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第4話 影を追う足音


 安堵の息が重なった、そのとき——


「——誰だ、お前ら!」


 怒声が背中の皮膚を刺した。

 廃教会の軒影から、中年の男が現れる。

 厚手の作業上衣に、腰には大きな鍵束。「じゃらん」と金属の束が鳴る。

 目が荒い。


「立入禁止だって言ってるだろうが!」


 男がつかつかと踏み出す。

 土を踏む音が重い。「ずん、ずん」。


 カイとマイラは、無言で顔を見合わせた。

 合図はいらない。


 二人は同時に踵を返し、脇の細い通路へ飛び込んだ。


 教会と外塀の隙間は、人ひとりが横向きでやっと通れる幅だ。

 石と石のあいだには苔が厚く、「ぬる」と滑る。

 肩が壁に擦れて、砂が「じゃり」と皮膚をかいた。


 鍵束の音が追ってくる。「ジャラ、ジャラ、ジャラ」。


「止まれ!」

「ごめんなさい!」


 マイラは叫んだが、足は止めない。


 前方で通路が折れ、光が抜ける。

 飛び出した先は斜めに傾いた狭い裏庭で、半分は土、半分は崩れた石板だった。


 カイが左へ。マイラが右へ。

 瞬間の判断で二人の動線は重ならず、互いの肩がかすめるだけで済んだ。


 ルフトが「ピィッ!」と甲高く鳴く。


 裏庭の隅に古い薪棚があった。

 半分朽ちて、影だけが深い。


「あそこ!」


 マイラが顎で示すと、カイは頷き、薪棚の裏へ身を滑り込ませた。

 二人は背中合わせにうずくまり、息を殺す。


 足音が近づいて——止まる。


 男の吐息が、腐った木の匂いに混ざって流れ込む。


「……ったく、子どもってやつは」


 鍵束が「からん」と鳴って、遠ざかりかけて——また近づく。

 影が棚の向こうで揺れた。


 ルフトがかばんの中で身じろぎする。

 マイラはそっと指先で布越しに撫で、「しー」と息で合図した。


 長い十数拍ののち、足音は本当に離れていった。


 鳥の声が戻る。

 風が庭の草に「さわ」と触れる。


 二人は同時に肩の力を抜いた。


「……ふう」

「危なかった」


 互いの脈が、まだ早い。


 マイラは胸元からそっと紙片を取り出した。


 薄い。手漉き紙ではない。

 角がまだ鋭く、汚れはほとんどない。

 ——最近のものだ。


 光の入る角度に傾けると、紙の表面で墨がうっすら光った。


 描かれているのは、円のようで、でも円ではない。

 半円が二つ、少しずらして重なり、その接点に小さな点が三つ。


「読める?」


 マイラが囁くと、カイは紙を覗き込み、ほんの一瞬だけ目の色を変えた。


「これは——」


 言いかけて、カイは首を振る。

 言葉が喉でほどけた気配。


「どうしたの」

「……後で話す」


 短く、硬い。


 マイラは視線を紙と少年の横顔の間で往復させた。


 頬を撫でる風がやけに冷たい。

 遠くで教会の扉がまた「ギィ」と鳴った。


 彼女は立ち上がり、薪棚の隙間から庭を伺う。

 男の姿はない。外塀の方へ戻ったのだろう。


「今のうちに、離れよう」

「うん」


 裏庭を抜けると、教会の西側に崩れた石段が続いていた。

 段差は不揃いで、苔が厚い。

 足を置く位置を間違えると簡単に滑る。


 マイラは先に立ち、靴の先で苔の薄い場所を選んで「とん」と踏む。

 カイに手で合図し、「こっち」。


 風が斜面を駆け下り、「ひゅう」と耳の横を抜けるたび、ルフトが小さく「ピ」と応えた。


 石段を降り切ると、細い用水路に沿って人通りのない路が延びている。

 水は澄んで速く、「さらさら」と小さな音を立てながら、春の光をちいさく砕いていく。


 人目の届かない曲がり角まで来て、二人はようやく歩を緩めた。


 肩で息をしながら、マイラは紙片をもう一度ひらく。


