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暗躍の螺旋 ~スパイ天国の深淵~

作者: 東雲 比呂志
掲載日:2025/08/31

 ご覧いただきありがとうございます。

 本作『暗躍の螺旋 ~スパイ天国の深淵~』は、現代日本を舞台にしたスパイ・サスペンスです。


 スパイ天国と揶揄されるこの国で、国家を蝕む見えない脅威に立ち向かう公安捜査官と、罠に巻き込まれていく研究者の姿を描きます。

 史実や現実の事件から着想を得つつも、物語はあくまでフィクション。ですが、読後に「もしこれが現実だったら」と考えていただけるよう構成しました。


 ぜひ、主人公たちと一緒に「見えない螺旋」を追いかけていただければ幸いです。

序章 見えない脅威

第1節 街の監視

 東京・新橋。雨に濡れた舗道は、無数のネオンを映し込み、赤や青の光を散らしていた。スーツ姿の会社員が行き交い、笑い声とスマートフォンの着信音が絶え間なく入り混じる。

 その雑踏の中で、霧島健は立ち止まっていた。人波に紛れながらも、彼の視線は鋭く、通行人一人ひとりを素早く観察していく。目に見えぬ網を張り巡らせる蜘蛛のように、彼はこの街に潜む異物を探していた。

 霧島は警視庁公安部外事課のベテラン捜査官。二十年にわたる現場経験を持ち、「公安の中の公安」と呼ばれている。かつてロシア海軍大佐を現行犯で逮捕したときの記憶はいまも鮮明だ。外交官を装っていた男が机の下に封筒を滑らせた、その瞬間を彼は逃さなかった。あのときの緊張感と、背筋を這い上がるような恐怖を忘れたことはない。

 だが、事件を解決しても日本の構造は変わらなかった。相も変わらず、この国は「スパイ天国」と揶揄されるまま。目に見える危機に備える法は整っていても、目に見えない脅威を縛る法は存在しない。

 霧島はふと、街の明かりを映した水溜まりを見下ろした。そこに映る自分の顔は冷静そのものだったが、その瞳の奥には燃えさかるような焦燥があった。

 ――この街には、誰も気づかない影が蠢いている。

 そして、その影を見抜ける者は、ほんの一握りしかいない。


第2節 ニュース速報

 喫茶店の窓際。霧島健は冷めかけたコーヒーを口に含み、窓越しに人々の流れを眺めていた。いつもの光景――そう思った矢先、店内のテレビが甲高いチャイムを鳴らし、画面の下に赤いテロップが走った。

 《ニュース速報 イノベーション・フロンティア社、自己破産を申請》

 霧島はわずかに眉を動かした。

 イノベーション・フロンティア――次世代電池の開発で注目され、国内外の学会から期待を集めていた新興企業。政府も支援に乗り出し、将来は国家戦略の一翼を担うとまで言われていた。その名が「破産」の二文字と並んで映し出された事実は、ただの経済ニュースでは済まされなかった。

 画面には、蒼白な顔の社長が会見場に並び、弁護士の読み上げる定型句にうなずく姿が映っていた。背後に貼られたロゴは、かつて未来を象徴すると称されたもの。しかし、その輝きはいまや見る影もなく色褪せていた。

 店内の客たちは「またか」と言わんばかりに軽く反応しただけで、再び会話やスマホに目を戻していく。だが、霧島だけは違った。彼の直感が、心の奥で鋭く警鐘を鳴らしていた。

