94
彼は、騎士の間にいた。
さきほどまでラザールやダミアンとカードで対戦していたが、今は蛻の殻になったその広大な部屋の長椅子に横たわり、ひとりでカードをきり混ぜている。
ヴィートは数字も知らなければ、カードの遊び方も知らなかった。けれどラザールに一度教えてもらうと、それをすんなりと覚え、理解した。
こうしてアベルが起きてくるまで、暇つぶしに遊んでいたのだ。
昨夜、彼女がリオネルの寝室で休んだことを、ヴィートは知っている。朝食前に、リオネルから聞いたのだ。余計な諍いを起こさないために、リオネルはあらかじめ恋敵であるヴィートに、昨夜の経緯をありのままに伝えた。
そして、アベルが目覚めたことは、だれからも伝えられなかったが、ヴィートはすぐに気がついた。
なぜなら、カードで遊んでいる途中で、騎士らが討伐の準備に入ったからだ。騎士の間にいた彼らに、リオネルからの命令を伝えに来たのは、騎士隊長と思しき若者だった。
「リオネル様からのご命令だ。我々も山賊討伐に加わることになった。今すぐ前庭へ出て準備に取り掛かるように」
ベルリーズ家とアベラール家の騎士らは急な事態に騒然としたが、騎士隊長の説明を聞き、たちまち騎士の間から姿を消した。
――ラナール山にも拠点がある。
栗色の髪のその若者は、そう説明したのだ。
それは、ヴィートが昨夜アベルに伝えたことだった。
今朝方に出兵した諸侯ら連合軍の勝ちを危ぶんだアベルが、おそらくリオネルに話したのだろう。
ヴィートは硬い椅子に寝ころびながら、ひたすらカードをきり混ぜている。
その瞳に映っていたのはカードだが、その瞳の奥にあったのは、本人の意識にも登らぬほかのなにかだった。
開け放された扉口のほうに人の気配を感じて、ヴィートは横になったまま顔を向ける。
入ってきたのは、生まれてはじめて惚れた相手だった。
「アベル」
それまで無表情だったヴィートの顔に、明るい色が浮かぶ。
けれどそれとは対照的に、アベルのほうは沈痛な面持ちだった。
寝ていた体勢から長椅子に座りなおしたヴィートの間近へ歩み寄り、アベルは無言で頭を下げる。
ヴィートは座っていたが、彼は長身なので、立ったまま頭を下げる小柄なアベルとさほど目の位置は変わらない。
「なんだ?」
のぞきこむようにヴィートが尋ねると、うつむいているためにまえのほうへ流れて顔を隠してしまっている金糸の髪の向こうから、消え入りそうなほどの声が聞こえた。
ごめんなさい、と。
声が震えているような気がして、ヴィートがアベルの髪をよけると、彼女は伏せていた瞳を上げた。
その淡い水色の宝石の上には、厚い水の膜が張っている。
「そんな顔するなよ」
困ったような顔で笑って、ヴィートはアベルの頬に手をあてる。
「ごめんなさい……」
再びアベルは謝った。
それは、ヴィートに仲間を裏切らせたことに対する謝罪である。そのことを、ヴィートはよく理解していた。
「いいんだよ、伝えてもいいと言っただろう? きみの役に立ったなら本望だ」
細められたアベルの両目が、窓からの光を反射して閉じこめる。
「おれは昨日からアベルを泣かせてばかりだな。そんな顔をされると、どうにもならない気分になるだろう?」
頬に添えた手をすっと首の後ろにまわし、アベルの顔を引き寄せる。
突然のことにアベルは身動きできない。アベルの唇に、ヴィートの唇が重なろうとしたそのとき。
……首筋にまわされたヴィートの手をぐっと捉えて、アベルをヴィートから離した者がいた。
ぼんやりしていたアベルは、自分の右肩をしっかりと抱く相手を振り返る。
――マチアスだった。
感情が読みとれぬ冷静な表情で、彼はヴィートにまっすぐ視線を向けていた。
それをまえにして、ヴィートはふっと笑う。
「あんたがいたのは知ってたよ。こうでもしないと出てこないと思ったからね」
アベルは大きく瞳をまたたく。
ヴィートは何をしようとしていたのか、なぜマチアスがここにいるのか――。
「おれの手からアベルを守るようにとでも言われたのか?」
