冬の星座は竹影に休む
竹林に入り込んだ黒衣覆面の子供が、ニヤリと笑って石門を潜る。五歳くらいだろうか。短い足をちょこちょこと動かしていた。西域の血筋だろうか。青い眼をしている。この辺りでは地元の黒目黒髪の民族と、西域から来る行商人などの紅毛碧眼の民族が入り混じって生活していた。
門は、遥か頭上に扁額を掲げている。竹林の山道に、ぽつんとひとつ立っていた。
「へんだな?」
子供は呟いた。
「門から続く山道を登れば、すぐに階段が見えてくるはずなんだが」
黒衣の人物はひらりと高く舞い上がり、周囲を見渡して目尻の垂れた大きな眼をパチクリさせた。階段はおろか、人の手が入った痕跡すら一切見えない風景が広がっていたのだ。竹林の向こうには、緑豊かな山々に挟まれた渓谷が見えた。再び地に降りて、扁額に刻まれた文字を読む。
「魚龍書院、て書いてあるんだよな?ここで間違いないはずなんだが」
書院とは学問所、学堂、或いは学校のことである。石の門は、古代の技術で造られている。正式な名札を持つ者だけが通れるのだ。周辺の川や竹林には幻術の陣が仕掛けられているが、入り込む手練もいた。しかし、書院に到着するための道は、この門を潜ることによってのみ開かれた。
石の門から先は結界である。名札を持つ者でさえ、門を潜らず脇を抜けても結界内には入れない仕掛けになっていた。ただし幹部だけは、携帯用の小型門を使って何処からでも出入り出来る。
「ちっ、出直すか」
しばらくウロウロした後で、子供は竹林の中を去って行った。
子供はその後もしばしば竹林と周辺の山を訪れた。七歳の秋、落ち葉の舞う中で、初めて暗殺目標と遭遇した。相手は同じ年頃のようだ。銀青の薄絹を纏った童女である。
「何やつ」
気配を消して近づいたつもりだったが、黒衣の子供は見つかってしまった。銀青の少女は、詰問と共に手近な小枝を折って投げた。折った跡は、スッパリと刃物で切ったようである。内功という技術で切ったのである。幼いながらも達人の入り口に立っているのだ。
「お命頂戴仕る!」
黒衣の子供は、覆面の下からくぐもった声で宣告した。掌を小枝に貫かれながらも、無傷な方の手で短刀を振り翳している。
「自不量力」
言うなり、銀青の少女が足元の落ち葉を蹴り上げる。無数の落ち葉は刃となって暗殺者を襲うと同時に、煙幕代わりにもなった。
「どこだっ」
既に姿の無い銀青の少女を探して、黒衣の子供は落ち葉の上を走る。竹の中に他の木々も混ざって見通しは悪い。
「見失ったか」
黒衣の暗殺者は、一度高いところに上がる。乗った竹がしなって弓なりになった。
「いたな」
暗殺者は竹の反動を利用して、遠くに見つけた目標に向かって飛ぶ。銀青の衣を靡かせる目標の人物は、転々と横たわる人々の中に立っていた。暗殺者とは別の黒い大人たちが逃げて行くところであった。童女はかがみ込むと、倒れている人に丹薬を呑ませたようだ。
屈んでいる銀青の童女に向かって、黒衣覆面の子供は毒刃を振り翳して斬りかかった。童女はひらりと袖を翻す。袖先を巧みに操って、童女は暗殺者の覆面を剥がした。
「ちっ」
暗殺者は悔しそうに顔を背ける。腕で顔を隠しながら、立ち止まって青銀の童女を睨みつけた。
立ち止まった目の前には、上等な服を着た少年とお伴らしき人々が倒れている。それに構わず、小さな暗殺者は黒衣の中から多数の毒針を取り出した。銀青の薄絹が飜る。針と針がぶつかり合って、薄氷が割れるような音が竹林に響く。童女の袖が巻き起こす風で毒針を落としてゆく様子は、さながら仙童の舞を観るようだ。
「くっ!」
いく本かの毒針が持ち主に返された。暗殺者は慌てて針を抜き、解毒薬を口に入れる。その隙に、再び銀青の少女は消えていた。
「お?」
