中が使うアレだ。誤配なわけあるか」


「ですが、手続きの筋が……」


「連中のやることにいちいち理屈を求めるな。我々のような末端の事務屋は、黙って回ってきたものに判を押せばいいんだ。少しは空気を読め」


「はあ……アレですか。……それは失礼いたしました」


越智は深く頭を下げ、再び自分の机に戻ろうと歩きだしたその時。


「どけ! 通るぞ!」


廊下から、よく響く軍靴の音が複数近づいてきた。


糊の利いた軍服に、ピカピカに磨き上げられた革長靴。恰幅の良い主査が、慌てて立ち上がり直立不動の姿勢をとる。


「やあ、ご苦労。……例の処理は、順調かね?」


「はっ! 本日中には全て完了いたします!」


「頼むぞ。大東亜の未来は、君たち事務方の双肩にもかかっているのだ」


凛々しい顔立ちの将校が、鷹揚に頷いて通り過ぎていく。


越智は通路の端に避け、深く、ひたすらに深く頭を下げた後、机に戻り、退屈そうに伝票へ検印を押し始める。


(……それにしても、連中のアレ……と、いうことは……)


ガチャン、と事務用のスタンプが重い音を立てる。


(……外局乙。わざわざ『医薬品』に化けさせて、末端の盲判を狙ったか。……王榮發と言えば、界隈では名の知れた『金塊』の闇ブローカーだ)


ガチャン。


(……まぁいい……何が出るか、少し探らせてみるか)


越智は手を止め、面倒くさそうに小さくため息をついた。


「……まったく。飼い主の財布からくすねるなら、もっと上手くやればいいものを……」


「ん? 何か言ったか、越智くん」


「あっ、いえ。あまりの暑さに、少し頭痛がしてきたと申し上げたのです」


越智はわざとらしい咳をする。


「ああ、越智くん、これを頼む。第三事務室の船舶統制班に新しく着任された真鍋中尉殿に、この消耗品を届けてくれ」


「はい。承知いたしました」


 越智は主査の煩わしげな声を背に受け、鉛筆や朱肉、真新しい帳簿類を抱えて第三事務室へ向かった。


(船舶統制班の新任……。さて、どんな兵站屋が配属されたか)


回廊を歩きながら、越智は存在感を極限まで消し去る。


第三事務室の重い扉を開けた。


部屋の奥。デスクの脇に置かれた真新しい行李。ちょうど軍靴の男が椅子を引いたところだった。床を擦る鈍い音が響く。


越智は足音を殺して歩み寄り、布地の余った国民服の背中をさらに丸めて、男の脇に立った。


「中尉殿」


あえて顔は見ない。無害で、卑屈で、山積みの書類に紛れ込めば誰の記憶にも残らない「鼠」のような軍属。そう見えるように猫背を固定し、鉛筆と朱肉、帳簿類を机の端へ静かに置いた。


「消耗品であります。受領印を」


名簿を差し出しながら、越智はほんの一瞬だけ視線を滑らせた。


焦点は、真鍋中尉の左胸。そこから覗く、鈍色の銀の鎖に正確に狙いを定める。


(……ほう。彼はひょっとして銀時計組か)


真鍋が無言で名簿に判を捺しながら、探るような鋭い視線を向けてくる気配を肌で感じた。しかしその刹那、越智はすでに視線を足元へと落とし、何も考えていない空虚な表情を作っていた。


越智は受領印の押された名簿を受け取ると、無言で背を向けた。


真鍋の射抜くような眼差しを背中に浴びながら、足早に書類の山が並ぶ第五事務室へと姿を消す。


自席に戻り、パイプ椅子に腰を下ろす。周囲では相変わらず、主査の嫌味とスタンプの音が交錯している。


越智は手元の伝票に機械的に検印を押し始めた。


(あの鋭い目……ただの事務屋じゃないな。爪の縁の微かな黄土、軍衣の砲油……北支の砲兵か)


越智はインクの匂いの中、小さくため息をついた。


「さて……ずいぶんと鼻の利きそうな中尉が来たものだ」


頭上では大きな羽根の天井扇が、湿り気を帯びた重い空気を緩慢にかき回していた。

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