第一話 紫
その日も、いつも通りの朝だった。
「お客様、エレベーターはこちらです」
スーツケースを持った女性を案内しながら、俺はホームの端を歩いていた。
特別なことは何もない。通勤ラッシュ、遅延なし、クレームも軽微。平和そのものだ。
――そのはずだった。
視界の端に、違和感があった。
線路の向こう側、空間が揺れている。
紫色のもや。
煙のようで、液体のようで、しかし確実に“そこにある”何か。
「……なんだ、あれ」
目を擦る。
消えない。
もやの中心が、ゆっくりと渦を巻いている。
まるで、こちらを見ているみたいに。
背中に冷たい汗が流れた。
俺はすぐに無線を取る。
「本部、聞こえますか。二番線ホームに異常を確認。紫色の煙のような……」
『異常? こちらからは何も確認できないが』
「いえ、確実にあります。線路中央付近に――」
『落ち着け。利用客の前で妙なことを言うな』
……見えてない?
いや、そんなはずはない。あれは明らかに異常だ。
その瞬間、紫のもやが膨張した。
空気が震える。
肌が、警報を鳴らす。
(やばい)
理屈じゃない。本能が叫んでいる。
俺はホームから離れようと駆け出した。
――ドンッ!!!
背後で、爆発のような音。
振り返る。
そこに“それ”はいた。
四足。全身が黒紫の肉塊。顔の位置に、裂けた口。
背中から何本も伸びる腕。
そして。
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?????
Lv. 12
HP:3,480 / 3,480
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「……は?」
さらに、右下に自分の表示が浮かぶ。
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如月 仁
Lv. 1
HP:120 / 120
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完全に、ゲームの視点。
ふざけているのか?
いや、違う。
化け物が飛び地面がえぐれる。
俺は改札階へ飛び降りようと踏み出した。
その瞬間。
足元が、紫に染まった。
濃く、深く。
そこに立つ自分の姿が、脳裏に浮かぶ。
潰れる。
消える。
――死ぬ。
確信だけがあった。
俺は動きを止め、引き返した。
刹那。
改札フロアが、球状に消えた。
コンクリートも、人も、柱も。
丸く、綺麗に。
息が詰まる。
今のは偶然じゃない。
だが理解はできない。
逃げるしかない。
電車が入線し、人が押し寄せる。
俺も走って向かおうとした。
そのとき。
背後から、風を裂く音がした。
足元が、紫に染まる。
濃く。
一秒。
今のままでは、届く。
俺は全力で踏み込んだ。
肩からドアにぶつかる。
体をねじ込み、背中をドアが押す。
閉まった。
次の瞬間。
外側を、爪が薙いだ。
金属が軋む音。
電車が動き出す。
俺は荒い呼吸のまま立ち尽くす。
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如月 仁
Lv. 1
HP:118 / 120
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減っている…
右上に表示。
適応者:999
喉が鳴る。
向かいの男の頭上に、数字。
Lv. 4
目が合う。
「……1か」
低い声。
電車がトンネルに入る。
照明が明滅する。
車両中央の床が、紫に滲んだ。
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?????
Lv. 5
HP:420 / 420
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裂け目から腕が伸びる。
悲鳴と混乱の中Lv4の男が前に出る。
「三体目だ。落ち着け」
拳が振るわれる。
化け物がよろめく。
俺は動けない。
その瞬間。
腹あたりが、また紫に染まった。
今度は、はっきり分かる。
ここにいたら死ぬ。
体が勝手に横へ跳ぶ。
腕が空を切る。
俺のいた場所が抉れる。
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如月 仁
Lv. 1
HP:113 / 120
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大きく減っている。
さっきより、確実に。
改札のときも。
電車に飛び込んだときも。
あの紫は。
――俺の死ぬ場所。
そして。
避けるたびに、削られる。
偶然じゃない。
これは、俺の能力だ。
Lv12から逃げた。
あのホームで、誰かが倒れた。
助けられなかった。
助けなかった。
残り、113。
あと何回、死を先送りにできる。
殺される前に殺す。
もう、逃げない。