黒衣の子供は落ち葉の間に、碧玉の腰佩を見つけた。腰佩は透かし彫りを施した円盤で、縁には寒の一文字が彫ってあった。
それから八年の月日が同じように過ぎて行った。暗殺者が腕を上げても、銀青の少女はもっと先を行く。
魚龍書院は秘境にあるので、門下生は共同生活を余儀なくされている。現在の院長は明夫人雲風桃という女性である。院長を含めて三人の教師は、今は亡き前院長の養子であった。三人とも両親がおらず、出自を隠す事情もあった。
「竹影ー、そろそろ門まで行って」
黄色い上着の長い裾を翻しながら、女院長が前庭に出てきた。春の柔らかな陽射しを浴びる背中には、白い龍と黒い魚が互いの尾を追う円形の紋様が染め抜かれていた。
「徒児尊命」
庭先で干し果物を並べていた少女が、顔の前で両手を重ねて頭を下げた。少女も黄色い上着だが、裾は短く腰帯をしっかりと結んでいる。眼がぱっちりとした可憐な顔立ちだ。少女らしいほっそりとした手足である。同年代の中で背は高いほうだ。
「お迎え?」
見上げるほどの大男が、のんびりと声をかけた。
「はい、そうです、明師夫」
師夫とは、師匠の夫に呼びかける時に使う言葉である。
「授業じゃないんだから、お父さんでいいったら。おじいちゃんに似て真面目だなあ」
「あはは、雨雨。いいことじゃないか」
「まあ、そうなんだけどさ」
明師夫と呼ばれた大男は、院長の肩に腕を回した。竹影は院長夫妻の娘である。今年で十五歳だ。この国では、夫婦別姓が一般的だった。父の明山雨は、書院の秘伝を収めているのに教師ではなく、雑用係のような存在だ。それが性に合っていたのである。
竹影が門まで降りると、同年代の少年が立っていた。希望に満ちた表情である。やや浅黒い肌で彫りが深く剣眉の、明朗な雰囲気を持つ少年だ。
「徐寒辰です。よろしくお願いします」
少年は紹介状を差し出した。竹影は腰に下げた袋から、麻糸で編んだ蝶を取り出した。親指の先ほどの小さな細工品だ。竹影が紹介状の上に蝶を載せる。掌から銀青色をした靄のようなものが出て、麻紐の蝶を包む。蝶はひらひらと舞いながら、銀青の光で紹介状を染めた。少年は竹影に、キラキラと尊敬の眼差しを向けていた。
「問題ないみたいですね。どうぞ、仮の名札です。首に掛けておいてください」
「はい、ありがとうございます!」
竹影から名札を受け取ると、徐寒辰少年は爽やかに挨拶をした。名札は小さな木片で、表には徐寒辰という名前、裏にはお腹のところで上下に繋がった龍と魚の模様が彫ってある。この名札は偽造出来ない。模様にある鱗が、名札を作った人によって違うのだ。
違うだけではなく、内功を使って彫りつけるので、作った人の気が残る。気とは体内を流れるエネルギーのことで、内功はそれを操る技術だ。内力と呼ぶこともあるし、技術と同じく内功と呼ぶ人もいる。名札は模様と気が一致していなければ、書院の門を潜れない。
門を潜り、二人は学舎へと向かう道すがら雑談をした。
「私は明竹影です。貴君、歳はおいくつですか?」
「今年で十四になります、師姐」
「私は十五歳です。書院で生まれ育ったから、私が既に出来ることが貴君よりも多くても当然のことです。自分が劣っているなどと心配しなくて良いですよ」
「はいっ、師姐!」
一つしか違わない少女の落ち着いた態度に、徐少年は感服した。
徐少年が入門してから、半年ほどが経った。青々とした夏の木陰に星影が降る。五人ほどの小さな集団が焚き火の側で眠っていた。野外学習である。年長の公輸銀月を指導員として、明竹影が助手を務めている。徐寒辰もこの集団に参加していた。
銀月は竹影の兄貴分で、23歳だ。赤い手甲を愛用している。院長とは従兄弟である。師弟関係から言うと前院長の弟子だった。
「銀月師叔」
殺気を感じてパチリと目を覚ました竹影が、小声で銀月を呼んだ。