 ――これは偶然ではない。

 裏で糸を引く者がいる。

 コーヒーカップを置く音が、妙に大きく響いた。

 胸の奥に冷たいものが広がり、霧島の視線は画面の企業名に釘付けになっていた。


第3節 不穏な始まり

 夜更けの公安庁舎。無機質な蛍光灯が照らす会議室には、コーヒーの冷めた匂いと、書類をめくる乾いた音だけが漂っていた。

 霧島健は、机の上に置かれた資料を指で叩きながら言った。

「イノベーション・フロンティアの破綻は不自然です。資金繰りの問題だけでは説明できない。背後に外国勢力が関与している可能性が高い」

 しかし返ってきたのは、乾いたため息と冷めた声だった。

「またか、霧島。証拠はあるのか? ただの経営失敗だろう」

「大企業だって簡単に潰れる時代だ。深読みしすぎだ」

 同僚や上司の視線は、まるで迷惑な偏執狂を見るかのように冷たかった。

 霧島は口を閉ざした。これ以上言葉を重ねても、机上の論理で退けられるだけだと分かっていた。

 だが、心の奥底では確信が燃えていた。

 ――これは偶然でも失策でもない。誰かが仕組んだ作為だ。

 それを暴けるのは、ここにいる誰でもない。自分しかいない。

 会議室を出て廊下に立ったとき、窓ガラスに映った自分の顔は、冷静を装ってはいたが、その瞳は焦燥に燃えていた。

 この国の無関心が、螺旋を呼び寄せる。

 霧島はそう呟くように思いながら、夜の庁舎を後にした。


第一章 引き裂かれる天才

第1節 二人の影

 霧島健の視線は、暗がりからひとりの男に注がれていた。

 イノベーション・フロンティアの研究者――佐藤健太。彼の周囲には、既に見えない罠が張り巡らされていると霧島は直感していた。

 イノベーション・フロンティア社の研究室は、白い蛍光灯が鈍く光を放つだけの狭い空間だった。机の上には使い古されたノートパソコンと、書き込みだらけの設計図。かつて未来を照らすと称された次世代電池の夢は、いまや埃をかぶり、佐藤健太の目の下の隈と共に色あせていた。

 そんな彼の前に現れたのは、一人の女だった。

 エレナ・ヴォルコワ。ロシア大使館の文化アタッシェを名乗るその女は、鮮やかな赤いスカーフを纏い、穏やかな微笑を浮かべていた。

「ご存じですか、佐藤さん。紫式部が描いた源氏物語には、時を越えても揺るがぬ人間の欲望と孤独が描かれています」

 唐突な文学談義。だがその声は深い響きを持ち、健太の心を一瞬で掴んだ。科学に没頭してきた彼にとって、日本文化への深い理解を語る異国の女性は、新鮮であり、同時に心を許してしまう存在でもあった。エレナは巧みに彼の孤独を見抜き、知的な会話を通じて心の奥へ忍び込んでいく。

 その翌週、研究室を訪ねてきたのは別の影だった。

 李龍――大手商社に籍を置く中国人ビジネスマン。スーツの袖口には派手な時計が光り、笑みの奥に計算高さが隠されていた。

「佐藤さん。貴社の研究には大きな可能性がある。だが資金がなければ前に進めないでしょう。中国市場に展開すれば、数十倍の資金が手に入る。あなたの才能には、それだけの価値があるんです」

 健太の胸がざわめいた。経営難の現状は事実だ。研究は止まり、従業員の不安の声が日に日に募る。李の言葉は、欲望と恐怖の両方を巧みに刺激していた。

 静かに囁くエレナの声。

 豪胆に未来を語る李の笑み。

 二つの影が、天才研究者の心を少しずつ引き裂いていった。


第2節 知識人たちの証言

 午後、霧島健は大学の研究棟を訪ねていた。

 薄暗い廊下を抜け、扉を開けると、部屋の奥で眼鏡を掛けた男が静かに書類をめくっている。藤井浩一郎教授――日本では数少ない「インテリジェンス研究」の専門家である。

「霧島君、また厄介な案件を追っているらしいね」

 藤井は机に肘をつき、ゆっくりと眼鏡を外した。その目には、研究者特有の冷徹な光が宿っていた。

「教授、イノベーション・フロンティア社が破綻しました。研究者の佐藤健太が、外国の関係者と接触しているようです」

 霧島の言葉に、藤井は小さく頷いた。

「やはり、来たか。……ミトロヒン文書を知っているだろう?」

 霧島は頷く。かつてKGBの亡命者が持ち出した膨大な資料。そこには、日本を含む各国で無自覚な協力者がどのように利用されてきたか、詳細が記されていた。政治家、学者、記者――誰もが例外ではなかった。

「彼らは『自分はスパイなんかじゃない』と信じていた。だが気づけば、立派な協力者になっていたんだ。……佐藤も同じ轍を踏みかねん」

 藤井の声は静かだったが、その重みは霧島の胸を打った。

 大学を後にした霧島は、ジャーナリスト上杉亮介と落ち合った。かつて国会議員秘書を務め、いまは権力の闇を追う記者だ。喫茶店の席に座ると、彼はコーヒーに口をつけ、苦笑した。

