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第2話 丘を駆ける少年とこぼれた聖印

川はまだ雪解けの冷たさを残していた。

水面は細かくさざめき、陽の角度が変わるたびに金の鱗のような輝きが走る。

石畳の町を抜け、川沿いの土道に出ると、足裏にぬかるみの重みが戻ってきた。

踏みしめるたび「ぐっ」「ぺたり」と靴底が吸い付く。

濡れた春草は膝に触れると冷たく、硬い細葉がレギンス越しにも存在を主張する。


「……今日は荷が軽いから助かるわね」

マイラは小さくつぶやき、肩の斜めがけ鞄の位置を直した。

「きゅっ」

肩口でルフトがひと鳴きする。

「何その声、まるで『余裕だね』って言ってるみたい」

ルフトは尻尾をふいっと上げ、視線を前へ向けた。


川縁では、網を膝に広げた初老の漁師が、器用にほつれを繕っている。

「おや、マイラじゃないか」

「あ、ハーゲンさん。道、悪いですね」

「まぁ春は毎年こうだ。……気をつけな。昨日もあの少年が転びかけてな」

「少年?」

「ほら、花市の日に屋台の下敷きになりかけた子だ。最近、丘の向こうへよう行く。廃教会の方だ」

「廃教会に?」

「うむ。あそこは昔から忌み場所だ。……おまえのお父さんも、近づくなって言ってたろ?」

「ええ。でも、そんな場所に何しに行ってるんでしょう」

「わからんな。ただ……あの目は、何かを探してる目だった」


マイラは南の丘の稜線を見やった。

まだ芽吹き前の藪が薄灰色の影をつくり、その向こう、取り残された塔のような廃教会が空に溶けている。


配達を終えた帰り道、河原に小さな背中が見えた。

薄茶の髪、擦り切れた肩――カイだ。

「……カイ?」

呼ぶと、少年の肩がびくりと跳ねた。

「この前は、ありがとう」

「礼なんていいよ。元気にしてた?」

「……うん。でも、ちょっと忙しくて」

「子どもが“忙しい”なんて珍しいわね」

カイは目を逸らし、胸元の小さな革袋を押さえる。

「それ、怪我の薬?」

「ちがう。……ただの石」

「石なら、見ても?」

「だめだ」

声がいつになく強く、そして焦っていた。


「カイ、何をそんなに隠してるの?」

「マイラには……関係ない」

「あるよ。だって、また危ない場所に行ってるんでしょ?」

一瞬、カイの瞳が揺れたが、次の瞬間には丘へ向かって駆け出していた。

「待って!」

マイラも反射で追いかける。

「きゅっ!」とルフトが先に飛び出し、草をかき分けて走る。


丘の途中で、カイの革袋が転げ落ちた。

「からん」と乾いた金属音。

袋からこぼれたのは、淡く光る古びた金属片。

マイラが拾い上げると――

「……これって」

「返して!」

「廃教会の扉にあった聖印……じゃない?」

カイは目を見開き、そしてうつむいた。

「……返さなきゃいけないんだ」

「どういうこと?」

「ぼくのせいで、なくなった。だから……」

「一人でやるつもり?危ないわ」

「だれにも頼めないんだ」

「私なら――」

「だめだ」

短い言葉に、決意と焦りと、そして恐れが混ざっていた。


カイは口を噤んだまま、しかし一瞬だけ視線を廃教会の方角に向けた。

その目は、何かを知っている者の目だった。

「……あの中で、まだ……」

声を詰まらせ、カイはそれ以上言わず、聖印を抱えて駆け去った。

ルフトが「きゅっ!」と不満げに鳴き、追いかけたが、マイラは足を止めた。

胸の奥に、仕事と心の綱が一本きつく渡されていたからだ。


川辺に戻ると、ハーゲンが声をかけた。

「丘まで行ってたのか?」

「ええ……ちょっと、カイを追いかけて」

「やっぱりな。……あの教会には近づくなよ」

「なぜ、そんなに?」

「昔、教会の大事なもんが無くなってな。祭司は町を出た。あれから妙な話が絶えん。夜に鳴るはずのない鐘が鳴ったとか、扉の隙間から光が漏れたとか……」

「子どもの作り話、ですか?」

「そうかもしれん。だが、おまえの父ちゃんが言ってたろ。『噂はたいてい核を持ってる』ってな」


マイラは川面を見た。

金色から薄桃色に変わりつつある水面が、何かの始まりを告げているようだった。

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