「谷狼ですね?」
「ああ。囲まれてる」
「みんなを起こしますか?」
「そうだな」
竹影は三人の門下生を揺り起こす。皆、静かに起き上がった。見回せば、闇の中に赤い眼が光っている。魚龍渓谷に住む、体の大きな灰色の狼たちだ。
「皆、得意な防護陣を組んでみろ」
銀月の囁き声に、門下生たちは無言で頷いた。寒辰は小石を並べて皆を囲み始めた。残像が残る程の素早い動きである。これは、修行により身体を軽くしているのだ。軽功という技術である。
「徐寒辰の摸魚功はかなり上達したな」
摸魚功は魚龍書院の軽功である。激流に遊ぶ魚をひたすら捕え続けることによって身につける。
銀月が大きな気の動きに反応し、門下生の組んだ陣より外へと足を踏み出した。
「黒幽狼だっ!」
暗がりから飛び出したのは、ただの谷狼ではなかった。武功を身に付けた黒い谷狼で、百年ほど前から目撃例が記録されている個体である。
「皆、落ち着いて対応しろ!」
「はいっ」
既に谷狼の波状攻撃が始まっている。銀月の指示も囁き声はやめていた。その後は皆、無我夢中であった。気がついた時には、竹影と寒辰は皆から逸れていた。
「危ないっ!」
前方の谷狼に対処している竹影の背中を、別の個体が襲ったのだ。寒辰は咄嗟に谷狼と竹影の間に割り込んだ。
「魚龍水馳掌!」
魚龍渓谷の激流を真似た動きから繰り出す、掌で打ち込む内功である。谷狼は吹き飛ばされながらも寒辰の脚を引っ掻いた。追ってきた谷狼をなんとか退けたが、寒辰は脚に大怪我を負ってしまった。
「夜が明けたら信号弾を上げましょう」
今余計な音を立てれば、音や光を物ともしない黒幽狼のような獣たちがやってくるかもしれないのだ。
「師姐、お怪我は?」
「何言ってるんですかっ!自分の心配をしなさいよ」
竹影は裂傷が酷い寒辰の脚を手早く治療した。
「師姐、ありがとうございます」
「応急処置です。こちらこそ、危ないところを助けていただき、ありがとうございました」
竹影が仕上げに、麻紐で編んだ蝶を内功で操った。
「魚龍吞嚥陣」
蝶は寒辰の脚の周りをぐるぐると旋回した。黄色い軌跡が二匹の魚を描き出す。魚は互いの尾を追いかけて、脚に嵌った円盤のようになった。
「師姐、これは?」
「血の臭いで他の獣が誘われないように、物を呑み込む陣を組みました」
「臭いも呑み込むんですか?」
「ちょっとした応用技ですよ」
寒辰は、竹影師姐に対する尊敬の念を益々深めた。
次の夏も過ぎ、木の葉が色づく秋の頃、寒辰は魚龍川下流の村に来ていた。摸魚功を使えば半日も掛からない距離である。院長なら一瞬だろうが、優秀とはいえ寒辰は初学者だ。まだそこまでの実力はない。
村の広場で、射的の大会が開かれていた。呼び込みの青年は、旅人でも参加出来ると言っている。
「師姐?」
颯爽と歩み出た黄色い女性は、竹影だ。素早くつがえた矢は三本。三つの的を同時に射抜く。竹影は観衆から喝采を浴びた。
「へへっ」
寒辰は、元気よく競技場に踊り出した。
「あ、君、待って」
矢を的から抜く係が慌てた。制止を聞かずに、寒辰は的の中心に刺さった矢を三本同時に割ってみせる。二つに裂けた矢の間に、寒辰の矢が刺さっていた。観客がどよめいた。
「師姐、見ましたっ?」
「みましたよ」
竹影はニッと笑って、目にも止まらぬ早業で無数の矢を放った。矢は三つの的に陣形を描き出す。競技場には魚と蝶が遊ぶ美しい渓谷の幻影が現れた。観衆からは溜め息が漏れる。寒辰は鼓動が速くなるのを感じたが、我に返ると不満を口にした。
「師姐ー。それ、射的の技術じゃないですよねぇ?」
「射的の技術がなかったら出来ないですよ」
「そりゃまあ、そうですけど」
フッと笑って会場を後にする竹影を、寒辰は追いかけた。
