第1章恋猫(7)
1月10日14時
聖海小学校体育館では、他校種に先駆け、次年度の辞令交付式が執り行われた。
ステージ上には、スーツを着た6人が横一線に並んでいる。これまで、毎日朝から晩までジャージで子犬のようにじゃれ合いながら転げまわっていた6人が、急に大人に見える。
ねこ愛は6人の成長を改めて感じていた。
6人の中で最も早くねこ愛と出会ったのは、七星だった。
風薫るある日、大学の講義が講師の都合で急遽休校になったため、ねこ愛が自宅に向かって歩いていると、運動会を控えた幼稚園ではグラウンド整備が行われていた。
ねこ愛の自宅は、学園の最も西側に建つ幼稚園とフェンスを隔てて隣接している。
その様子を見たねこ愛は、作業を手伝うことにした。
ねこ愛がグラウンドの石を拾い始めると、入園したばかりの小さな子ども達が、かけっこの練習を始めた。
その様子を微笑ましく見ていると、一人の男の子がしゃがみ込んでしまった。
近くにいた保育士に話を聞くと、その子は給食を食べていないのだという。担任の教師が近づき帰宅を促しても、顔を上げず、地面を睨みつけていた。
ねこ愛は鞄の中にチョコレートが入っていることを思い出し、一粒その子の手に握らせ、何も言わず作業に戻った。
すると、数分後、教師の制止を振り切って、その子がねこ愛に向かって走ってきた。そして、横にしゃがみ込むと、黙って石を拾い始めた。
二人で夢中になって石を拾っているうちに、コツンと、頭どうしがぶつかった。
ねこ愛が顔を上げると、そこには、声を上げてケラケラと可愛らしく笑う姿があった。
「私は、聖海ねこ愛よ。この学園の子たちにはね、〝にゃんこお姉さま″って呼ばれてるの。」
「僕、七星。僕、猫大好き。にゃんこお姉さま!」
七星が少しお兄さんになった頃、あの時のことを話してくれた。
家族以外とは全く話そうとしないことを心配した両親が選んだのが、聖海学園幼稚園だった。
受験の時こそ何とか受け答えをしたが、入園してからは声を一切発さず、給食にも一切手を付けなかった。
給食に手を付けないため、いつも昼に母親が迎えに来て帰宅していたのだが、この日はどうしても午後の練習にも参加したいと、迎えに来た母親にただをこねた。友達に負けるのが嫌だったのだという。
しかし、午後一番の練習が終わった途端、ガス欠を起こしたのだった。
七星と出会った数か月後、大学が夏休みに入った頃だった。
蒼天の日、ねこ愛が大好きな音楽を聴きながら出かける準備をしていると、微かに子どもの声が聞こえてきた。
幼稚園児達の元気な声を聞いて活力が沸いたのも束の間、その声は徐々に大きくなっていった。
音楽を消して耳を澄ますと、
「にゃんこお姉さまー!」
と、自分を呼んでいることに気が付いた。
みるみるボリュームを増す声に、ねこ愛は慌てて家を飛び出した。
声を頼りに学園側に向かうと、牡丹が咲き始めて足元が華やかなったフェンスの向こう側に、七星と初めて見る男の子が手を繋いで立っていた。
ねこ愛の顔を見るなり、七星が訴えかけるような目で言った。
「にゃんこお姉さま、永遠にもチョコレートをくれませんか。元気が出るように。」
ねこ愛に出会った時のことを、永遠は今でも鮮明に覚えていると言う。
永遠の父親は、永遠の父親は聖海学園の教科書の発行も請け負う大手出版社、巡出版の社長巡創介だ。聖海学園の第一期卒業生である創介は、一人息子である永遠も聖海学園に入れたいと幼稚園を受験させたという。
永遠は子どもながらにある種の疎外感を感じていた。それに、なぜか内心ビクビクしていた。
ある時、上級生に「永遠のパパは学園の卒業生でお金持ちというの本当か。」と聞かれ、永遠は思わず泣いてしまった。悪気はなかったのはわかっていたが、知られたくないことを知られてしまったみたいでとても恥ずかしくなり、どう答えたらよいかわからなかった。
その時、その様子を見ていた七星が、突然永遠の手を握って走り出した。
二人は思い切り走った。
永遠はどこに向かっているのかわからなかったが、その場から逃げられてホッとした。思い切り走っていると、境遇の恥ずかしさも、泣いてしまった悔しさも、どこかに飛んでいくようだった。