「俺も昔はね、ただの外交付き合いだと思ってたんだ。ロシア大使館のアタッシェと食事して、世間話をして……気づけば『これは公表できない話だ』って情報を自分の口から渡していた」

 上杉の表情に一瞬、悔恨の色が浮かぶ。

「相手は友人のように振る舞う。だが実際は、国家の尖兵だ。笑顔の裏に鋭い牙を隠している。佐藤も同じ罠に掛かりつつあるだろう」

 霧島は深く息を吐いた。

 孤独を突かれる研究者の弱さ。巧妙に仕組まれた罠。そして、国家を超えて張り巡らされた見えない網。

 彼の胸に、確かな確信が芽生えていた。

 ――これはただの経済破綻ではない。情報戦の最前線が、すでに目の前で始まっている。


第3節 揺れる佐藤

 深夜の研究室。窓の外には雨粒が静かに流れ落ち、白い蛍光灯の光だけが設計図を照らしていた。

 机に向かう佐藤健太の手は、震えていた。

 机の上には、未完成の次世代電池の設計図。数年前、彼がこの技術を発表したとき、会場は拍手喝采に包まれた。日本の未来を担うと称えられ、彼自身も心から誇りを抱いていた。

 ――だが、いまはどうだ。研究費は途絶え、仲間は去り、残されたのは疲弊した数人の部下と、閉塞した研究室だけだった。

 机脇のスマートフォンが振動した。画面には、差出人不明のメール。

 《娘さん、最近一人で通学していますね。安全には気をつけることです》

 血の気が引いた。喉の奥が焼けつくように乾き、手が冷たくなる。家族が狙われている――その現実が、彼を一気に縛りつけた。

 その直後、机の上の名刺に目が留まる。

 李龍――資金提供を持ちかけた中国人商社マン。

 そこには「資金三十億円 条件:技術提供」と赤字で書かれたメモが添えられていた。

 さらに思い出すのは、エレナの低い声。

「佐藤さん、才能を埋もれさせてはいけません。世界はあなたを待っているのです」

 彼女の微笑みは温かく、同時に逃れがたい罠のようでもあった。

 家族を守るか、研究を守るか。

 どちらも失うわけにはいかない。だが、両方を守れる道は見えなかった。

 佐藤は頭を抱え、設計図に滲む涙を拭おうとした。

 その涙が、誇りなのか、恐怖なのか、自分でもわからなかった。

 静まり返った研究室に、雨音だけが響いていた。


第二章 法律の壁と無力な監視

第1節 法の空白

 霧島健は、都内の薄暗いカフェの隅で新聞を広げるふりをしながら、ガラス越しに視線を注いでいた。

 道路の向こう側には、佐藤健太の姿。外見はただの疲れた研究者。しかし、その背後には確実に異国の影が忍び寄っている。

 エレナと李――。二人と接触を重ねる彼を、霧島は一か月以上尾行してきた。会食、会合、研究室の出入り。証拠を積み上げる日々。

 だが、その努力をあざ笑うかのように、監視のノートには「決定打」が何一つ残せていなかった。

 公安部の会議室で、霧島は苛立ちを隠せずに声を上げた。

「このままでは技術が国外に流出します。早急に動くべきです!」

 だが返ってきたのは冷静すぎる上司の声だった。

「霧島、証拠はあるのか? 彼が国家機密を漏らしたという確証が」

「現行の法律では、スパイ行為そのものを処罰できない。公務員法や不正競争防止法に抵触しない限り、逮捕は無理だ」

 机の下で、霧島は拳を握りしめた。

 彼が何をしているかは明らかだ。だが、日本には「スパイ防止法」が存在しない。

 つまり、彼らは堂々と暗躍できるのだ。

 その夜、庁舎を出た霧島は、街の雑踏に紛れながら立ち止まった。

 信号待ちの人々、笑い声、スマホの光。誰も気づかない。誰も守ろうとしない。

 この国の法は、目に見えない脅威から国民を守るための武器を、持ち合わせていなかった。

「……このままでは、いつか必ず喰い尽くされる」

 呟きは雑踏に飲まれ、霧島の胸中だけに重く沈んでいった。


第2節 堂々と動く工作員

 煌びやかなシャンデリアが天井から降り注ぐ大使館の夜会。

 グラスを片手に微笑み合う紳士淑女の中に、エレナ・ヴォルコワの姿があった。白いドレスに身を包み、知的な笑みを浮かべながら、彼女は次々と研究者や文化人に声をかけていく。

