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「母さん」


 扉を開けると、カーテンは半分しか開いていなかった。


 開いている部分からは、昼時のあたたかな陽光が室内に差しているが、厚いカーテンに遮られた部分は、光との対比で、むしろ完全に閉めきられている部屋よりも余計に暗く見えた。


 彼女はそんなところで、ぼんやりと背もたれのある椅子に浅く腰かけている。彼女がまとっているドレスも黒一色なので、その姿は暗がりに溶けていた。


「母さん」


 再び呼ぶと、彼女はようやく反応する。青白い顔が訪問者へ向けられた。


「ああ、トゥーサン。いつからそこにいたんだい? 気がつかなかったよ」

「扉も叩きましたし、さっきから何度も呼んでいました」

「そうだったのかい。なにか用でも?」


 血の繋がった息子に対していささか素っ気ない言葉に、トゥーサンはやや眉を吊り上げた。


「こんな暗がりでなにをしていたのですか。毎日、部屋に引きこもっていては、体調も気分も悪くなる一方ですよ」

「祈っていたんだよ、神様に。こうしているのが、わたしにとっては一番心が安らぐんだ」

「なにを祈っていたのですか」

「――いろんなことだよ、トゥーサン」

「…………」


 聞かずとも察しはつく。

 エマがこんなふうになったのは、二年半前にシャンティがいなくなってからだ。


 乳母だったエマには、伯爵の命により他の館の者と同様、シャンティが池で溺れ死んだと伝えてある。ただ、シャンティが襲われたこと、その末に身籠っていたことは、館内で起きた騒動と息子トゥーサンの説明によって知っていた。


 彼女は、最後の日にシャンティが、デュノア伯爵に部屋から引きずり出されていくところを目撃したひとりである。

 その直後に池でおぼれたシャンティの死を、エマが事故だったと思っているか、もしくは自殺と思っているかまでは定かではない。

 ただ、彼女の胸のうちには、息子のトゥーサンでさえ踏み入ることのできない領域があった。


「用がないなら、わたしはまた神様に祈るよ」


 二年半ものあいだ部屋にこもり、体調を崩してもなお祈り続ける母親に、トゥーサンは呆れとも同情とも諦めともつかぬ複雑な思いを抱いていた。


 せめて館内の礼拝堂で祈ればいいのに、と思う。

 だが、エマは自分の部屋を出ようとはしなかった。まるで人と会うのを避けているかのように。


「カミーユ様がお呼びです」


 トゥーサンは短く用件を告げる。


「……若様が? こんな老いぼれにいったいなんのご用だろう」

「貴女がお育てになった方ではありませんか。母さんは、カミーユ様にとっても母親同然の存在です。いったいなんの用だろうなどというのは、冷たいのではありませんか? それに、母さんはまだ五十歳にもなっていません。老いぼれなどと言わないでください」

「あんたはいろいろ厳しいね」

「貴女が、あまりにふさぎこんでいるからですよ」


 返答をしなかったエマは、ゆっくりと立ちあがり、カーテンの影になっている場所から春の日差しが差し込む場所へ歩んだ。漆黒のドレスをまとっていたので、まるで影がそのまま移動したようだった。


 エマが、眩しさに目を細める。

 ――眩しい。

 まるで、光のなかに、あの輝くようなシャンティがいるかのようだった。


 瞳を伏せて、込み上げてくる思いから逃れると、エマは鏡台に向かう。そして慎重に身だしなみを整えてから、息子に導かれて部屋を出た。


 辿りついたのは、思いもよらぬ場所だった。今は主を失った、シャンティの寝室である。

 扉を叩いたトゥーサンは取っ手を握り、一拍置いてからそれを開いた。


 その瞬間エマの目に飛び込んできたのは、窓際の飾り棚にある自分が活けた淡い水色の花と、その前に立つカミーユ。そして、どこから運んできたのか、卓に並べられた品々だった。