冷めた目でヴィートが尋ねると、マチアスは「いいえ」と答える。
「ラロシュ邸を守る者が少ないので、私もここに残ることになったのです」
マチアスの説明に、わずかにアベルは首を傾けた。前庭で、討伐に赴くリオネルやディルクを、ラロシュ侯爵夫人や子供らと共に見送ったのはついさきほどのことだが、彼らからそんなことはひと言も聞いていない。
たしかに、ディルクのそばにマチアスの姿はなかったが、後方でアベラール家の騎士を指揮しているものだと思っていた。
「急に決まったのですよ」
訝るように自分を見るアベルへ、マチアスは笑顔を向けた。
マチアスは主人らが戻ってくるまで、できるかぎりアベルに気づかれぬようにいるつもりだった。というのも、アベルを守るためにマチアスが残ったと勘付けば、アベルは自分よりディルクを守るようにと言うだろうからだ。
どこか腑に落ちないような表情のまま、アベルはマチアスからヴィートへ視線を移す。
「それで、あなたは、なにをしようとしていたのですか?」
「ええっと、それはまあ……口づけだけど……」
「――――」
黙してうつむいたアベルの顔は、みるみるうちに赤く染まる。
――まさかとは思ったが、やはりそうだったのか。
恥ずかしいのではない。
怒っているのだ。
「アベル?」
顔を上げたアベルの目を見て、ヴィートは慌てる。そこに浮かんでいる感情の種類に気づいたからだ。
「悪い、そのこれは……この男をあぶり出すための演技だったんだ。本当に口づけしようとしていたわけじゃない。信じてくれ」
アベルは黙っていた。怒りは込み上げてくるが、言葉は出てこない。
下手にヴィートと言い争えば、自分が女であることをマチアスに知られてしまうか、もしくは男同士のただならぬ関係と取られてしまう可能性があるからだ。しかし、後者についてはすでに、そう取られたとしてもいたしかたのない状況である。
なにも言わないアベルに弱り果てたヴィートは、なにかを思いついたように手を叩く。
「そうだ、そうしたら、これでおあいこってことにしないか? ラナール山のことをリオネルに伝えたことを、もしきみが悪いと思っているのなら、おれはそれを赦すから、きみはおれが口づけをするふりをしたことを赦してくれ」
拍子抜けしたように、アベルの瞳からすっと怒気が消えていく。
そう言われてしまえば、赦さざるをえない。
「それとこれとは、違う次元のお話では」
平然と指摘したのはマチアスだったが、ヴィートは懇願するような眼差しで、自分より少し上に位置するアベルの瞳に見入っていた。
ゆっくりと、アベルはうなずく。
安堵した様子でヴィートが笑った。
そんなヴィートの様子を、マチアスは観察していた。諸侯らに対しては不敵というか、不遜なほどの態度でふるまっているが、アベルのまえでは不器用なほどの繊細さを見せる。不思議ではあるが、山賊などをやっていても、もとは細やかな神経の持ち主なのかもしれない。
アベルに出会うよりまえから山賊をやめたがっていたということが、理解できるような気がした。
「……ですが、ヴィート。これでよかったのですか?」
怒りを削がれたアベルは、再び表情を曇らせた。
これでよいのかどうかというのは、仲間のことを貴族側に話し、そして、黙って討伐隊を見送ってラロシュ邸に残ることである。
本当にこのままでよいのか。
アベルは、自分の存在のために、ヴィートが苦しんでいるような気がしてしかたがなかった。
「もし、あなたが望むなら、わたしにあなたを止めることはできません」
山賊に戻ることも、自分たちの敵になることも……。
その言葉に、ヴィートはわずかなあいだだけアベルから視線を外して「いいんだよ」と、自分に言い聞かせるように言った。
「ほら、そんな顔するなって。唇を奪おうとしたのは演技だが、どうにもならない気分になるっていうのは本当だからな」
「どうにもならない気分とは、どのようなものですか?」
「……それは、そりゃ――」