七星は、ピンク色の壁の家を探していたらしい。鮮やかなピンク色の家を。
永遠をねこ愛に会わせたかったのだ。ねこ愛のチョコレートを食べれば、永遠もきっと自分のように心から笑顔になれる気がしたからと。
フェンスの前まで辿り着いた七星は叫んだ。力の限り何度も何度も叫んだ。必死に叫び続ける七星を見て、永遠も一緒に叫んだ。
「にゃんこお姉さまーー!」
七星と永遠に出会った翌春。
花逍遥に心が躍り、鼻歌が歌声に代わり始めた時、歌声が重なったのを感じた。
高校の合唱部の後輩が自分を見つけてユニゾンしてくれたのかと周囲を見渡すと、視線の高さにそれらしい人はいなかった。
腰の高さまで視線を落とすと、桜の花びらを数枚頭に乗っけた幼稚園児が、二歩ほど後ろに立っていた。琥珀色の髪の毛がそよ風に軽やかに揺れていた。
「I like this song!」
男の子なのか女の子なのか、迷うほどに美々しい子が目を輝かせていた。
それに、こんなに小さい子にこれほど表情豊かな歌声が出せるのかと驚き入っていると、
「Shape OF My Heart! My mom loves them! Me too!」
と、興奮気味に話してくれた。何とか伝えようと身振り手振り一生懸命に話す姿は、その見た目通りの子どもらしさだった。
流暢な英語だが、先ほどの歌声は本当にこの子だったのだろうかと、若干の疑問符が浮かんでいた。
「♪Now let me show you the shape of my heart.」
嬉しそうに、その子は再び口ずさむ。やはりこの子の歌声だった。
たった数秒間に、いくつもの感情が降ってきて、ねこ愛は少しの間目をまん丸くしてその子を見つめた。
ねこ愛の様子に不安になったのか、その子が見つめ返したので、
「Your voice is so beautiful.」
そう言うと、可愛らしくはにかんで見せた。
「I'm in the choir. We practice everyday. 」
「I wanna sing too!」
その日から、大学の合唱部には可愛らしいメンバーが加わった。
ショーンは、幼稚園が終わると毎日欠かさず練習に参加した。初めは数日で飽きるだろうと思っていたが、母親の手を引っ張って大学に来ては、一生懸命に練習する姿を見て、ねこ愛は練習の前に幼稚園にショーンを迎えに行くことにした。
もちろん正式なメンバーではないが、大学生に混じって練習するうちに、ショーンはみるみるその才能を伸ばしていった。
両親がどちらも日米ハーフのショーンは、入園するまで日本語がほとんど話せなかった。家族との会話は全て英語だったからだ。
日本に住んでいるため日本語は自然に覚えるだろうと、家の中では英語でコミュニケーションを取っていた。日本語も英語もネイティブに話せるようになって欲しいという両親の思いだったという。
歌唱力とともに、日本語も驚くべき速さで上手になった。卒園する頃には全く気にならないほど滑らかに会話ができるようになった。それどころか、ショーンがいると、その場が明るくなり、いつも笑いに溢れた。ショーンもよく笑うようになった。
ショーンと出会った翌年、社会を騒然とさせる事件が起きた。
盛夏、炎帝が睨みを利かせる三重県沖の無人島で、子どもばかり10人が発見された。いずれも就学前と思われる幼児だった。
通報を受けた県警や県職員などが一斉に現場入りし救助、及び調査が行われた。
どのくらいの期間そこにいたかはわからないが、どの子の体にも酷い暴力を受けた傷跡が生々しく残っていたという。
名前も年齢もわからない無戸籍の子ども達のために、常慈をはじめとした教育関係者が立ち上がった。金銭や物資などの支援方法もあったが、常慈は子ども達が保護されていた宿泊施設に出向き、その中から3人の男の子を聖海学園の児童養護施設に連れ帰った。
当初は3人ともとてもビクビクしていて、常にかたまって過ごしていた。
