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 山賊らとは異なり、ラロシュ邸においては熟練の医者と軍医、そして充分な医療道具がそろっていた。治療にあたる者の数も多い。


 重傷を負った多くの騎士らは命をとりとめ、軽傷者は看護人と共に、自分たちよりも重い怪我人の看病に当たった。

 そのなかで、懸命に怪我人の治療に奔走するひとりの少女の姿がある。


 自らも足を捻挫していたが、そのようなことはまったく気にならないかのように、怪我人がいる「騎士の間」や、庭、彼らの寝室などを行ったり来たりして働いている。


「おうい、アベル。薬草を持ってきてくれ」

「おれの包帯も巻きなおしてくれ」


 あちこちで上がる声に、アベルは律義に応えていた。


 だが、アベルを呼ぶのはおおかた軽傷の騎士たちである。

 アベルは薬草を塗りこみ、包帯を巻くことくらいはできるが、さほど手先が器用な方ではないので、難しいことをやらせると大変な事態になる。それを、皆はアベルの手つきから敏感に感じとっていた。


 それでも、彼らがアベルを呼ぶのには理由がある。

 人気があるのだ。どうせ手当てをしてもらうなら、無骨で手荒で男くさい騎士や従僕よりも、手つきも物腰も柔らかいアベルのほうがいいというのは、男女問わず同じ思いだろう。


 一方、二日間近く昼夜問わず怪我人の看病に奔走しているアベルにも、濃い疲労の色が見えはじめていた。そもそも山から戻ってきてしっかり休むことができたのは、リオネルの寝台で眠ってしまったあの夜だけである。


「おれの背中の包帯も巻きなおしてくれ、アベル」

「今行きます」


 見ず知らずの他家の騎士からも呼ばれても、アベルは文句を言わずに応えている。

 カミーユ以外の男性の裸などまともに見たことがなかったアベルだが、それでも背中や胸元などに怪我を負った者がいれば、割り切ってその手当てにあたった。この非常事態においては、瑣末なこだわりなど捨て去るべきなのだ。


 今、アベルがいるのは「騎士の間」である。

 普段は騎士たちが憩い、食事をする場であるが、今は怪我人の治療場となっている。


 高い天井には神話の一場面、そして壁には地上での戦いの風景が描かれている。

 非常に美しい広間ではあったが、今は負傷者からときおり上がる悲鳴と、室内に満ちる薬草の匂い、慌ただしく働きまわる看護人の存在で、そこは通常の雰囲気からかけはなれていた。


 窓の外には、ひとかけらの光もない。

 ようやく完全に霧が晴れたかと思えば、今度は頭上に厚い雲が立ちこめ、ここ数日間、昼は太陽の光を――夜は月と星の光を遮ってしまっていた。


 天井から吊るされた大燭台シャンデリアと、長机の上にある蝋燭、そして暖炉の炎が、室内にあるすべてのものに橙がかった色彩を与えている。 


「まだか、アベル。それが終わったら、次はおれのところへ来てくれ」

「いや、私が先に待っていたのだ」

「それは違うだろう。絶対におれが先だ」

「どっちでもいい、早く来てくれ」


 そんな会話に対して、抗議の声が上がる。


「きみたち、アベルは真剣にやっているのだ。そんなに急かすものではない」


 渋面をつくっているのは、ベルリオーズ家の老騎士ナタルである。アベルはベルリオーズ家の従騎士であり、リオネルが気にかけている者だ。それなのに、他家の者からこのように酷使されるのは納得がいかない。


「そうだそうだ、おれたちのアベルを働かせすぎだ」


 重傷者を診る軍医の手伝いをしていたラザールが同調する。


「なにを言う。そもそもベルリオーズ家とアベラール家が来るのが遅かったから、おれたちがこんなに怪我を負うはめになったんだぞ。戦いに参加しなかった従騎士が手当てくらいして当然だろう」