「師姐!待ってくださいよー!」
竹影を追う人混みの中で、寒辰の目を捉えた物があった。師姐を追うのを中断して、寒辰は足を止めた。
「あっ!その腰佩、ちょっと見せていただけますか?」
「え、あ、なぜ?」
おどおどと警戒する小柄な娘は、銀青の薄絹を着ていた。
概ねそつなく課題をこなして来た寒辰にも、苦手な事はある。雲風楽が担当する練丹術である。
「あーあ」
寒辰は、鳶凧の形をした香嚢を手にして溜め息を吐いた。これは、秋に射的大会が開かれる村の特産品だ。毎年、端午節を挟んで数日間行われる端午祭でのみ売られている。ころんとした三角の香嚢は、家族や友達同士の健康と平安を祈って交換する。凧の形をしたものは、乙女たちが意中の若者に想いを告げる為のものだ。
遥かな昔、この村で生まれたひとりの乙女が、魚龍渓谷に住んでいた公輸の若君に贈ったという伝説がある品だ。若君は当時、鳶の形をした凧を開発中だった。その成功を祈って、乙女は一針一針心を込めて香嚢を縫った。この伝説にあやかって、意中の人の仕事がうまく行くように、との願いも込めて贈るのだ。
鳶凧型の香嚢は、何色かあった。寒辰が眺めているのは、金茶色だ。主として学者に贈る色である。
「紅紅に神丹を返せる日は遠いなあ」
その目の前に、新鮮な木苺が差し出された。
「ほら」
「師姐」
「思い詰めても良い結果は出せませんよ」
「ありがとうございます」
竹影の表情は、微笑みの手前といったところだ。その穏やかな雰囲気が、寒辰を笑顔にした。優しい先輩の心遣いに、寒辰は勇気つけられたのだ。暗く湿った心の中が、突然明るく乾いていくような心持ちがした。
「師姐はすごいなあ。俺もいつか、後輩の心を温めるような先輩になれるかな」
小雪がちらつく灰色の季節がやってきた。徐寒辰が魚龍渓谷で筏を操る練習をしていると、竹林のほうから激しく争う音が聞こえてきた。様子を見にいくと、黒ずくめの人物が村人風の男を襲っている。男は見た目によらず、武功に優れた人物であった。マントや刀で降りかかる毒霧や針を防いでいた。
「その毒功、貴様、奇毒門だな?」
激しい争いの中で、男が襲撃者に問いかける。答えない襲撃者の覆面に手や剣が伸ばされた。幾度かの試みの末、ハラリと黒い布が落ちる。
「女か」
男が短い言葉を吐き、寒辰は息を呑んだ。露にされたその顔は、香嚢の贈り主だ。射的大会で十年ぶりに再会した命の恩人である、劉紅冬その人だったのだ。
「女がどうした。どうせ貴様の命はない」
顔を見られた屈辱に歪めた顔は凶悪であった。ふっくらと形の良い唇から出る声は、背筋が凍るほど冷たかった。寒辰に見せる気弱な少女の面影は一筋もなかった。呆気に取られている目の前で、劉紅冬は男にとどめを刺し、竹林を流れる渓流に蹴落とした。
寒辰は、魚龍書院で学んだ陣法で気配を完全に消していた。おかげで争う二人に気取られずに済んだ。しかし、衝撃のあまりしばらくその場で腰を抜かしていた。
魚龍渓谷がすっかり雪で覆われると、院長は子供達に真っ赤なサンザシの飴がけを作ってくれる。長い竹串に五個ほど刺した、氷糖葫芦と呼ばれる冬のお菓子だ。豊かな魚龍渓谷では、白銀の世界に鮮やかな赤を添える植物が幾つかあった。その一つが冬に実るサンザシである。
サンザシの実も終わりにかかるころ、梅の赤が渓流沿いを染め上げる。雪化粧をした梅の樹は、淋しくもありどこか凄みもある姿を見せていた。寒辰は、梅に積もった雪を落とさずに梢を渡って行く。前院長が愛用していたという魚龍竹を譲り受け、練功をしているのだ。
「魚舞点点」
寒辰は魚が跳ねるように躍り上がると、梅の梢を素早くつついた。高速で何度も突くので、枝からは雪煙が上がる。それを内功で地に落ちないようにした。
「あっ、しまった」
