93
深い、深い眠りに落ちていた。
夢を見ていたかどうかも定かではない。
意識が徐々に浮上するにつれ、ただ、あまりの心地よさに目覚めたくないという思いだけがあった。
やわらかい寝台。肌触りの良い布団。
そして、この香り。どこか懐かしく、透明感のある……。
――リオネル様の香り。
…………。
リオネル……様……?
「…………!」
そう思ったとき、心臓が跳ねてアベルの意識は、はっきりした。
大きく見開いた淡い水色の瞳には、アベルひとりが眠るには広すぎる寝台と、美しくも重々しさを感じさせる装飾がほどこされた天蓋が飛びこんでくる。
ここが自分の部屋ではないことに気がつき、思わず飛び起きたアベルが目にしたのは、床の上にそろえて置かれた二組の寝具だ。
――二組の寝具。
ひとつは、ベルトランが使用したもの。
もうひとつは……。
もとより透けるようなアベルの肌は、さらに蒼白になった。
昨夜の記憶は途中で途絶えている。
ヴィートに告白されたあと、蜂蜜酒を飲みながらリオネルやベルトランと話していた。
山小屋での生活や食べ物のことを語り、それからリオネルのラロシュ邸での様子を聞いて……それから……?
それから自分はおそらく眠ってしまったのだ。
自分で寝台に移った記憶はないので、リオネルかベルトランが運んでくれたのだろう。
それから、なんということか、アベルは朝までリオネルの寝台を占領した。
いや、今は、朝なのだろうか。
カーテンの隙間からもれる日差しが、朝にしては強く白々している。
アベルは立ちあがってカーテンを開けようとしたが、右足に続いて左足を床につけたとき、不意に襲ってきた激痛にひざがくずれた。そのまま床に手をつく。
あまりに深い眠りに陥っていたせいか、足を挫いていることを完全に失念していたのだ。
落ちつけ、と自分に言い聞かせてアベルは再び立ちあがった。
ゆっくり窓に歩み寄り、カーテンを開ける。
晴れきらぬ霧を透かして見える、輝きを失った太陽は、すでに中天に達しようとしていた。
何日かぶりの寝台、それも極上の布団とリオネルの香りにくるまれて、アベルの疲れはかなりの程度癒されたが、心地よい眠りをむさぼりすぎたようだった。
アベルは布団を整え、ほどけたままの髪もそのままに寝室を出た。
主人らがどこにいるのかわからない。
今日にでも、スーラ山を攻撃するとウスターシュは意気込んでいたが、本当に彼らはそれを実行したのだろうか。もし実行したのなら、ベルリオーズ家やアベラール家は言葉どおり加わらなかったのだろうか。
様々なことを考えながら、アベルはディルクの寝室や書斎、食堂などを探しにいった。
騎士らの姿が少ない。ラロシュ邸の廊下を歩んでいて真っ先に感じたのは、そのことだった。
少ないどころか、ほとんど見ないのだ。
行き交う使用人のひとりを呼びとめ、尋ねる。
「ラロシュ侯爵様やリオネル様はどちらへ」
すると、驚いた様子の若い使用人は、たどたどと説明した。
「侯爵様は、他のご領主様方と共に兵を率いて山へ向かわれました。ベルリオーズ家の若君様は食堂近くの客間で、王子殿下やアベラール家の若君様とお集まりかと存じます」
「ありがとう」
礼を言い、足を引きずるように歩き去っていく若い従騎士の後ろ姿を、使用人はぼんやりと見つめている。束ねていない長い金糸の髪が、アベルの白すぎるほどの肌や、細身の肩に落ちかかり、男性とは思えぬ儚さだったからだ。
客間に向かったアベルは、焦る気持ちを落ち着かせるように深呼吸してから、扉を叩いた。
警戒するように扉を開けたのはマチアスで、来訪者がアベルであることを知ると緊張を解き、柔らかい笑顔で迎え入れる。
「おはようございます。どうぞお入りください」
もう「おはよう」というような時間帯ではなかったが、アベルにとってはたしかに目覚めの挨拶だった。
恥ずかしさと焦りから、微笑のみを返して、アベルは入室する。
明るい室内には、小さい円卓を囲ってリオネル、ベルトラン、ディルク、そしてレオンがいた。
アベルの姿をみとめると、リオネルが立ちあがる。
「アベル、おはよう」
