後編
「わたし、あなたのこと好きだったよ」
そんな雑然とした喧騒の片隅で、いつの間にか隣に座っていた彼女が言った。薬指にリングの嵌まった左手でグラスを弄んでいる。
「僕も好きだった」
すんなり言えてしまったのは、酒の力に決まってる。
「言ってくれれば良かったのに」
「ごめん」
「もうダメだね」
「うん」
言い合いながら、僕はテーブルの下で彼女の右手をしっかりと握り閉めていた。
お互い初めてなわけじゃないのに、一挙手一投足に怯えるように肌を合わせたのは、やっぱり罪の意識があったからだろう。口にはしなかったけど僕にも交際している女の子がいた。
そんなことも彼女には伝わっていたのだろう。息を殺して瞳を濡らしながら、それでも微笑っていたから。恋人でいたいと願ったのは彼女だけなのに、かみ合わない僕たちは少しもタイミングが合わない。
「忘れようね」
そう言って、重ねた体の熱だけを残して別れた。
学生時代の交際相手とも結局は別れた。その後、就職してすぐに親しくなった女の子と1DKの狭いアパートで同棲しながら結婚資金を貯め、僕らは新居の購入と同時に結婚した。
絵に描いたような新婚さんだね、そう囃し立てられて妻は嬉しそうだった。子宝にも恵まれ生活は順調だった。
高校を卒業してから十年が過ぎて、同窓会の案内状が届いた。初の本格的な同窓会だから出席しろよ、と幹事から電話があったこともあって出席することにした。
三十を前にして少しは落ち着きが出てきたらしく、だけど酔えばやっぱりがちゃがちゃになって二次会は特に楽しかった。抜け目なく名刺を配って営業アピールするような輩を尻目に思い出話をしていた時、二次会の店に彼女が現れた。女性側の幹事を相手にしきりに謝っていた。
「今のダンナが厳しいらしいよ」
「ああ、二度目の。十個くらい年上の」
「なんかね、モラハラっていうの?」
「はあー。あの子もさあ、男を途切れさせない代わりに運がないよねえ」
「男を見る目がないんだよ」
「それ言ったらさあ」
二次会に移動する前に帰りが遅くなると家には電話しておいたが、もういちど先に寝ているように念を押そうと、携帯を持って席を離れた。店のロビーには先客がいて、声をひそめて電話に向かって話していた。
「そう、友だちが泊まりに来ないかって。ええ、ごめんなさい……。ええ、分かってるわ、明日にはちゃんとするから……」
通話を切り、ほっとしたように顔を上げた彼女に、僕は特に挨拶もせず話しかけた。
「ストレス溜まってる?」
「うん、そうかもね」
にこりと笑って身を潜めるようにしていたソファから彼女は立ち上がった。相変わらず上品できれいだった。
「カラオケ行こうか?」
彼女は戸惑うように首を傾ける。
「もしかして、行ったことない?」
「音がうるさいのが嫌なの。歌には自信がないし」
「でも大声出すと、すっきりするよ」
「……そうね」
時間差をつけて別々に店を抜け出し、ふたりでカラオケボックスへ行った。ふたりだけなのにやたらと広い部屋に通されてしまって辟易したけど、僕たちには丁度良いと思えた。
謙遜した割に彼女は歌が上手で、少し古い女性ミュージシャンのヒットソングを品良く歌っていた。二杯目の中ジョッキが空になる頃には喉が滑らかになってきたのか、学生時代には縁のなかったようなシャウト系の曲を歌い始めた。弾けて、楽しそうだった。
おかげで掠れて声にならない吐息が余計に艶めかしくて、その後移動したベッドの上では朝まで彼女を放せなかった。
「奥さん、可愛い人だね。知ってるよ、見かけたことあるの」
シーツを胸元に手繰り寄せながら、彼女は体育座りになって僕を見上げた。高校時代、どきっとさせられたあの角度で。
「妬かないよ。羨ましいけど」
上品な美しさは変わらない。けれどどこか強かさを覗かせて。
「また、逢えたらね」
そうだね、君がそう言うのなら。
その後、彼女が夫らしい年配の男性と歩いているのを街で見かけた。彼女はそっと旦那の腕に手を添えて彼を気遣いながら歩いていた。かつてはあんなに凛として姿勢が良かった背中は、相手に合わせるように今は丸まっている。
僕は目の端でそれを捉えながら息子の手を妻とふたりで引いて反対方向へと歩いて行った。僕らのルールそのままに。
やがて成長した息子が就職し無事に独り立ちする時期を見計らっていた妻から、離婚届を差し出された。
「言わなくても、分かるよね?」
僕は黙って妻に従い判を押した。
独りに帰って侘しい暮らしの中で、再び彼女のうわさを聞いた。
「まだドレス着るつもりらしいよ」
「良いんじゃない? 美人なんだから」
今日、彼女は三度目の結婚をする。今度もかみ合わなかったのか。僕は素知らぬ振りをしなければならないのか。そんなルールは、何のためにあったのか。
ルールなんてクソくらえだ。初めての情動に身をゆだね、僕は体ひとつで飛び出した。