 部屋中に、おいしそうな匂いが満ちている。

 鶏肉の丸焼き、豚肉のテリーヌ、野菜の酢漬け、玉蜀黍粉の焼き菓子、苺の砂糖漬け……。

 どれもエマの好物ばかりである。


 目をまたたかせているエマに、笑顔のカミーユが歩み寄ってその腕を引く。


「エマ、いらっしゃい。今日はささやかな宴会をしようと思って」


 なにも言えずにいるエマを、シャンティの椅子に座らせた。


「どれでも好きなものから食べていいよ。飲み物は葡萄酒がいい? 麦酒や蜂蜜酒もあるよ」


 問われたエマは質問に答えずに、首をかしげる。


「カミーユ様、これはなんのお祝いでしょう?」


 だれの誕生日でもない。

 新年でもなければ、五月祭でも、収穫祭でも、王の誕生祭でも、建国祭でもない。

 不思議がるエマに、カミーユは適当に葡萄酒を選び、杯に注ぎ入れて渡した。


「はい、どうぞ」


 デュノア家の幼い跡取りの少年はにこにこしている。

 恐縮して銀杯を受けとりつつも、いぶかるようにその顔をじっと見返すと、カミーユは笑顔を少し困ったような表情に変えた。


「エマに元気を出してもらいたくて、トゥーサンと考えたんだ。なにかのお祝いとかじゃないけど、これは『エマのことが大好きの会』だよ。ここでやれば姉さんもいっしょに参加できると思って」


 少年の、どこか大人びたような笑顔を、エマは虚を突かれたように見つめている。


「姉さんはさ、エマのことが大好きだったと思うんだ。だから、エマが哀しんでいたらきっと心を痛めると思う」

「…………」

「そして、姉さんに負けないくらい、おれもトゥーサンもエマのことが大好きだから、元気になってほしいんだ。みんなエマの笑顔を見たいんだよ。ね? 今このときだけでもいいから、姉さんの部屋でエマの笑顔を見せてよ」


 胸になにかがつかえたような気がして、エマは左手で襟元を押さえた。

 ……きっとそうだ、きっとこの少年の言うとおりだ。

 まっすぐで、心の綺麗だったシャンティは、皆のことを慕っていた。そして、なにも知らずに死んでいった。

 だから、この跡取りの少年が言うように、この部屋では笑ってあげなければならない。

 あの子を、安心させてあげなければならない。

 この少年と息子の優しさに応えなければならない。


 だが、笑い返そうにも、シャンティが亡くなってから二年半ものあいだ笑っていなかったので、作ろうとした笑顔はわずかに頬を動かしただけで、消えた。

 その拍子に、この場では口にしてはならぬ思いが込み上げてきて、それを紛らわすようにフォークを手に取る。


「そうですか、若様はわたしのためにこんなご馳走を用意してくださったのですか。そうですか。それではいただかないわけにはまいりませんね。なんておいしそうなのでしょう、どれから食べようか迷ってしまいます」

