第7話 「幻影の問い」
その瞬間、風が止み、森の音が一拍だけ消えた。
次の瞬間、枝の陰で小さな影が動くのが見え——
マイラは息をのんだ。教会の屋根は、目の前だ。
胸の奥で、心臓がひとつ強く打った。
——やっと辿り着いた。
安堵にも似た感覚が喉の奥に浮かびかけたが、それはすぐ、言い知れぬ緊張に押し流される。
森は、まるで誰かが時を止めたように静まり返っていた。
耳を澄ましても、葉擦れも鳥の声も返ってこない。
マイラは握った木のボタンの感触に意識を向ける。
冷たかったはずのそれが、じわりと掌に温もりを広げてくるのが、不思議と心細さを紛らわせた。
茂みを抜けた瞬間、苔むした屋根が視界いっぱいに現れた。
灰と緑がまだらに混ざった古い板金。
片方だけ欠けた棟飾りに、春先の苔が厚く張りついている。
その古びた姿が、ただの廃墟でないことを告げている気がした。
「……きゅ」
肩の上でルフトが短く鳴く。
小さな鳴き声の中に、警戒と問いが混ざっているのを感じ取る。
マイラは小さく頷き、声を出さずに「大丈夫」と唇だけで伝えた。
……本当は、自分にもその確信はないのに。
外壁に近づくと、石肌の隙間に渦を巻くような刻印が浮かび上がっていた。
——木のボタンと同じ模様だ。
心臓の鼓動が、さっきより速くなる。
(やっぱり……ここだ)
短い確信が、次の瞬間には緊張に変わる。
その時、空気が**すう…**と揺らぎ、視界の色が反転した。
森の匂いが消え、代わりに温かいパンの焼ける香りと、人々の話し声が耳を満たす。
マイラは反射的に一歩後ずさりしそうになったが、足元の確かさに踏みとどまった。
……ここは、同じ教会? でも——。
崩れていない壁。色鮮やかなステンドグラス。
床に落ちる虹色の影の美しさに、思わず息を呑む。
祭壇には花束と果物、そしてあの木のボタンとそっくりの装飾が供えられていた。
胸の奥に温かい何かが広がると同時に、説明のつかない懐かしさが押し寄せる。
「……お前は、あの日の願いを叶える者か?」
背後から声が落ちてきた。
低く、穏やかで、それでいて拒めない響き。
振り向くと、ローブをまとった男が立っていた。
顔は影に隠れ、瞳だけが金色に光っている。
何かを答えなければと思うのに、喉がうまく動かない。
息を飲んだまま固まる自分に、男はゆっくりと手を差し伸べてきた。
その手が木のボタンに触れようとした——瞬間。
ぱしん、と見えない何かが弾けた。
景色がひび割れたガラスのように砕け、光が一気に白く溢れる。
胸が強く締めつけられ、息をするのも忘れる。
「選べ。残すか、渡すか」
耳元で囁く声。
問いの意味を理解する前に、足元の感触が消えた。
浮遊するような無重力の感覚。
マイラは反射的に木のボタンを胸に抱え込む。
それが正しい選択なのかもわからぬまま——。
次の瞬間、冷たい石床が足裏に戻った。
目の前には、崩れかけた祭壇。
さっきの温かな光景は、跡形もなく消えている。
だが、掌の中には木のボタンと……もう一つ。
小さな麻袋だ。
指先が震えないよう意識しながら口紐を解くと、中から薄く磨かれた半透明の石片が現れた。
中央には、あの渦巻き模様。
見た瞬間、胸の奥がざわつく。
「……きゅ?」
ルフトが首をかしげる。
マイラは唇を噛み、幻の男の声を思い返す。
「選べ……って、何を?」
答えは、まだどこにも見つからない。
その時——。
外から、枝を踏みしだく乾いた音が響いた。
ぱきり。
一歩、また一歩。
何者かが教会の外壁を回り込んでくる。
探している。確実に、こちらを。
マイラは麻袋を握りしめ、ルフトに目配せした。
ルフトの瞳が、かすかに金色を帯びる。
胸の奥の鼓動が、もう一段速くなる。
——外の足音が、小扉のすぐ前で止まった。