「日本の古典は本当に奥深いですね。源氏物語に描かれる愛と裏切り――現代にも通じるものがあります」

 相手の男は頬を赤らめ、うなずいた。ほんの数分で、エレナは彼を友人と錯覚させていた。

 霧島は会場の端でグラスを握りしめながら、その様子を見つめていた。――これが彼女の手口だ。文化交流を装い、人の心を自然に解きほぐし、情報を抜き取る。外交官という肩書が、彼女を完全に守っていた。

 一方で、李龍は別の舞台で動いていた。

 都心の高層ホテルの会議室。スーツ姿のビジネスマンたちを前に、李は自信に満ちた声で語る。

「中国市場は広大です。皆さんの技術があれば、数倍の利益を保証できます。必要なのは、わずかな協力だけです」

 スライドに映し出された数字やグラフに、出席者の目が輝く。彼の背後には、国家の影が潜んでいることなど誰一人気づかない。彼の名刺には「商社部長代理」としか記されていないのだから。

 霧島は会場の片隅で観察していた。李の笑顔は、金と未来をちらつかせながら、巧みに相手を絡め取っていく。

 彼らの活動はすべて合法的に見えた。外交パーティ、ビジネス会合。どれも公然とした場で、堂々と行われている。

 だが、その裏で交わされているものは、国家を揺るがす情報だった。

 霧島の視線は鋭くなった。

「……この国は、本当にスパイ天国だ」

 胸の奥に燃える苛立ちと焦燥は、もはや抑えられなかった。


第3節 国家の無関心

 夜の喫茶店。上杉亮介はコーヒーをかき混ぜながら、霧島に小さなレコーダーを差し出した。

「……聞いてみろ。俺が入手したデータだ」

 再生ボタンを押すと、すぐに聞き覚えのある声が流れてきた。

――《総理、来月の外遊の日程ですが……》

 別の声が答える。

――《例の案件は、国内では公表できない。外交上の配慮を優先せよ》

 霧島の背筋に冷たいものが走った。声の主は、間違いなく首相官邸の内部関係者だった。録音は生々しく、細かい生活音まで入り込んでいる。つまり、官邸そのものが盗聴されているのだ。

「……まさか、ここまでとは」

「現実だよ。総理の自宅も同じ状況らしい。だが、もっと驚くのはその後の対応だ」

 上杉は皮肉な笑みを浮かべた。

「俺はこの件を官邸側にぶつけた。だが返ってきたのは一言だ――『国際問題にしたくない。放置しろ』」

 霧島は言葉を失った。国家の中枢が盗聴されてもなお、政治は波風を立てぬことを優先する。安全保障よりも、外交の体裁が大事だというのか。

「この国は、骨の髄まで無防備だ」

 上杉の低い声が喫茶店の空気を震わせた。

 霧島は、手にしたレコーダーを強く握りしめた。

 眼前の敵は見えない。だが確かに存在する。

 そして最も恐ろしいのは、その存在を「ないこと」にしようとする国家自身なのだ。

 胸の奥で、焦燥と怒りが螺旋のように渦を巻き始めていた。


第三章 決断の時

第1節 危機の兆候

 夜の雨は、都心の街路を墨色に染めていた。

 霧島健は車内から望遠レンズを覗き、ビルの明かりを注視していた。視線の先は――佐藤健太。

 彼は研究室に一人残り、机の上で分厚い封筒を何度も持ち上げては、また置いた。落ち窪んだ目の奥に、迷いと恐怖が交錯しているのが遠目にも伝わってくる。

 霧島の耳に、過去の記憶がよみがえった。

 かつて彼が逮捕したロシア海軍大佐――そのときも、同じだった。外交官を装った男が、封筒を手渡そうとした瞬間、すべてが露わになった。国家の技術も、人の人生も、ほんの一枚の書類で崩れ去る。

