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スーラ山からカザドシュ山までの道程は、いくつかの山を越えなければならない。
それでも直線距離でいえば、ラロシュ領からグヴィド領ほどなので、休憩なしで馬を駆ければ一日もかからずに辿りつく距離である。
山道は険しいが、彼らにとっては生まれたときから慣れ親しんでいる場所なので、本来なら容易い移動のはずだった。
だが、今回は違った。
長時間、シャルムの騎士たちと戦った後である。
それも敵の援軍が来るまでは、勝利するに違いない戦いだった。勝つと確信していたにもかかわらず、終盤で苦戦を強いられ惨敗した山賊らは、心身ともに疲れきっていた。
負傷した者はむろんのこと、無傷でカザドシュ山に辿りついた者も、多くは到着するやいなや地面に倒れこんだ。
山賊のなかに医者などいるはずもなく、負傷者は傷口を焼いたり、酒を吹きかけたり、あるいは酒を飲んで痛みを一時的に忘れるだけだった。
血の匂いと、陰鬱な空気が彼らのあいだには満ちている。
カザドシュ山にいた者からしてみれば、思いもかけぬ事態である。スーラ山の拠点がシャルム貴族に襲われ、加勢したラナール山の仲間までもがことごとく撃退されて、生き残った一部の者だけがここへ逃げてきたのだから。
集落の中心にある小屋から、ひとりの若者が出てくる。
荒治療される者の叫び声があがる悲惨な景色を無感動に眺めまわしてから、ゆっくりと歩み、肩に軽い怪我のある男のまえに立った。
「なにがあった」
負傷している男は、目の前に立つ人物がだれなのか、すぐにわかった。
襲った農民や兵士から奪った服を着ている山賊も多いなか、目のまえの男はヴィートのように、狩った獣の毛皮を縫い合わせたものをまとっている。
ここ数年見ていなかったが、幼いころに幾度か会ったことがある。山賊の子供たちは、頻繁に山々を移動して遊びまわり、自然と山のことを学んでいくからだ。
この負傷した男もカザドシュ山に行ったし、目の前に立つ人物もスーラ山に来ていた。ラナール山で会ったこともある。
しかし、いつ会ってもそれはけっして楽しい時間ではなく、むしろ人生のうちで起こった最も凄惨な出来事だったといっても過言ではないだろう。
そのときの恐怖は、いまでも身体が覚えていた。彼の姿を――彼の瞳を見て、身体が震えるほどである。
「ブラーガ……」
男の口からかすれた声が出た。
「ひさしぶりだな、バルトロ」
バルトロは二十五歳のブラーガより四つ年上だったが、相手に対する恐怖で、喉がカラカラに渇ききっている。
恐怖とは植えつけられるものだ。
今のブラーガの強さもさることながら、子供のときに感じた恐怖というものは一生消えないだろう。おそらく、今成人している山賊のほとんどが、ブラーガに対して同様の感情を抱いている。けっして反抗できぬなにかを。
「なぜ、こんなことになった?」
ブラーガの話し方は独特である。
低くて、ゆっくりとした語調というだけではない。どこか感情に欠けるような、抑揚のない調子をしている。
「……他のやつから聞いたんだろう? おれからもう一度聞いてどうする」
恐怖を隠すように、ぶっきらぼうに答えたが、せわしなく動くバルトロの眼球は不安と落ち着きのなさを現していた。
そのバルトロを、ブラーガは立ったまま見下ろしている。
「ヴィートのことだ。さらってきた女といっしょに、あいつが崖から落ちて死んだと報告させたのは、おまえだろう」
「……ああ、そのことか」
関心がなさそうに答えてみたが、さらに眼球はせわしなく動いていた。
ブラーガが昔からヴィートのことを気にかけていることはバルトロも知っている。自分も、幼いころにヴィートをいじめて、逆にブラーガから酷い目にあわされた者のひとりだ。
先日の一件についての説明を、バルトロは観念したように話し始めた。
……貴族の少女をさらおうとしたが、領主の抵抗にあって十一人の仲間が斬られた。そこへヴィートが助太刀にきて仲間を助けたが、彼は少女のことをいたく気に入り、自分の小屋に連れ帰ってしまった。それからというもの、ヴィートは少女を他の仲間から守るように、小屋にこもって過ごしていた。