「うん、トゥーサンもいろいろ考えてくれたんだ。エマが好きな料理とか、あとね……」


 言いかけて、カミーユは口をつぐむ。まだ言うには早すぎたからだ。

 ちらとトゥーサンを見ると、彼は微笑してエマの肩に手を置いた。


「料理が冷めないうちに食べてください。テリーヌは、わざわざこのために農家から直接仕入れてきた豚を使ったんですよ」


 この日、エマはいつもよりも多くの食事を口にした。だが、それでもわずかな量だった。

 こんなふうに大切な二人の息子たちに励まされても、エマの心に喜びや明るさが満ちることはない。むしろ、暗く淀んだ水底に沈んでいく一方のようだった。


 ――自分は、こんなふうにしてもらうような人間ではない。


 だが、そんなことを口にすれば、自分を元気づけようとしてくれている二人に対して、大変に申しわけないことである。だから、エマはその気持ちをきとめていた。

 けれど思いを堰きとめていた防波堤は、すでに大きくひび割れており、壊れる手前だった。


 食事が終わりつつあるとき、カミーユはひとつの首飾りを取り出した。


「あとね、エマ。これ」


 少年の手のなかにあったのは、赤味を帯びた濃い群青色の宝石。瑠璃の首飾りだった。

 エマの顔からあらゆる表情が消える。


「いつだったかな、エマが姉さんにこれをつけた日のことを、少しだけ覚えているよ」


 そう言って、カミーユは首飾りをエマのまえに掲げた。

 受けとってほしいという意味である。


 無言でその首飾りを見つめ、エマは震える手でそれに触れた。

 先代伯爵夫人――つまりシャンティやカミーユの祖母の、形見。

 自分の手でまだ幼いシャンティの首にかけてから、彼女はいなくなる日まで、肌身離さずこれをつけていた。


 小さくて冷たい石の、たしかな重み。

 それは、シャンティと、そのまえの所有者がこの世にいた証のようだった。


「詳しくは話せないんだけど、これは偶然見つけたんだ」

「…………」

「おれは、姉さんがいつかここへ戻ってくるような気がしてならない。池で死んでなんていないような気がするんだ。だから姉さんが帰ってくるその日まで、エマが持っていてくれないかな。エマの手で、また姉さんにつけてあげてよ」


 首飾りを持つエマの右手が、激しく震えだす。あまりに激しいので、震えているというよりも、痙攣するかのようだった。


「エマ?」


 カミーユとトゥーサンが不審げにエマの様子を見守る。


 震える手を止めようとするように、エマはもう片方の手を右手に添えるが、震えは止まらない。それどころかむしろ、いっそう激しく震えだす。


 そっと乳母の肩に手を置き、カミーユはエマの顔を間近にのぞきこんだ。


「どうしたの?」


 するとカミーユのまっすぐな視線から逃れるように、重ねた己の両手にひたいをつけて顔を隠す。それは、まるで祈るようなしぐさだった。


「――ああ、カミーユ様……。どうかお赦しください。わたしには、これを受けとる資格などないのです。シャンティ様をお守りすることができたのはわたくしだけ――わたしは、あの方をお守りしなければならなかったのに――。大奥様、お赦しください、お赦しください…………神よ、どうか……お赦しください」


 瑠璃の首飾りを握りながら、戦慄わななく手にひたいをこすりつけて、エマは唱えた。

 若者二人はその姿を、戸惑いと驚きを織り交ぜながら見ている。


「エマ、そんなことないよ。エマのせいじゃない。姉さんを守れなかったのは、みんな同じだ。おれもトゥーサンもどうすることもできなかったんだ。自分ばかりを責めないで」

「若様、違うのです。違うのです」

「なにが違うの?」


 やり切れぬ思いでカミーユは尋ねたが、エマは「違うのです」と繰り返すばかりで、なにも答えてはくれなかった。だが、二年半ものあいだ、彼女がこんなふうにして己を責め続けてきたことだけはわかった。


 来る日も来る日も部屋に閉じこもり、神に赦しを請い、シャンティのためなのか、あるいは己のためなのか、淡い水色の花を寝室に飾り続けていたエマ。これほどまでの罪責感を抱きながら、何年ものあいだひとりで過ごすというのは、どれほど辛く苦しいことだろう。


「エマがこの首飾りを受けとる資格がないなんて少しも思わないけど、もし持っているのが辛いなら、おれが持っているよ」


 差し出されたカミーユの手に、エマは首飾りを置こうとした。

 震える手からぶら下がる瑠璃が、大きくまわるように揺れる。

 だが、それはカミーユのてのひらに乗ることはなかった。


 エマは、揺れる首飾りを両手で握りなおし、とても大切なものを抱くように胸に押し当てた。かがめた半身から嗚咽が漏れ聞こえる。


 とても哀しそうに、それは、この世の哀しさをすべて集めて音にしたかのように、エマは泣いた。


 カミーユの青灰色の瞳が潤む。そして、乳母の背中に頬を寄せて、痩せた肩を抱きしめた。

 言葉はない。

 エマを慰める言葉は、ひとつも思い浮かばなかった。
















 こんにちは。後書き失礼いたします。


 いつもお読みくださり、ありがとうございます。

 長い物語の途中ですが、いつも毎回読んでくださったり、拍手をくださったり、感想をくださったり…読者様に心より感謝です。

 

 今回は区切りがよかったので短めの内容になりました。なので、もし更新する時間があれば、明日に同じくらいの短めのものをアップできればと思っています(できなかったら、すみません…)。


 次は山賊のお話です。

 主人公たちがなかなか出てこなくて、申しわけないです。

 本当に拙い作品ですが、もしおつきあいいただけるのであれば、小説のなかで生きる登場人物たちのそれぞれの物語を密かに味わっていただければ幸いですm(_ _)m yuuHi

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