ねこ愛も毎日時間を作っては施設に通った。少しずつではあるが、3人は徐々に気を許し、ねこ愛が来るのを楽しみにしてくれるまでになった。
空が高くなってきたある夜、帰ろうとするねこ愛の袖を、3人の中の一人が掴んだので、ねこ愛は子ども達を寝かしつけてから帰ることにした。
3人はぴったりと体をくっつけて、抱きしめ合うように寝ていた。
全員が眠ったのを確認し立ち上がろうとすると、また、その子に袖を掴まれた。
「にゃんこお姉さま。」
小さな小さな声だったが、確かにねこ愛を呼んだ。
ねこ愛がその子に向かって微笑むと、
「僕、リリーっていうんだ。桃ヶ瀬リリー。5歳だよ。」
そう言った。
「向こうにいるのが志摩学、一つ上なんだ。」
「真ん中にいるのが熊森王。3人の中では一番年下なんだ。」
リリーは、ぽつりぽつりと話し出した。
それから、リリーはここに来るまでの出来事を詳細に教えてくれた。リリーが話し疲れて眠る頃には、ねこ愛は目が腫れ上がるほど泣き濡れていた。
こうしてねこ愛は6人の子ども達と出会い、6人はねこ愛のもとで必然的に打ち解けていった。
ねこ愛はこの子たちを守りたいと思った。一生をかけてありったけの愛情を彼らに注ぐことを誓った。
着慣れないスーツに緊張気味の表情を浮かべた6人の前には、40歳を迎え、この学園の管理職審査に合格した4人も並んだ。
警備員を除いた約60名の小学校職員が見守る中、常慈自ら、一人一人に辞令を手渡していく。
「赤池青。聖海学園の管理職としての資質を認め、4月1日より聖海小学校第1学年主任とする。」
続いて、宮澤高貴は第2学年主任、小瀧哲は教務主任、雪華修平は教職員指導部の教官に任命された。
「女性は宮澤だけですか?」
教員の田村綾が不満げに主任の花園麗に向かって言った。
「例の外部調査で解雇になったのがほとんど男性で、女性は一人だったからね。それにしても、雪華は大躍進ね。藤堂部長が可愛がって育ててきた努力が実ったわね。あの子にならきっと後輩がついていくわ。」
そしていよいよ、6人の番がきた。
「志摩学。聖海学園の教諭として採用し、4月1日より聖海小学校第4学年担任とする。」
富士寺七星は第1学年担任を、巡永遠は第2学年担任を、熊森王は第3学年担任を、桃ヶ瀬リリーは第5学年担任を、そして、ルイス・ショーンは第6学年担任の命を受けた。
体育館の隅では、研修生たちが見学していた。
皆悔しさを胸に秘めながらも、採用が決まった者たちに拍手を送っているが、小林あゆだけは、まともにステージを見ず、視線をあちこちに泳がせながら髪の毛をいじっている。
来年度も研修生として継続する者、他校に内定している者、はたまた、別の業種に転換する者、それぞれが身の振り方についてヒソヒソと会話をしているが、小林だけは頑として口を開かなかった。
新たな体制に期待が高まる中、道長大は一抹の不安を感じていた。
同期の影山透の存在だ。
影山は道長と同じ46歳だが、未だに主任審査には合格していない。本人は主任への昇格を希望しているが、今年も名前が出なかった。
そして、影山は今日、病休を取った。道長は嫌な予感に妙な胸騒ぎを感じた。
「道長主任、本当にありがとうございました。今年度、主任の補佐に就かせていただいて、とても勉強になりました。主任に教わったことを活かして4月からがんばります。」
辞令交付式を終えたショーンの声で、道長は我に返った。
「おう、おめでとう。これからは同じ担任だな。一緒にがんばろうな。その前に、まだ今年度は終わってないぞ。」
道長はショーンの肩をポンと叩いた。
「水野さん、おかげさまで無事辞令をいただきました。」
七星は緊張が解けたようにふにゃりと笑いながら、今年度補佐についている水野涼子に挨拶をした。
「おめでとう。よくがんばったね。」
水野はいつものように凛とした笑顔を返した。
「ありがとうございます。水野さんは4月から研修リーダーなんですよね?」
「そうなの。私が文科省特別指定校の研修リーダーだなんて畏れ多いんだけどね。任された以上は全力でがんばるわ!」
「僕も早く水野さんと研修の話ができるように努力します。」