しびれを切らした自分と数人の仲間たちが少女を襲おうとしたところ、ヴィートに阻まれて喧嘩になったが、そのとき少女が信じられぬほどの剣技を見せてヴィートを救った。そして、ヴィートは逃げた少女を助けようとして、二人は共に崖から落ちた……。
「つまり、死体を見たわけではないんだな」
説明を聞き終わると、ブラーガは低く言った。
バルトロは返事をしなかった。
「襲ってきた貴族たちはなぜ、スーラ山の拠点の正確な場所を知っていたんだ。それに、貴族側に時間差で援軍が来たのはおかしいと思わないか」
「…………」
「まるで、ラナール山から仲間が来ることを知っていたかのように」
「ヴィートが貴族側に伝えたというのか」
首長の言葉を拾って問い返したのは、バルトロではなく、二人ともがよく知る若者だった。
ブラーガやヴィートの幼馴染みで、ヴィートを追いかけて、一年間ラナール山に移り住んでいたエラルドである。
「あいつがそんなことをするだろうか」
かすかな笑みが、ブラーガの口元に浮かぶ。
「あいつだから、だ」
その言葉の意味をしばし探ってから、エラルドは「なるほど」と心のなかでつぶやいた。
ここの山賊らは皆、ブラーガを恐れている。
それはまるで、子供が伝説の悪魔に抱くような、骨の髄まで染み込んだ恐怖だ。だからこそ山賊の秘密はけっして他者にはもらさない。
だが、ヴィートは違う。
彼は、ブラーガを恐れていない。
そして、なにより……。
――殺すのではなくて、守りたい。奪うのではなくて、与えたい。騎士になれなくても、その精神を忘れたくない。
――弱い者を守り、いつか愛する貴婦人に出会い、その人に惜しみない愛をささげて、命をかけて戦いたい。
昔からそう言っていたヴィートなら……山賊をやめたいといっていたあの男なら、ありえなくもないことだった。
なにせ彼は、ついに真に愛する貴婦人に出会ったのだから。
「ヴィートが、惚れた貴族の女か……」
あの夢見がちなヴィートが探し続けていたものを見つけたのはよいが、それが自分たちを裏切らせる要因になったとすれば、けっして歓迎すべきことではない。
複雑な思いでエラルドがつぶやくと、バルトロが嘲るような表情をつくった。
「あれのどこが貴族の女だ。あんなに腕が立つ女がいるものか。あれじゃまるで男だ」
「男? ヴィートが惚れたのは、大柄な醜女なのか?」
エラルドの素朴な疑問に対して、バルトロは言い淀むように口をつぐんだ。
「よほど醜いのか」
気まずそうなバルトロの雰囲気に、エラルドは返答を待たずに苦笑する。
「あいつもかなり変わっているからな。それでどうする、ブラーガ。仲間の幾人かは貴族側に捕らえられたようだが」
問われたブラーガは、わずかにうつむく。そして言った。
「先にやることがある」
「それは?」
「裏切り者は容赦しない。そう言ったはずだ」
「……ブラーガ?」
驚いた顔でエラルドは幼馴染みの顔を見やる。
他のだれのことよりも、ヴィートを大切にしてきたブラーガである。それが、「裏切り者は容赦しない」とは、どういう意味だろう。
だが、視線を向けた先のブラーガの表情は、うつむいていたために漆黒の髪に隠れ、見ることができなかった。
「娘を見つけたのは、ラロシュ邸の別荘だったと言ったな」
「ああ」
ブラーガの質問にバルトロはうなずいてから、付け加えるように言った。
「ヴィートが惚れた女は、見たこともないほどの美人だ。高値で売れそうな長い金髪と、透きとおった青い目の、まだ子供のように華奢な……たしかあいつは『アベル』と呼んでいた」
その説明に驚きつつも、見解は述べず、エラルドはわずかに責めるような口調で幼馴染みの名を呼ぶ。
「ブラーガ、おまえ……」
何も答えずにブラーガは踵を返した。
けれど再を呼ばれて、ようやく彼は足を止める。
「どうするつもりなんだ」
問いつめるエラルドの声は苦みを含んでいたが、答えるブラーガの声は淡々としていた。
「次に襲われるのはここだ。逃げてもいい、戦ってもいい。どちらにしろ、我々がこれまで創りあげてきたものが滅茶苦茶になるのは時間の問題だ。……ただひとりの裏切り者のせいで」
「すべてヴィートのせいだというのか」
「どうせ滅茶苦茶になるならば、ラロシュ邸を襲う。――あいつは、必ずそこにいる」
