第3話 春風のブレストン──駆け抜ける影
花市の喧噪が、背中でほどけていく。
石畳は午後の日差しで乾きかけ、ところどころに散った花びらが薄く貼りついている。
踏めば「しゃり」と音を立て、靴裏に甘い香りがふっと残る。
「寄りたい所がある」
カイが、荷物を抱えたままふいに言った。
「寄り道? 今日はもうギルドに戻るだけじゃ——」
「すぐだよ」
妙に急いた声色。
普段なら遠回りは嫌がるくせに、今は前のめりに歩幅を広げている。
「どこ?」
「……廃教会」
その名を口にした途端、カイは視線を前に固定した。
マイラの胸に、小さなざわめきが広がる。
廃教会は、配達人の間でも近寄らない方がいい場所とされていた。
崩れかけた石壁、誰が開けるのかわからない扉。
時々、不意に鐘のような音がすると噂する者もいる。
「なんで?」
「ちょっと……確かめたいことがある」
「確かめたいって何を」
「行ったらわかる」
一瞬、引き返そうかと迷った。
けれど——その横顔には、何かを見失いたくないという、子供らしからぬ決意があった。
「わかった。でも、危なそうならすぐ戻るからね」
「うん」
ルフトが「ピ」と短く鳴く。
まるで、同意とも忠告ともつかない声だった。
次の瞬間、カイは細い路地に身を滑らせ、マイラは慌ててその背を追った。
路地は二人が並べばいっぱいで、壁の漆喰は指先で触れると粉をふく。
マイラは配達かばんを抱え直し、半歩遅れてその背を追った。
かばんの中でルフトが「ピィ」と短く鳴いた。
胸の鼓動と同じ律動だ。
落ち着け、とも早く、とも聞こえる。
花の声が遠のくほど、風が変わる。
陽だまりの匂いは薄れ、湿った石と古木の匂いが濃くなる。
丘のほうから「ギィィ……」と低い軋みが流れてきて、マイラは思わず足を止めた。
「今の、聞こえた?」
カイの靴音がぴたりと消える。
「扉……?」
「たぶん」
二人は顔を見合わせ、同時に走り出した。
石畳から土の坂道へ。
「ざっ、ざっ」と土が跳ね、踵に小石が当たって「コツン」と鳴る。
坂の両脇は手入れの途絶えた生垣で、枯葉がからまり、ところどころに青い蔓がのびている。
ルフトがかばんの縁に前足をかけ、風上を嗅いだ。「ピッ、ピピッ」。
視界の先、丘の肩越しに、黒ずんだ屋根がのぞいた。
廃教会だ。
石積みの外壁には蔦が絡み、尖塔は途中で折れている。
近づくほど、空気が一段冷たくなった。
春風の中にだけ、冬の残り香が混ざっているみたいだ。
「待って、カイ!」
呼びかけは追い風にちぎれたが、少年は振り向かない。
走るたびに首元の紐が跳ね、薄い上衣がひるがえる。
マイラは呼吸の調子を落とし、足の運びを一定にした。
焦って足を上げすぎると、石が噛んで転ぶ。
石と土の境目は柔らかく沈む。
左足から入れて、右で押す——ギルドで教わった、長く走る時のリズム。
正面の扉が、ひとりでに「バタン」と開いた。
次の瞬間、白いものが風に乗って舞い出す。「はら、はら、ぱた」。
「紙だ!」
カイが地を蹴る。「ダッ」。
マイラも続く。「はっ、はっ」と胸の奥で空気が燃える。
紙片は教会の前庭を横切り、低い石柵の上を「するっ」と滑って、坂の下へ身を投げた。
追い風と逆風が交互に頬を叩く。
紙は一度空に持ち上げられ、くるりと表裏を返す。
そのたび、太陽の光を薄く反射して、刃物の背のように白く光った。
あと少し——指先が届く。
マイラは一度だけ歩幅を大きくした。
「——っ!」
指に紙の角が触れた瞬間、横から伸びた手が前に割り込む。
カイだ。二人の指が紙片を挟み、宙で「ピタ」と止まった。
「取った!」
「うん!」