雪煙の一部が地上へと降って行く。
寒辰が枝間から眼下を覗くと、黒衣の女が一本の梅の樹に背を預けてへたり込んでいる。
「紅紅?」
黄色い服の明竹影が、剣を構え梅の根元にいる女へと一直線に向かう。雪を蹴立てて、眉一つ動かさずに突き進む。劉紅冬に迫る刃の前に寒辰が飛び込んだ。
「襲ってきたのはその女です。状況も知らずに庇い立てすると痛い目に遭いますよ」
竹影が後輩の無鉄砲な行動を叱った。だが、寒辰は必死に訴えた。
「師姐!それだとしても、彼女は私の命の恩人なんです!」
「その女が初めて私を殺そうとしたのは、私が七歳の時でした」
竹影が淡々と答える間に、暗殺者は毒刃の傷口から内功で毒を搾り出そうとしている。自分が放った飛鏢が跳ね返されて突き刺さったのだ。奇毒門の激毒が塗られた飛鏢が、女の側に抜き捨てられていた。黄緑色に変色した不気味な血液が、真っ白な雪に染み出している。
「縁もゆかりもない行き倒れの私に貴重な丹薬を飲ませてくれた、優しい人なんです!」
寒辰は尚も食い下がった。
「その女が所属する奇毒門は暗殺組織です」
「きっと何か事情があるんです!」
寒辰が庇い続ける後ろで、紅冬が憎しみの焔を激らせていた。
「奇毒門はただの暗殺者集団じゃありません。その母体は奇毒教と言って、古代から伝わる珍しい毒そのものを神として崇めているのです。それが古代より続く殺人教団だと知っていますか?その女は次期教主筆頭候補ですよ」
「脅されているに違いありません!ちゃんと調べて下さい、師姐」
押し問答の背後で、劉紅冬はぜえぜえと息が上がっていた。だがしつこく攻撃の隙を伺っている。
「お礼に渡した玉佩を十年も大切に持っていてくれたんです!」
「私は、古代の秘術と宝具を護る公輸一族の少主です。私を血祭りにあげれば教主になれるから、十年も執拗に殺そうとしてくるのです」
親世代は、隣接国家の皇帝と対立して素性を隠していた。しかし現在では、堂々と血筋を公表している。その為、腕試しに襲ってくる者どもが多いのだ。竹影にとって紅冬は、そんな無数の雑魚の一人に過ぎなかった。
「お願いです師姐、命ばかりは助けてやってください!」
「そうすると、その女は私を仕留めるまで何度でも仕掛けてくるのですがね」
竹影は、極めて冷静に答えた。凶暴でも冷酷でもなく、猫撫で声も出さなかった。寒辰は、うっ、と言葉に詰まった。竹影は大切な先輩だ。尊敬し、目標とする存在である。その師姐をつけねらっているとなれば、命乞いにも迷いが出る。それでなくとも、劉紅冬が人の命を奪う姿は見てしまったのだ。それでも護りたいと思っていた。なりふり構わず刃との間に己の身体を滑り込ませる程に想っていた。
「どうしたらいいんだ」
「そこをどけばいいんです」
「でも師姐」
「その女には、そろそろ諦めて貰いたいんですよ」
紅冬が何かを投げた。風音を立てて飛んでゆく球体が開くと、無数の針が飛び出した。剣を片手に雪上に立つ竹影を、毒針の雨が襲った。
「あっ」
寒辰は魂が砕け散るような痛みに襲われた。暗殺者に命の危機が迫った時とは比べ物にならない恐れが生まれた。
「間違えた」
と絶望の吐息を溢す間も無く、寒辰の耳は薄氷が割れるような音を捉えた。微かで冷涼なその音に、寒辰の眼が大きく見開かれた。
「あの時の?」
十年前、寒辰は覆面の集団に襲われた。裕福な商人の息子なので、そういうことは時々あった。その時の犯人はいつもより大勢いて、その上かなり凶暴だった。
深手を追って倒れた時、薄氷が割れるような音が聞こえた。血を流して横たわる少年の視界には、銀青色の薄絹が流れる川のようにたなびいていた。薄れゆく意識の中で、少女の細い指先が丹薬を少年の口に押し込むのを感じた。少年は力を振り絞って腰に下げた玉佩を差し出した。だが少女は受け取らず、内功を使って薬を飲み下させると立ち去ってしまった。