「これ、地図か、印か、どっちだろう」

「印だ」


 カイの答えは迷いがなかった。


「誰の?」


 少し間があって、少年は言った。


「……あいつのだ」


 風が止んだ。


 わずかな静けさが、言葉の輪郭を際立たせる。


 マイラはカイの横顔を見た。

 いつもより、ほんの少しだけ幼く見える。


 視線の奥で何かが動いた気がして、それが何かを訊ねかけた時——


 用水路の向こうで「ガシャン」と金属の落ちる音が響いた。

 すぐに、あの鍵束の「ジャラ、ジャラ」という音。


 追ってきた?

 それとも、別の誰か?


 マイラは紙片を素早く折り、かばんの内ポケットへ滑り込ませた。


 ルフトが身を起こし、耳のような羽毛をぴくりと震わせる。「ピ……」


 カイはほんの刹那だけ、マイラの手の位置を確認するように目を落とし、それから顔を上げた。


「——走れる?」

「もちろん」


 二人は、再び風になる。


 石と土の匂い、春の陽、遠くの鐘の残響、すべてを背中に受けて。


 足音は「タタタ」と軽く、角を切れば「きゅっ」と砂が鳴る。


 用水路沿いの路を抜け、低い橋を一気に渡り、物干し縄の春の洗濯物の下をくぐる。


 白い布が頬に触れて「ふわり」。


 それでも、紙片の角の感触は指先に残ったままだ。

 新しくて、どこか懐かしい、嫌なほど確かな感触。


 背後で、名も知らぬ足音が重なる。

 誰かがこちらを追ってくる。


 鍵束の音は、さっきより遠い。

 代わりに、軽い、滑るような足取りがある。「すっ、すっ」。


 春風が路地を抜け、旗の端を「ぱたぱた」と揺らす。


 マイラはふと、肩越しに一瞬だけ振り返った。


 角の影が動いた。

 人影——いや、「影」そのものが、陽を嫌う生き物みたいに、壁に沿って滑り込む。


「……見た?」

「うん。見た」


 言葉は短く、足は速い。


 二人は呼吸のリズムを合わせる。

 吸って、三歩。吐いて、三歩。

配達人の走り方。


 マイラは、自分の足が土の硬さを確かめるたび、変に落ち着いていくのを感じていた。


 怖くはない。

 怖いのは、立ち止まってしまうことだ。


 角をいくつも抜けて、人の気配が戻る通りに出た。


 洗い桶を抱えたおばさんが「まあ」と目を丸くし、パン屋の少年が粉まみれの手で目をこする。


 その視線を盾にするみたいに、二人は人並みへ紛れ込んだ。


 影は追ってこない。


 しばらくして、マイラは速度を落とし、カイも合わせて歩きになった。


「さっきの影、何?」


 マイラが問うと、カイは短く唇を噛んだ。


「……教会の“見張り”じゃない。もっと速い」

「人じゃないの?」

「人だ。でも、あいつらは影をうまく使う」

「あいつら?」


 カイは言葉を切り、視線だけで路地の奥をさした。

 そこはもう、花市の端。

 明るい色の布が連なり、笑い声が風に混ざる。


「ここじゃ、話せない」


 そう言う声は低く、でも震えてはいなかった。


 紙片が、かばんの内側で「かさ」と鳴る。


「わかった。じゃあ——安全な場所で」

「うん」


 二人は人通りの流れに紛れながら、互いの歩幅を合わせた。


 春の匂いが戻ってくる。

 焼いた蜂蜜菓子の甘さ、切り立てのハーブの青さ、洗い立ての麻布の乾いた香り。


 その全部が、ほんの少しだけ以前より色濃く感じられた。

 ——廃教会の“内側”に、たしかに一歩、近づいてしまったからだ。


 ルフトが、かばんの口から小さく顔を出し、陽の光を細い目で受けた。


「ピィ」


 それは、警戒でも恐怖でもない。

 走り切った後、次の一歩を確かめる合図のような、短い鳴き声だった。

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