第6話 南の丘の手前、風が変わる
カイの指が、紙片を握る音が聞こえた。
その時、奥の路地から別の足音が近づく。
「走れ!」
カイの声と同時に、二人は逆方向へ飛び出した。
背後で何かが石畳を削る音が響く。
影が壁に長く伸び、その形が紙片の印と重なった——。
マイラは息を切らしながら、川沿いの道へ駆けた。
追う気配はすぐに遠ざかる。だが、カイの姿ももう見えない。
「……カイ!」
呼びかけても返事はなく、代わりに風が頬をかすめるだけ。
胸の奥にざわめきが広がる。
彼が向かう場所は、ひとつしか思い浮かばなかった。
斜めがけの鞄を握り直し、マイラは南の丘——廃教会の方角へ歩き出す。
肩口のルフトが「きゅっ」と短く鳴き、尾を前方に向けた。
夕暮れは、町はずれで色を変える。家々の屋根の赤が遠のくにつれ、川面は銀色から薄藍に沈み、堤の草は風に「さらさら」と伏せていく。足裏には乾いた小石の「こつ、こつ」という反響。春の空気はやわらかいのに、進むほど冷えが混じり、頬に触れる風が少しだけ鋭くなる。
水車小屋を過ぎると、道は細く、土は湿ってくる。踏み跡の間に水溜まりが点々。「しゃぷ」と跳ねないよう、爪先でかわして進む。どこかで野鳩が一羽、慌てたように飛び立った。
「……急いだんだね、カイ」
独り言が息に混じって白くほどける。
丘へ向かう手前の切り株で、マイラは足を止めた。焦りで胃が固くなっている。けれど、ここで一度、落ち着く。
「少しだけ、ね」
鞄から布包みを取り出し、ブルームパンを半分に割る。「ぱきっ」。割れ目の断面は淡い桃色で、花びらを刻んだ生地がほのかに甘く香る。
次いで水筒の栓を緩めると、金葉ハーブの蒸気がふわり。「はあ」と息を吹きかけて一口。舌にやわらかな苦み、すぐに蜂蜜の丸い甘さが追いかけてくる。喉を通る熱で胸の奥がほどけ、固くなっていた心臓の鼓動が整っていく。
「きゅ」
「うん、すぐ行く。エネルギー、入れないと」
ルフトには小さくちぎったパンをひとかけ。彼は前足で押さえ、「こり、こり」と上手に齧る。
もう一口、温度の下がった茶を流し込み、マイラは立ち上がった。食べた分だけ、足が軽くなる。視界の輪郭がはっきりした。
丘の斜面へ入ると、土の匂いに古い木の匂いが混じる。枝が頭上で「かさ、かさ」と触れ合い、遠くで水の「ちょろろ」という音。春の森なのに、鳥の声が妙に少ない。
「……静かすぎる」
言葉にした途端、背筋を細い冷たさが走った。ルフトの毛がわずかに逆立つ。
「大丈夫。怖いのはわたしだけじゃない。カイのほうが、きっともっと怖い」
自分に言い聞かせるみたいに歩幅を広げる。「ざっ、ざっ」と落ち葉を払う足取りは速く、でも粗くはならない。呼吸は浅くならないよう、数える。四つ吸って、四つ吐く。
やがて、道の片側だけ草が不自然に倒れている場所に出た。よく見ると、足幅くらいの間隔で、同じ方向へ草が押しつぶされている。
「通った跡……だよね」
しゃがんで指で撫でる。まだ草は湿り、押し跡は新しい。胸が一度、強く跳ねた。
その時、靴裏で「かち」と固い感触。
足をどけると、小さな木のボタンが落ちていた。円い面に、波のような彫り。縁は使い古されて艶が消え、穴には切れた糸が一本だけ残っている。
「これ、見たこと……ある。カイの上着」
市場で見送ったとき、揺れていたあのボタン。胸の奥に熱と冷えが同時に立ち上がる。
「きゅっ!」
ルフトが短く鳴き、耳を前に向ける。風向きが、ふいに反転した。さっきまで頬を撫でていた流れが、今度は首筋の後ろから吹き、前髪を「ふっ」と持ち上げる。湿った土の匂いが濃くなり、古い木材——濡れた梁のような匂いが混じった。
木々の切れ間、その向こうに、黒ずんだ屋根がのぞく。苔の線が斜めに走り、破れた瓦から白い月の欠片が覗いている。
胸が「どん」と鳴り、かかとが一歩、勝手に前へ出た。
「カイ——」
呼びかけは風にほどけ、森に吸い込まれる。返事はない。代わりに、どこかで「からん」と乾いた金具の音が一度だけ。何かが、ゆっくり揺れている。
マイラは木のボタンを掌に包み、ぎゅっと握った。指先に木の冷たさ。
「行こう、ルフト」
「……きゅ」
息を合わせて、最後の茂みを払う。
その瞬間、風が止み、森の音が一拍だけ消えた。
次の瞬間、枝の陰で小さな影が動くのが見え——
マイラは息をのんだ。教会の屋根は、目の前だ。