「渡せていなかったんだ」
少年の手から玉佩は滑り落ちていた。少女が受け取らなかったという事実が脳裏に蘇る。その後意識を完全に失ったので、いつどういう経緯で玉佩が暗殺者の手に渡ったのかは知らなかった。
七歳だった竹影は、暗殺者劉紅冬を引き離して走っていた。途中で別の暗殺集団に襲われている少年を助けたが、そのことは忘れている。竹影を追って来た暗殺者が、地面に落ちていた玉佩を拾ったことは誰も見ていなかった。
「彩雲閣の三男坊じゃないの」
暗殺者は呟いて、美しく整った少年の顔を見下ろした。玉佩から知れる少年の身分は、隣接国の首都神鵲京にある高級宝飾店の息子であった。
その後、すぐに名乗り出ることはせず、わざわざ十年待っていた。年月の重みを加える為である。紅冬は偶然を装い、寒辰の目の前に現れた。銀青色の薄絹を身につけ腰には玉佩を提げ、命の恩人になり変わったのだ。まんまと騙されたお人好しの寒辰は、近くの町まで訪ねて来た家族まで紹介してしまった。
寒辰は、見ず知らずの怪我人を助けた心優しい人を愛していると思っていた。自分を一心に慕ってくれる、柔らかな仕草や言葉を大切にしたいと感じていた。
「違ったんだ」
それは求められる嬉しさではあった。思春期故の純粋な熱情でもあった。殺人を目撃しても、自分やその家族に見せる細やかな心遣いを信じていた。控え目に送られる劉紅冬の眼差しを、いじらしいと感じていた。だが、寒辰は唐突に気がついた。紅冬の想いが本物だったとしても、気持ちが消えたら、暗殺対象へ向ける冷酷な眼に戻るのだ。相手の存在が不要になった紅冬の姿は、寒辰を恐怖で身動き出来なくさせる殺人鬼だった。
「そもそもが間違えていたんだ」
本物の恩人が、目の前で毒針の雨に晒されている。それだけではない。寒辰の心の中で、竹影と過ごした数々の情景が蘇る。狼に追われて皆と逸れたこと、市場で偶然出会い射的の腕を競ったこと、課題がうまくいかず落ち込んでいる時に木苺をくれた時の温かな佇まい。無数の光景が影絵芝居のように次々と浮かんできた。
「なにもかも」
寒辰は自分の心を知った。彼女にとっては、自分がただの後輩に過ぎないことも分かっている。それどころか、凶悪な暗殺者に騙されて夢中になっている愚か者だと思われているのだ。そして、それは紛れもない事実だった。
「赦してください、師姐」
目の前に翻る黒い薄絹は、十年前と同じようにたなびいている。袖ではなく手套という長い薄布に変わってはいたが。布の起こす風に針が絡め取られて、全て地に落ちる。成長と共に色の好みも変わるものだ。幼い頃に愛した銀青色には、既に別れを告げていた。操る布は黒く、院長である母と同じ黄色い服をキリリと着込んでいる。
木陰から躍り出た赤い革の手甲をした銀月が、竹影を攫って木陰に消えた。行く先は分かっている。魚龍書院である。
寒辰の呟きに対する竹影の答えは聞こえなかった。雪が激しく降って来た。今夜は吹雪になりそうである。月も星も見えないだろう。
背後では、毒を抜ききれなかった暗殺者劉紅冬がぐらりと傾いていた。奇毒門の次期教主を昏倒させたのは、飛鏢を弾き返すときに竹影が混ぜた秘薬の効果である。解毒を妨げると同時に内功を失わせる奇薬だ。それは魚龍書院の教師、雲風楽から学んだ仙薬であった。彼は、伝説上の存在だと言われる薬仙一族の住処雪蓮谷の秘術を継ぐ、最後のひとりだったのだ。
暗殺者を倒れるままにして、寒辰はふらふらと立ち上がる。彼もまた、書院に戻るのだ。辺りには、雪に混ざって赤い梅の花びらが舞っていた。
「よかった」
竹影が連れ去られた方を眺めて、寒辰は安堵の息を漏らした。
「師姐が無事で、ほんとうによかった」