あまりに無邪気で率直な質問に対して、返答に詰まったヴィートは、ちらとマチアスを見る。
このアベラール家に仕える従者は、アベルが女であるということを知らないだろうからだ。下手なことを口走れば、またアベルの怒りを買うだろう。
言い淀んでいるヴィートにかわって、マチアスがそっけなく言った。
「アベル殿、聞かなくてもいいことですよ。どうせろくな気分ではないでしょうから」
「ずいぶんな言い方だな。まあ、そのとおりだろうけど」
この男はいったいなにをどこまで知っているのだろうと思いつつ、ヴィートはマチアスとアベルの顔を交互に見た。
アベルは目をぱちくりさせている。
「若いご領主さま方は無事に旅立ったようだし、散歩でもしないか?」
持っていたカードを大きな机の端に置きながらヴィートはアベルを誘ったが、芳しい返答を得ることはできなかった。
「いいえ、申しわけありませんが、わたしはラロシュ侯爵様のご家族をお守りしなければなりませんので」
「そうかい、それじゃあ、おれもいっしょにそうすることにするよ」
こうしてラロシュ侯爵夫人と子供たちのもとへ向かった三人は、結局、彼らを外敵から守るというよりは、子供たちのお守りをすることになった。
元山賊の若者が子供好きのする性格だということは知っていたが、マチアスもまた子供たちに好かれる種の人間だったことは、アベルにとってはやや意外だった。
ヴィートが子供といっしょに遊んでいるようだと表現するなら、マチアスは共に遊ぶというよりは、一段上のところから彼らをうまく扱っているという表現が合うだろう。
それが、手のかかる主人に幼いころから仕えてきた彼の苦労の成果だということを、アベルは知らなかった。
+
そのころ、普段はひっそりとしているはずのスーラ山の中腹において、今は剣と剣がぶつかり合う金属音と、興奮した馬の嘶き、そして怒号と絶叫があちこちであがっていた。
うっすらと立ちこめる霧のなかでも、地面のいたるところに残っている雪が、血で濡れているのがわかる。その血は、かつてシャルムの騎士の身体に流れていたものと、山賊の体内に流れていたものとが激しく混ざりあっていた。
戦いがはじまった当初、死者のほとんどは山賊だった。
奇襲に近い形で、山賊の拠点を五百二十八名の騎士が襲ったのである。突然の事態に山賊らが太刀打ちできなかったのは当然だ。
けれど山賊にとってこの険しい山は、自分たちの強力な味方だった。
徐々に集落の外へ散っていった彼らは、騎士らを分散させ、足場の悪い場所や危険な個所へと誘導し、山賊らにとて有利な状況にもちこんだ。騎士らが身動きとれなくなったところを、蜘蛛の巣にひっかかった羽虫を食らうように、山賊らは易々と殺していく。
こうして戦いは徐々に完全な優勢ではなくなっていったが、形勢が完全に逆転したのは、どこからともなく相当な数の山賊が加勢してきたときからだった。そのときすでに戦い始めてから、かなりの時間が経過しており、騎士らの顔には疲労の色が濃く現れていた。
「賊の数が増えたぞ! やつらは矢も使う。気をつけろ!」
だれかの叫び声が、騎士らの疲労に追い討ちをかける。この期に及んで敵が増えることは、だれひとり想像していなかったことだった。
「深追いするな! 森の奥に引き込まれたら最後だ!」
長剣に付着した山賊の血をふり払いながら叫んだのは、馬上のセドリックである。
ラロシュ侯爵やシャルルにはその言葉が聞こえていたが、そのとき無数の敵を同時に相手どって剣を振るっていたので、返事を返す余裕はなかった。彼らの馬はまだ無事であったが、多くの騎士らは馬を傷つけられ、倒れた木の幹や枝、蔦や雪、泥などで足場がないような地面の上での戦いを繰り広げている。
諸侯側は皆、苦戦を強いられていた。
味方の騎士が次々に倒れていく。厳しい環境であるラ・セルネ山脈に巣食う賊は、諸侯らが予想していた以上に強かった。
「シャレット男爵様!」
男爵に向けて突きだされた斧を身体で受け止めた兵士が、血の霧雨を降らせて重く倒れていく。シャレット男爵は己をかばった騎士の最期を見届けることができずに、次に襲いかかってきた一撃を迎え撃った。