振り返りもせずに歩み去っていく友の背中を見つめながら、エラルドは奥歯を噛みしめた。
幼馴染みであり、今は頭領であるこの男の望むことが、わからない。
むろん、自分たちを裏切った者を罰することは、束ね役として当然のことである。だが、すすんで敵地へ踏み込むようなことをしなくてもよいのではないか。
逃げてもいい、戦ってもいい――そう言うブラーガは、むしろ拠点が襲われようが、それに対してどのように対処しようが、そんなことはどうでもよいことと感じているように見えた。
幼いころから彼と共に過ごしてきたエラルドには、ブラーガの真の望みが山賊の秩序維持や、仲間の救済などではないような気がしてならない。それらは、ふとしたきっかけで頭領となってしまったブラーガが、背負ってしまった重荷にすぎない。
ブラーガは、なにを求めているのか。
あるいは、なにを手放そうとしているのか。
ヴィートが崖から落ちたという報告を受けてから、ブラーガの心は、以前にも増して閉ざされたような気がする。
幼いころから守ってきたヴィートを、裏切り者として探し出して、どうするつもりなのか。
そもそも、本当にヴィートが、スーラ山やラナール山のことを貴族たちに話したのだろうか。
もしあの心根の優しいヴィートが、山賊をやめ、愛する者と共に暮らす生き方を選んだのであれば、エラルドは、そっとしておいてあげたいと思うのだった。
彼を罰しようが罰しまいが、どのみちこの山賊の共同体は崩壊していく運命にある。もともと深い絆で繋がっていたわけではない。利害と恐怖、そして遠い過去のしがらみだけで集まっていただけの、残忍な強盗集団である。未来永劫続くようなものではない。シャルム国から討伐の命が出た時点で、先は見えていたのだ。
再び小屋に戻ったブラーガは、自室にひとりの女がいるのをみとめた。
長い褐色の髪を結いあげ、贅沢なドレスを身にまとっている。彼女自身も略奪してきた「もの」だが、彼女が身に着けている全ての服飾品も、貴族らから奪い取ったものである。
女は、鈍感なのか、それとも神経が図太いのか、外の騒ぎを気にとめずに食事の支度をしている。だれも頼んではいないが勝手にやっているのだ。
――クヴルール男爵の娘、ロジーヌである。
彼女が人身売買の対象にならなかったのは、ブラーガの世話を焼き、またブラーガに抱かれる彼女のことを、周囲の山賊らが首長の女だと信じ込んでいるからである。
しかし二人の関係は、皆が信じるよりもよほど一方的であった。
「貴族らと戦うことになる。ここは戦場になるかもしれない。降りたいなら、山を降りればいい」
冷ややかとも表現できぬほど感情のこもらぬ声で、ブラーガは告げた。
囲炉裏にくべた鍋をかきまわす手を止め、そっとロジーヌは顔を上げる。
「わたくしを助けてくださるのですか?」
尋ねる様子は、意外に感じたというよりは、なにかを期待するかのようである。
助かりたいわけではない。
――ブラーガの真の気持ちが、欲しいのだ。
山賊にさらわれ、山小屋の片隅で怯えているロジーヌと不意に目が合った男が、山賊の頭領ブラーガだった。貴族にはない孤高な気高さと強さ。不思議と惹かれるものがあった。
ブラーガに抱かれ、ロジーヌは男を知った。ロジーヌが求めているのは、初めて自分を抱いた男の「愛」である。
ようするに、女は男に惚れたのだ。
「おまえが戦いのなかで死のうが、家族のところに戻ろうが、知ったことではない。好きにすればいい」
一瞬、ブラーガの本心を探るようにロジーヌはじっと相手の顔を見つめた。
いつものとおり、彼の表情や声音からはなにも読みとることはできない。だが、推測することはできた。
おそらく、彼が口にすることに、偽りはないのだろう。
つまり、ロジーヌのことなど、どうでもよいのである。
ここに居座ろうが立ち去ろうが、死のうが死ぬまいが、ブラーガにとって関心のないことなのだ。それは、ロジーヌに対してだけではない。山賊の仲間に対しても同様に感じているようにロジーヌには見えた。
この世のすべてのことなど、どうでもよいのだと。
「わたくし、ここにおりますわ。もうすぐスープもできますし」
その返答も、すでにブラーガは聞いてさえいないようだった。