その整った顔に浮かんだいつもの優しい笑顔に、胸が締めつけられる。
この公爵家の跡取りは、アベルを寝台に寝かせて、自らは床で眠ったのだ。そう思うと苦しさに似たものを感じた。
「リオネル様、昨夜は申しわけございませんでした」
開口一番、深々と頭を下げて謝罪したアベルに、リオネルは歩み寄る。
「謝ることはなにもないよ。もっと休んでいてよかったのに」
「そうだよ、アベル。きみは三日間も不自由な生活をしていたんだから、今日くらいゆっくりしていていいんだよ」
ディルクも心配そうにアベルを見ている。
「お心遣い、ありがとうございます。昨晩、リオネル様の寝台を使わせていただいたおかげで、疲れは充分にとれました。ですが、リオネル様はお疲れになったのでは……」
「リオネルの寝台を使った? それはまた大それたことをしたもんだね」
フェリシエあたりが聞いたら少なからずやっかみそうだと思いつつ、ディルクはリオネルへ訝るような視線を投げかけた。
「おれの部屋の椅子で寝てしまったから、そのまま寝台に移しただけだ」
親友の疑問に答えるために、リオネルは短く説明する。
「それで、アベルに自分の寝台を使わせて、おまえはどこで寝たんだ?」
「別の場所だ。よく眠れたよ」
最後の言葉は、ディルクではなく、リオネルが疲れたのではないかと心配するアベルへ向けたものだった。
はっきりと説明されずとも、リオネルがベルトランと同じように床で寝たことは、アベルの恐縮する様子から伝わってくる。驚きを通りこして、呆れて言葉も出ないのは、ディルクだけではない。レオンも同様だった。
臣下を寝台に寝かせて、主人が床で眠る。身分制社会であるシャルムの王侯貴族にとっては、信じがたい状況である。
従騎士仲間からそんな視線を向けられても、リオネルは気にとめる様子もなく、涼しい表情だった。
そんなことより、束ねていない髪が普段よりも女性らしく見えることが気になって、リオネルはちらとアベルの長い髪の先へ視線を向ける。
「リオネル様、お話があるのです」
急くようにアベルは言った。髪も結わずにリオネルを探していたのは、ただ寝台を使用したことを謝罪するためではない。どうしても、聞かねばならないこと、話さねばならぬことがあったからだ。
「なんだろう?」
「スーラ山へ討伐に向かった兵力の総数を教えてください」
突如、思いも寄らぬことを聞かれたので、リオネルはしばしアベルの瞳を見つめる。けれど彼女の表情には緊張の色が浮かび、眼差しには焦りさえたたえられていたので、リオネルは即座に答えた。
「フォール家、エルヴィユ家、ラロシュ家、ブリアン家、ベロム家、クヴルール家、シャレット家、その他七家をあわせて、騎兵五百二十数名だ」
歩兵を率いていくことは移動速度を鈍らせるので、今回は騎兵のみの出兵である。
山賊の被害を大きく受けている所領の領主、そしてセドリックやシャルルなど、前回ウスターシュが考えた囮の案に賛同した諸侯らは、自然と参加する流れとなった。
ウスターシュに言われたとおり、今回の出兵についてリオネルらはひと言も口を挟んでいない。それでもウスターシュを筆頭に諸侯たちが話しあい、充分な勝算あっての総攻撃だろうと踏んでいた。
だがリオネルの返答を聞いたアベルの顔色は、またたくまに青ざめた。
「リオネル様、山賊の拠点はスーラ山だけではありません。ラナール山にもあるのです」
そのひと言に、皆の表情が変わる。
「アベル?」
柳眉を寄せて、リオネルはアベルの瞳を見つめた。
なぜ、ウスターシュが喉から手が出るほど知りたがっていた情報を、アベルが知っているのか。その疑問に答えるようにアベルは説明する。
「ヴィートが昨夜教えてくれました。スーラ山の賊は三百人超ですが、スーラ山が攻められれば、背後にあるラナール山からも数百人単位の者が駆けつける可能性があるそうです。正確な数字はわからないと言っていました。もし彼らが領主様方の連合軍を背後から挟みうちにしたり、山賊の総数が領主様方の率いる兵力より上回ったりすれば、地の理にも劣る領主様方は敗れるかもしれません。眠る前に申しあげるべきだったのですが――」