目に見えて、騎士らの数より山賊の数のほうが上回ってきている。そう見えたのは、それだけ騎士が倒されていると言うこともあるが、徐々に敵の数が増えてきているせいもあった。
「どこから湧いているんだ、この山賊らは!」
ウスターシュが容赦なく賊を斬り捨てながら叫ぶ。
多くの騎士らが、この戦いにおける貴族側の敗北をうっすらと予感した。そして、相手が他国の騎士ならともかく、山賊では降伏することもままならない。敗北の先に待っているのは、「死」のみである。
騎士らは捨て身で剣を振るった。
ベルリオーズ家と、アベラール家の騎士が加わっていたなら――だれもがそう思った。
戦いは長引き、気がつけば真上にあったはずの太陽は、西の空へ大きく傾いている。
それと同時に、木々に覆われた森には陰りが差し、すっと背筋を冷ややかな風が通り抜けるようになった。
スーラ山に、夜の気配が忍び寄りはじめいている。
騎士らの不安と絶望は高まった。ここが暗闇に覆われるまえに決着をつけなければ、山賊以外のものに命を奪われるかもしれない。
騎士らは、剣を持つ手に、汗と、緊張を握りなおす。そんなときだった。
聞こえるはずのない馬蹄の轟がした。
騎馬が押し寄せる音である――それは、山賊のものではありえない。
窮地に立たされて、幻聴を聞いたのかのようだった。
だが次に上がっただれかの叫び声で、それは現実のものとなった。
「ベルリオーズ家と、アベラール家だ!」
その声を聞いて、皆が迫りくる馬蹄の音の方を向く。
騎馬隊の先頭に現れたのは、まだ大人になりきらぬ若い青年たちだった。
ひと目で統率者とわかる貴公子然とした濃茶の髪の青年に、山賊が集中的に矢を放つ。青年は一刀で数本を同時に斬り捨て、先陣を切って血なまぐさい戦場に突入した。
――リオネルである。
リオネルを狙い損ねた矢を、傍らのベルトランやクロード、レオンは同じく長剣で叩き切り、ディルクは身体を逸らして避けた。
続いて戦いに加わった騎士らは、返礼とばかりに馬上から山賊に短弓で矢を放ち、次に長槍を構える。槍先には次々に山賊の身体が突き刺さっていった。
「援軍だ! 援軍が来たぞ!」
ベルリオーズ家とアベラール家の兵士の登場に、戦場の空気が変化した。
戦いの勝ちを確信しつつあった山賊らは、数百名の敵兵の登場に愕然とし、一方、負けを覚悟し始めていた騎士らは、希望と勝利の道筋を見た。
「やつらの馬を狙え! 馬から引きずりおろせ!」
「火矢を放て!」
山賊らが叫ぶ。
さきほどまでは見られなかった動揺が、山賊らの顔には浮かんでいた。
強兵を誇るだけあって、ベルリオーズ家の騎士たちの強さは、並はずれたものだった。
次から次へと戦場になだれ込んでくる騎兵は、その勢いに乗って山賊を討ち取っていく。
そのなかでも、すさまじいほどの武勇を見せたのは、やはりシュザンを師とする三人の青年と、ベルトラン、そしてクロードだった。
「あいつらの統率者を殺せ!」
敵からそんな声が上がるなか、リオネルやディルク、そしてレオンに、矢と刃が集中する。山賊らにとっては、身なりが他の者と違えば、王子だろうが、諸侯だろうが、なんでもかまわない。大将らしき者の首を取り、騎士らの戦意を失墜させることができればよかった。
山賊らが新たな敵に向かっていったため、ラロシュ侯爵やシャルル、その他の諸侯の周りからは一時的に敵が退く。また、相手の攻撃を分散させるために、クロードとディルクはリオネルから離れていった。
それを機にウスターシュは反撃を強めて山賊を斬り殺し、王弟派の諸侯らはリオネルを守るべく、渦中に飛び込んでいった。
「リオネル様!」
シャルルがリオネルに続く道を切り開くように、山賊を倒しながら彼に駆け寄る。
「シャルル殿、ご無事で」
斧や槍、直剣、矢、様々な武器による攻撃を、愛用の長剣で迎え撃ちながらも、まったく焦りや疲労を感じさせぬ顔でリオネルは笑った。