 そのような勝手な主張をしたのは、ベロム家に仕える騎士であった。主人が主人なら、臣下も臣下である。


「なんだ、その言い草は。おれたちが来なければ、おまえらは生きて帰れなかったぞ」

「それはそうかもしれないが、怪我しているのは本当のことだ。アベル、手が空いたら来てくれ」


 血の色に染まった包帯をつけたままそう言ったのは、ラロシュ家の騎士だった。彼らが看護を必要としていることは間違いない。


 一方、当の本人であるアベルは、かなり疲労した状態で忙しく働いていたので、皆の会話が聞こえてはいたものの細かいことは頭に入ってきていなかった。


 そのとき、包帯を血に染めているラロシュ家の兵士の傍らに片膝をつき、古くなった包帯を手際よく取り去りはじめた者がいた。

 アベルであれば、こんなにてきぱきとはしていないだろう。


 要領よく自分の手当てをはじめた者はだれだろうと、斜め後ろを振り返ったラロシュ家の騎士は、驚愕した。

 包帯を解き、傷口に薬草を塗ろうとしているのは、身分の違いから、これまで彼が一度たりとも言葉を交わしたことのない人物だった。


「リ、リオネル様!」


 飛び上がるように身体ごとリオネルから離れ、その場で最敬礼する。


「動かないでくれ。傷口が開くだろう。それにそれでは薬が塗れない」


 そのようなことを言われても、とうてい無理な話である。

 王弟派のラロシュ家に仕える騎士にとってこの青年は、シャルムの王座に就くべき者である。その高貴な人に手当てなどさせられるはずがない。


「座りなおしてくれ」

「いいえ、リオネル様。貴方様にそのようなことをしていただくわけには」


 慌てる騎士に、リオネルは苦笑した。


「アベルじゃないと嫌か」

「いえ、そのような問題ではなく……!」

「ああ見えても、アベルは足を怪我しているうえに疲れている。私で我慢してくれ」

「いえ、ですので、そういうことでは――」


 狼狽し、どうしてよいかわからなくなったところへ、別の声がした。


「その方の治療は私がいたしますので、リオネル様はどうかお部屋にお戻りになってください」


 ベルリオーズ家に仕える騎士で、ラザールやナタルの親しい友人でもあるダミアンが、リオネルの傍らでひざまずいている。


「では、私はこの者の手当てが終わったら戻る。おまえは、そこのベロム家の者を頼む」


 そこのベロム家の者とは、アベルを指名していた騎士のひとりだった。


「かしこまりました」


 主の命令に、ダミアンはひざまずいたまま頭を下げる。

 こうして、そのままリオネルから手当てを受けることになったラロシュ家の騎士は、包帯を巻かれ終わるころには、緊張と動揺から疲れ切っていた。


 だが、出来栄えは素晴らしいものである。ゆるくもなく、きつくもなく、アベルにしてもらうよりも、各段に美しく包帯は巻かれていた。

 大事にするように、と最後に言葉をかけられて、ラロシュ家の騎士は深々と頭を下げた。


 立ち上がったリオネルが扉口に向かうと、そこには「騎士の間」の様子を見に来ていた諸侯らの姿がある。


「あまり私の兵士をいじめないでやってください」


 声をかけたのはラロシュ侯爵だった。


「申しわけありません」


 リオネルが苦い表情で笑うと、彼を責めたはずのラロシュ侯爵は、むしろ楽しげに笑った。


「でも成果はあったみたいだよ?」


 腕を組んで壁にもたれながら、ディルクはおもしろそうにアベルの周囲を眺めている。

 さきほどからひっきりなしにアベルを呼んでいた声が止んだのだ。


「これでしばらくアベルは休めるんじゃないか?」

「休んだほうがいいな、あれは」


 アベルの疲れた顔を見て、レオンがつぶやく。


「山から戻ってきてずっとあのように働いていては、身体がもたないだろう」

「賊の負傷者はどうだ?」


 リオネルの背後に控えていたベルトランが、ディルクに尋ねた。

 捕らえた山賊については、無傷で帰還した騎士らが監視している。怪我を負った賊の治療にあたっているのもその騎士たちだ。彼らを統括しているのは、ウスターシュ、シャルル、それにディルクとラロシュ侯爵だった。


「深手を負った者が二人死んだけれど、それだけだ。あとは順調に回復している」

「なにか話したか」

「それが、あいつら、なにも話さない。まるで示し合わせたかのように、そろって口が堅い」


 彼らから聞きたいことはいくらでもある。

 ラナール山の拠点の正確な位置、他の山賊の居場所、これまでにさらった子供や娘の居場所、もしくは彼らの売却先、クヴルール男爵の娘ロジーヌの行方、そして、彼らの束ね役の居場所……。


「よほど強大な圧力がかかっているのか、もしくは頭領に対する忠誠心だろうか」


 顎に手を置いてベルトランが考えこむと、


「やつらに忠誠心なんてものがあるのか」


 と、レオンが片眉をひそめる。


「ウスターシュ殿はかなり苛立っており、このまま彼らが口を割らなければ拷問にかけるかもしれません。その際には止めますか?」


 ラロシュ侯爵の問いに対して、リオネルはすぐには返答をしなかった。

 むろん力づくで人を動かす方法をリオネルは嫌うが、口を割らないとなれば、リオネルの方針に反発する諸侯らも少なからず出てくるだろう。必要な情報を聞き出すために、罪人らに暴力を振るってはならないという掟は、このシャルム貴族あいだには存在しないがゆえにだ。


 だが、諸侯や騎士らの窮地を救うために山賊と戦いはしたが、本来、まずリオネルがやりたかったことは、彼らの頭領との話し合いである。このままでは、なしくずしに残りの山賊とも真っ向から対決せねばならなくなる。