昨夜は、なぜそのことに思い至らなかったのか。様々なことがありすぎて、頭が回らなかったのかもしれない。
ディルクとベルトラン、そしてレオンは顔を見合わせる。そして確認を求めるように視線を向けてきた彼らへ、リオネルが大きくうなずいてみせた。
再びアベルに向きなおったリオネルは、アベルの両肩に手を置き、そして諭すように言った。
「アベル、知らせてくれてありがとう。おれたちはこれからラロシュ侯爵らの援護に向かう。だが足を怪我しているきみを連れていくわけにはいかない。アベルは、ここで待っていてくれるね?」
リオネルを守りたい、仲間と共に戦いたい。だが、無理についていけば、足手まといになることはわかっている。こんな大切な時に、主人の危険をまえにして自分はなんの役にも立たないのだ。
ぐっと唇を引き結んで、アベルはうなずいた。
今は、主人の警護をベルトランやディルクに任せるしかない。それ以外の選択肢はなかった。迷う余地もないほどに。
「必ず無事に戻ってくるから」
硬い表情のアベルを安心させるように、リオネルは笑顔を向ける。
そして昨夜のように、おろしたままのアベルの髪をそっと一束とり、かがんで口づけを落とした。
アベルの青ざめた顔に、瞬時に赤味がさす。
皆は席を立ち準備に向かいはじめていたので、二人の様子に気づく者はない。
立ちすくんでいるアベルに、もう一度ほほえみかけてリオネルは退室した。
そのあとに続こうとするベルトランが、頬を朱色に染め呆然とするアベルに声をかける。
「リオネルのこと、今回はおれに任せろ」
どこか晴れない表情でうなずくアベルに、ベルトランはもうひと言つけ足した。
「ラロシュ邸のことは、おまえに任せたぞ。クロードも出兵するから、ここにはアベルしかいない。ラロシュ侯爵夫人と子供たちをしっかり守るんだ」
すると、アベルの顔に明るさが戻る。
「はい!」
張りのある返事に、ベルトランはわずかに口元を緩ませた。
この十五歳の少女は、どんな形であっても主人の役に立ちたいのだ。その懸命なひたむきさに、ベルトランの心のどこかが温かくなる。
揺るぎない精神を持ちながらも儚く、強くも脆く、まっすぐで素直でしなやかな娘。
かつてどのような女性にも心を奪われなかったリオネルが、これほどまでに惹かれるのも納得できた。
「ただ、おまえになにかあればリオネルが気に病む。なにがあっても、命だけは大切にしろ」
少し驚くような顔をしてから、アベルはゆっくりと、深くうなずいた。
「むろん、そのときはリオネルだけじゃなく、おれも平静ではいられない。おそらく、ディルクやレオン、マチアスもだ」
ディルクやレオン、マチアスについては、アベルには判断がつかない――けれどベルトランがそう言ってくれることは、今のアベルにとってとてもありがたいことだった。
はにかむように笑ったアベルの頭に手を置き、ベルトランは髪をくしゃくしゃとなでる。
そして長身の騎士が扉口の先へ消えていく。
全員が出ていったあとの客間で、アベルはしばらく立ちすくんでいた。
これでよかったのだろうか。
昨夜ヴィートから聞いた内容を、カザドシュ山に関すること以外すべて話してしまった。
伝えるかどうかはアベルの自由だと彼は言っていたが、結果的に、ヴィートに仲間を裏切らせてしまったのだ。
彼の気持ちを利用したようで、心が苦しい。
……自分は、ヴィートの想いに答えられないのに。
だが、アベルはリオネルに忠誠を誓う者である。このまま黙っているわけにはいかなかった。
もし諸侯らの連合軍が山賊に負ければ、次はベルリオーズ家が戦うことになるだろうが、はたしてアベラール家と残りの諸侯のみの兵力だけで討伐は成功するだろうか。苦戦することになれば、そのときには、リオネルの命が危険にさらされることになるだけではなく、討伐を成しえなければ、その責任は命を受けているベルリオーズ家が問われることとなる。
主人を、ベルリオーズ家を、仲間を守るためには、こうするしかなかった。