 佐藤がポケットからスマートフォンを取り出す。画面には短いメッセージが浮かんでいた。

《明晩、港区のダイニングバーにて。書類を忘れずに》

 送り主の名前は記されていない。だが、霧島にはわかっていた。エレナか、李か――あるいは二人揃って。

 背筋を冷たいものが駆け上がる。

 ついに「その時」が迫っている。次世代電池の設計図が国外へ流出すれば、日本の技術基盤は根底から崩れる。

 ハンドルを握る手に、自然と力がこもった。

「……やらせはしない」

 窓を叩く雨音が、霧島の胸の高鳴りと重なっていた。


第2節 上層部の躊躇

 公安庁舎の会議室。窓の外では雨雲がうねり、低い雷鳴が響いていた。

 霧島健は机に書類を叩きつけるように置き、声を張り上げた。

「佐藤健太が、次世代電池の設計図を明晩、外国勢力に渡す予定です。これは確実な情報です! 今動かなければ、日本の未来は――」

 言葉を遮るように、部屋の奥で上司が椅子を鳴らした。

「霧島。証拠はどこにある? 現物を押さえたわけでもないだろう」

「しかし、このままでは……!」

「外交問題になるんだぞ!」

 別の幹部が机を叩いた。

「相手は大使館関係者だ。動けば抗議が殺到する。証拠不十分で逮捕すれば、こちらが非難される。そんな火種を抱える余裕はない!」

 会議室の空気は重く、冷たかった。霧島の訴えは壁に吸い込まれていく。

 彼は歯を食いしばり、拳を震わせた。

 確かに、法の壁は存在する。だが、目の前の脅威は法の条文など待ってはくれない。

 上層部の視線は、外交の均衡と世論の批判に怯えていた。誰一人、国を守る覚悟を持とうとはしていなかった。

 会議が終わると同時に、霧島は無言で立ち上がり、廊下に出た。

 窓ガラスに映る自分の顔は、怒りと無力感で歪んでいた。

「……この国は、自ら守ろうとしないのか」

 呟きは、雷鳴にかき消された。

 だが胸の奥には、燃えるような決意が芽生えつつあった。


第3節 突入の決断

 港区のダイニングバー。ネオンが滲む雨夜に、暗い影が集まっていた。

 霧島健は車の中から双眼鏡を覗き、店内の様子を凝視していた。テーブルに座るのは、佐藤健太。そして向かいに、エレナ・ヴォルコワと李龍の姿。

 彼らの前には、厚い封筒が置かれていた。

 霧島の鼓動が耳の奥で鳴り響く。

 ――これは、すべてを失うか、守り切るかの境界線だ。

 無線から上司の声が飛んできた。

「霧島、まだ動くな。外交問題になる」

「……了解」

 口では従いながらも、霧島の指はトリガーのように強張っていた。

 頭の中に、藤井教授の言葉がよみがえる。

『無自覚の協力者ほど恐ろしいものはない』

 そして、上杉の悔恨の声。

『気づいたときには抜け出せなかった』

 今この瞬間、佐藤はその道を踏み出そうとしている。

 止められるのは、自分しかいない――。

 霧島は無線を切った。

 シートの下に隠していた拳銃を確かめ、深く息を吐く。

 扉を開けた瞬間、雨粒が顔を打った。その冷たさは、決意をより鋭く研ぎ澄ませた。

「……行くぞ」

 仲間の公安隊員たちが頷いた。

 霧島は濡れた路地を踏みしめ、バーの扉へと向かっていった。

 螺旋の中心に飛び込む覚悟を胸に――。


終章 終わらない戦い

第1節 現行犯逮捕

 港区浜松町のダイニングバー。

 店内は落ち着いたジャズが流れ、ワイングラスの澄んだ音が響いていた。客たちの談笑の中、奥のテーブルにだけ異様な緊張が漂っている。

 佐藤健太は汗ばむ手で封筒を握りしめていた。向かいには、冷ややかな微笑を崩さぬエレナ・ヴォルコワと、腕を組んで座る李龍。二人の視線は、獲物を逃さぬ猛禽のように彼を縛りつけていた。