 考えあぐねているとき、諸侯らのまえに小柄な少年が歩み寄り、丁寧に一礼した。

 正確にいえば、少年の格好をした少女、アベルである。


「もう仕事は終わったのか?」


 ディルクに問われて、アベルは疲労のにじむ顔に笑みを浮かべた。


「終わったというわけではありませんが、あまり呼ばれなくなりましたので、少し休憩する時間をいただきたく伺いに参りました」


 アベルを呼ぶ者が減ったのはなぜなのか、その理由に彼女はまったく気がついていない。


「もちろん、かまわない。疲れていたら、今夜はもう仕事をしなくていいから」


 許可を求められたリオネルは、即座にそれを認める。ごく普通に返答したものの、内心では、ほっとしていた。

 早くこの少女に身体を休めてほしかったからだ。


 再び頭を下げて去っていこうとするアベルに、ベルトランが声をかけた。


「どこへ行くんだ」


 振り返ったアベルの淡い水色の瞳が、わずかに細められる。その表情は、どこか苦しげだった。


「ヴィートのところです」

「…………」


 諸侯の連合軍がスーラ山とラナール山の賊に勝利して戻った日から、アベルは怪我人につきっきりだったので、ヴィートはひとりで過ごしていた。


 捕らえられた山賊らに会いに行くでもなく、かといってアベルと共に「騎士の間」にいるわけでもない。仲間だった者たちを殺した騎士らを、アベルが治療する光景を眺めている気にもならないのだろうか。

 ぼんやりとひとりで過ごしているというヴィートの様子をラザールから聞き、自責の念もあってアベルはずっと気にしていた。


 ヴィートのもとへ行くというアベルを、引きとめなくてもよいのか。事情を知っているベルトランとラロシュ侯爵は、気遣うような視線をリオネルへ向けたが、彼はかすかな笑みを浮かべて次のように言っただけだった。


「そうか、行っておいで」


 深々と頭を下げて立ち去るアベルを、見送る。


「いいのか」


 小声でベルトランから問われ、リオネルは長い睫毛を揺らして瞼を伏せた。


「ああ」


 組んでいた腕をほどいて頭に手をやり、ディルクはつまらなそうにアベルが出ていった戸口へ視線を向ける。


「本当は、すぐにでも休ませたいんだろう? そう言えばいいじゃないか。あいつのところへなんか行くなって」


 だが、リオネルが返事をするまえに、レオンがすかさず口を挟んだ。


「そんなことを男同士で言うのはおかしいだろう」

「そうかな」

「おまえのような能天気が言えば別かもしれないが」

「そうか。じゃあ、おれが言ってこようか」


 能天気と称されても気分を害した様子はなく、ディルクはリオネルへ顔を向けた。

 だが、リオネルは小さく首を横に振る。


 たしかにアベルに休んでいてほしい。ヴィートのところなどに、行ってほしくはない。

 だがリオネルは、それを口にしなかった。

 あえて言わなかったのだ。


 できるだけアベルの思うとおりに過ごさせてあげることが、今のリオネルにできる最大限の愛し方だった。

 鳥籠に押し込めて、鍵をかけておくことが、アベルの幸せではない。

 想いを伝えられないのなら、アベルの望むことに耳を澄ませていたい。

 ……そう納得しているはずなのにどこかでざわめく心を、リオネルは胸の奥に押し込める。


 親友の横顔を見やって、ディルクはそっと溜息をついた。











 マチアスは、館の尖塔の影に立っていた。

 影といっても、あたりは闇に包まれているので、光の度合いからするとその場所と、それ以外の場所とはさして変わりない。ただ、庭園に面するバルコニーの階段に座るヴィートの視界には入らない位置だろう。


 館の扉窓からバルコニーへ、光の絨毯が伸びている。

 そこから少し離れたところに座っているヴィートもまた、夜の闇に溶けていた。


 ヴィートが、マチアスの存在に気づいているかどうかは定かではない。

 だが、気づいてようが気づいていまいが、それはたいした問題ではなかった。ヴィートの様子を見守るよう――つまり、監視するよう、マチアスは主人から命じられているのである。


 ヴィートが、捕らえられている山賊たちや、もしくは彼らを捕らえた領主や騎士たちに対して、なにかしらの動きを見せなければそれでよい。

 一度は山賊をやめると決意したものの、今回の戦いをきっかけに、ヴィートの心境に変化が生じないとは言いきれないからだ。



 さきほどから、山賊だった若者は庭園を眺めている。

 その景色には、息づいているはずの草木の姿はなく、黒い空間が広がっているだけだった。


 早春とはいえ、まだ三月。

 空気は冷たい。


 外套を羽織らずにヴィートを追って外へ出たので、マチアスは寒さに身震いした。

 ヴィートも同様に外套を羽織ってはいない。だが彼は寒さに強いのか、まったく気にならないようだった。


 扉が開く気配がして、マチアスは注意をそちらへ向けた。

 バルコニーと接している大広間の扉窓ではなく、その脇にある通用口が開いたのだ。


 光の絨毯を避けるようにして歩むその人がだれなのか、マチアスにはすぐにわかった。

 顔が見えたわけではない。

 わずかな光さえ反射する明るい金糸の髪が、夜風にきらめいたからである。

 ――アベルである。


 ヴィートの隣まで来ると、アベルは無言で腰を下ろす。わずかな光が映し出すその姿の輪郭は、隣にいる長身の若者との対比からか、いつもに増して華奢に見えた。


 そして、そのときようやく、ヴィートは顔を上げて傍らに座った相手を見たのだった。










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