ヴィートに仲間を裏切らせ、自分は仲間を守ろうとしている。
そのうえ、山賊の情報を伝えた自分は、共に出陣することも、主人を守ることもできず、こうしてラロシュ邸に残っているのだ。
どうしようもないほど自責の念に襲われる。
昨夜ヴィートは、気持ちを受け入れてもらえなくとも、アベルのそばにいさせてほしいと言っていた。自分はそんなことを言ってもらえるほどの人間なのだろうか。
一方で、こんな非力な自分にも、ベルトランは役目を与えてくれた。
そしてリオネルは、必ず無事に戻ると約束してくれた。
今は彼らの言葉を信じ、与えられた使命を全うすることが、アベルにできる数少ないことなのだった。
リオネルに口づけされたやわらかいアベルの髪が、ふわりと肩からこぼれ落ちる。
感覚などないはずなのに、その部分が熱を帯びているような気がして、アベルはそっと瞳を細めた。
そして、ふと脳裏によみがえる声がある。
――きみに惚れている、アベル。初めて、女性をこんなに愛しいと思った。
――きみと結婚したい。今すぐにとは言わない。ただ、おれの気持ちを受け入れてほしいんだ。
ヴィートの言葉と、リオネルの謎めいた行動が、自己嫌悪とあいまってアベルを深い混乱に陥らせるのだった。
+
ラロシュ邸の前庭では、クロードを呼び出し、ベルリオーズ家の騎士らにてきぱきと指示を与えるリオネルやディルクの姿があった。
緊迫した空気さえ流れるなか、ディルクとマチアスに「頼みがある」と声をかけたのはリオネルである。
「なんだ?」
この忙しいときにあらたまって何事だろうと不思議そうな顔の友に、リオネルは軽く頭を下げ、
「マチアスを貸してくれないか」
と頼んだ。
「へ? こいつをどうする気だ?」
己の従者をちらと見て、ディルクは片眉を上げる。
「おまえが思うほど役に立つ男じゃないぞ」
「アベルをここに置いていくことが心配だ。マチアスについていてもらいたい」
そんなことか、とディルクは肩透かしを食らったように笑う。
「なにか討伐の重要な役割を任せられるのかと思ったよ。ここに残していくことは、まったくかまわないよ」
親友の返答に感謝しつつ、リオネルはマチアスに向きなおった。
「マチアス、引き受けてくれるか」
「むろんです」
主人から離れることに対してためらうこともなく、マチアスは快諾した。
二人の返事に、リオネルはほっとした面持ちになる。
「感謝する。きみの主人の安全は、ベルリオーズ家が責任を持って確保する」
リオネルの気遣いに、マチアスは柔らかい表情で頭を下げた。
ディルクから離れることに微塵も不安がないといえば嘘になる。だがマチアスは、己の主人の強さも、彼の友人の強さも充分に理解している。自分がそばにいなくても問題ないと、マチアスは判断したのだ。
それにマチアスは囮の一件から、少なくとも今回は殺しても死なないような主人よりもむしろ、儚げなあの少年を守るべきだということを感じていた。
リオネルやディルクが気にかけているからというのもある。もしからしたら、彼が、主人の大切な相手なのかもしれないというのもある。また、アベルという人間そのものが、自分自身にとっても友人として大切な存在になりつつあるというのもある。
――引き受けたのは、様々な思いがあったからだ。
謝意を述べたリオネルが、慌ただしく出兵の準備に戻ると、ディルクは独り言のようにつぶやく。
「真剣な様子で聞いてくるから、なにかと思ったよ。あいかわらずアベルに関しては心配性だな」
傍らにいたマチアスが、主人の言葉を拾った。
「リオネル様は、ご家臣を大切になさる方ですから」
「……それは、暗におれがそうじゃないと言いたいのか?」
「そんなことはありませんよ。あのようにひたむきで真っ直ぐなアベル殿だからこそ、リオネル様が大切になさろうとするお気持ちが、私にもわかるということです」
「ああ、そうだな。それはおれもわかるよ。……おれたちがいないあいだ、アベルのことを頼む」
かしこまりましたと返答して、マチアスは主人に軽く頭を下げた。マチアスが引き受けたからには、命をかけてもアベルを守るだろう。