「――まさに天の助け。なんと心強い」
その笑顔を見ただけで、自分たちは勝利するに違いないと確信するほどシャルルは安堵した。それは、他の諸侯や騎士らも同様だった。
「リオネル様、ディルク殿、殿下まで……いったい、なぜ」
執拗に馬を狙ってくる山賊の攻撃を、手綱を引いて避けながら、ラロシュ侯爵はリオネルに馬を寄せて話しかけた。
「ラロシュ侯爵殿、拠点はラナール山にもあります。敵の数が多いのはそのせいです」
「なんと……その情報は――」
尋ねかけてから、ラロシュ侯爵は思い当たることがあって、言葉を切った。
そんなことを知っているのはヴィート以外にはいない。だが、昨日はあれほど話したがらなかった彼が、なぜ口を割ったのか。
リオネルの曖昧な表情から、それがアベルを通じて伝わってきた情報であることを、ラロシュ侯爵は感じとった。
「なぜこの場所がわかったのですか」
このような深い山奥では、たとえ口頭で場所を聞いたとしても、まっすぐに辿りつくことは困難だろう。
「五百を超える騎兵が通過すれば、険しい山にも道らしきものができるものですよ」
淡々と答えたリオネルに、ラロシュ侯爵は舌を巻く。
「おい、ぼんやり話していると、隙を突かれるぞ」
二人に忠告したのは、突き刺した相手から長剣を引き抜きつつ、馬を傷つけようと駆け寄ってくる山賊を、足で蹴り飛ばすレオンである。普段は黙って諸侯らの話を聞いているだけの彼も、今は幾多の敵を斬り、返り血に染まっている。
「トゥールヴィル隊長の従騎士をされていたお三方の強さは、聞きしに勝りますな」
リオネルを守るようにして戦っているシャレット男爵はつぶやいた。
やや離れたところでは、セドリックやディルク、そしてクロードが味方を鼓舞しながら剣を振るっている。彼らの周囲には、徐々に山賊の姿がなくなっていった。
西の空と、上空に漂う霧が鮮やかな茜色に染まるころ、戦いは決着していた。
暗闇に支配されつつある山中に、敵味方の死屍が積み重なっている。血の匂いが、早春の香りに乗って山の麓まで吹き降りていった。
そのなかで、騎士のみならず山賊をも含めて負傷者をことごとく探し出し、ラロシュ邸へ連れ帰るようにとリオネルは命じた。
ベルリオーズ家とアベラール家の援軍の登場によって命拾いしたウスターシュは、リオネルの顔を見ることもなく、だが彼の命令に反発することも従うこともなく、黙って下山した。
騎士らの表情に勝利の実感が生まれ、緊張を解きはじめたころ、心の隙を突いたように一本の矢が飛び来たった。
それは、確実に一箇所に狙いを定めていた。
……リオネルの心臓部である。
リオネル自身の力でそれを斬ることは容易だったが、それよりまえにベルトランが馬ごとリオネルの前方に躍り出て、矢を切断する。
血で湿った地面に落ちたのは、山賊の使う矢尻ではない。それは、いつかラロシュ邸でリオネルに向けて放たれた矢についていたものと、同じ形だった。
「敵を倒しても、安心はできないようだね」
馬を駆け寄せてきたディルクがつぶやく。
「さあ、裏切り者はいったいだれかな」
冷ややかに笑ったディルクに、リオネルは「さあ」と、さほど興味なさそうに首をかしげた。今は、ラロシュ邸に残してきたアベルのことが心配で、自分を狙った犯人をつきとめるよりも下山を急ぎたい。
その傍らで、自分はなにもしていないはずなのに、やや決まりの悪さを覚えていたのは、シャルムの第二王子である。
味方のなかにリオネルの命を狙う者がいる。
兄からリオネルの暗殺命令を受けている自分も、一応そのひとりである。
「おまえのことじゃないよ」
肩に置かれたディルクの手をふり払いながらレオンは、
「あたりまえだ」
とぶっきらぼうに返答する。
リオネルの命を狙えるわけがない。手を出すことなど断じてないが、どこか居心地の悪さはぬぐえなかった。
諸侯らの連合軍は、完全に日が暮れるまえに山を降りた。
アベルが主人らの無事を確認して安堵したのも束の間、すぐに負傷者の看病にとりかかることになった。