「さあ、佐藤さん」

 エレナが柔らかく促す。

「未来は、あなたの選択にかかっています」

 佐藤は唇を震わせ、封筒をテーブルの上にそっと置いた。李が手を伸ばす。

 その瞬間――。

「動くな! 公安だ!」

 店の扉が乱暴に開かれ、霧島健が数名の公安隊員とともに雪崩れ込んだ。

 照明に反射する拳銃の黒光り。

 客たちの悲鳴が飛び交い、グラスが割れて床に散らばった。

 佐藤は顔面蒼白となり、椅子ごと後ろに倒れ込む。

 エレナは一瞬、驚いた表情を見せたが、すぐに唇の端を上げ、不敵に笑った。

 李は冷ややかな眼差しを霧島に向け、両手をゆっくりとテーブルに置いた。

 霧島は一歩前へ進み、封筒を押さえ込んだ。

「これ以上、日本を弄ぶことは許さない」

 店内は一瞬にして静まり返った。

 雨音だけが、遠くでかすかに響いていた。


第2節 骨抜きの結末

 数日後、公安部の会議室には重苦しい沈黙が漂っていた。

 霧島健は机上の報告書に目を落としながら、拳を固く握った。

「……エレナ・ヴォルコワ、外交特権を理由に釈放。李龍についても、証拠不十分のため送致見送り」

 同僚が淡々と読み上げる。霧島の耳には、空虚な響きしか残らなかった。あの夜、自分が全身で掴み取ったはずの勝利は、たった数行の書面で霧散したのだ。

 残されたのは佐藤健太だった。

 だが、彼に科せられたのは「不正競争防止法違反」や「業務上横領」といった限定的な罪状にすぎなかった。国家を揺るがす技術流出の罪は、法のどこにも存在していなかったのだ。

 記者会見で読み上げられる検察の発表を、霧島は硬い表情で見守った。

「被告の行為は、国家の安全保障に直接関わるものではない。従って、適用できる範囲の法律に基づき……」

 傍聴席から洩れるため息と失望。国民の多くは事件の全容を知らず、報道も「一企業の不祥事」として矮小化されていった。

 イノベーション・フロンティア社は完全に破綻し、研究者たちは散り散りに姿を消した。日本が誇った次世代電池の夢は、国際競争力を失った灰と化した。

 国外では別のニュースが流れていた。

「日本のセキュリティクリアランス制度の欠如を懸念、共同研究からの除外を検討」

 国際社会は冷淡に背を向けつつあった。

 霧島は無言で拳を握った。爪が掌に食い込み、痛みがわずかな現実感を与えた。

 ――捕まえても裁けない。守るべき法が存在しない。

 その事実こそが、彼にとって最も深い敗北だった。


第3節 螺旋の中へ

 夜の東京。濡れたアスファルトの上に、街灯の光が長く伸びていた。

 霧島健はコートの襟を立て、雑踏の中を一人歩いていた。

 事件は終わった。だが、胸の奥には何ひとつ解決の感触はなかった。

 エレナと李は外交特権の盾で逃れ、佐藤は軽い罪で処理され、企業は消え、日本はまたひとつ未来を失った。

 ――勝ったはずの戦いは、実質的には敗北だった。

 歩道の広告ビジョンには、海外企業の新技術発表が映し出されていた。そこに含まれているのは、自分たちが守ろうとしたはずの設計図かもしれない。胸がざわめき、奥歯が軋む。

「……この国は、まだ目を覚まさないのか」

 呟きは、車の走行音にかき消された。

 しかし霧島にはわかっていた。これは氷山の一角にすぎない。別の街で、別の企業で、同じような取引が今も行われている。

 螺旋は終わらない。絡み合い、深みへと沈み込んでいく。

 そしてその中心には、必ず人の弱さがある。孤独、欲望、恐怖。そこに牙を立てるのが、スパイという存在だ。

 霧島は立ち止まり、夜空を見上げた。雲の切れ間から覗く月が、冷たく光を放っていた。

 彼の目は、その光を映し、決意の色を取り戻していた。

「俺が止める。何度でも、たとえ一人でも」

 再び歩き出す足音が、雨に濡れた路地に響いた。

 その音は、見えない戦いの続行を告げる決意の鼓動でもあった。

 ここまで読んでいただき、ありがとうございます。


 本作は、日本の脆弱さや法の隙間を題材としていますが、同時に「人間の孤独と選択」がテーマです。

 情報戦という無形の戦いの中で、人は何を守り、何を失うのか――その葛藤を最後まで描き切りたいと思っています。

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