92
開けた扉の前にいたのは、想像したとおりの人物だった。
ベルトランの手には三つの銀杯がある。
このようなことは女中にやらせればよいことだったが、ベルトラン自身が運んできたのは、主人への気遣いからである。愛しい相手と、久しぶりに二人きりにさせてあげたかったのだ。
湯気のたちのぼる杯を、小さな円卓の上に置き、
「じゃあ、おれたちだけで、アベルが戻ってきた祝いの会でもするか」
そうベルトランが言うと、リオネルとアベルは顔を見合わせ、口元をほころばせた。髪に口づけされた恥ずかしさと驚きを、アベルはいったん胸の奥にしまっておく。
椅子に腰かけた三人は、杯を打ちあわせた。
「アベルが無事に戻ってきたことに」
口に入る直前にたちのぼるあたたかな蜂蜜の香りが、アベルの心を和ませる。
自分の居場所に戻ってこれたたのだという実感が、湧きあがった。
どうしても頭から離れずにいるのは、ヴィートからの告白、そして、リオネルのまっすぐな眼差しと数々の言動である。
疲れた心を――出口の見えない思いを、甘い蜂蜜が溶かしていく。
様々な思いがあるが、今は、この二人と温かい飲み物を口にしていることが、幸せだった。
これまでの時間があったから、こうして三人で過ごす、なんてことのない時間が幸せで、狂おしいほど大切で……。
そういう意味では、幸せだと感じる一瞬があるかぎり、すべての時間はそこに繋がっているのかもしれない。
「山では、なにを食べていたんだ?」
リオネルの質問に、アベルが答える。
「串刺しにした鹿肉、猪肉のスープ、兎の丸焼き……」
「肉ばっかりだな」
苦笑したのはベルトランだ。
「やつらはどんなところで生活しているんだ」
問われて、アベルは小屋のなかの様子を二人に説明した。
家具のない部屋とその広さ、埃っぽい空気と、小さな窓から差し込む光の様子、夜のわずかな手燭の明かりと、囲炉裏の匂い。
話を聞きながらリオネルは、その風景がかつて、アベルがさらわれたときに見た夢の景色とよく似ていることに気がつく。
再び心がざわめいて、リオネルは想いを寄せる少女を見た。
だが幸せそうに蜂蜜酒を口に運んでいるアベルを目にして、リオネルは浅く吐息する。
「山賊の生活か……ある意味、滅多にできない体験をしたものだな」
ベルトランのつぶやきに対して、リオネルはやや不機嫌に、「もう二度としなくていい」とつぶやいた。
「わたしがいないあいだ、こちらではなにかありましたか」
「それはもう、リオネルが荒れて荒れて手がつけられなかった」
「リオネル様が?」
意外そうに目を丸くするアベルに、ベルトランはいたずらっぽく笑う。
「なんとひどいことをアベルにさせたのだと言って、ウスターシュを殴りつけたり、だれに対しても頑なな態度をとったり、それはもう――」
「ベルトラン」
冷ややかな声でリオネルが赤毛の若者の言葉を遮る。
ベルトランは口をつぐんだが、これくらい言ってもかまわないだろうと内心では思っている。
二人のことを、ベルトランはどれほど心配したか。
ラロシュ邸に向かう途中から、ほとんど会話を交わさなくなった二人。
そして、さらわれたアベル。
心が壊れてしまいそうなリオネル。
……アベルが戻ってきて、ようやく二人が打ち解けたことに、ベルトランは心の底から安堵していた。
今回は長かった。
出会ったばかりのころ、長いこと心を通わせることができなかった二人だが、サン・オーヴァンの川で自ら命を絶とうとしていたアベルを救ってからは、ほほえましいほど仲がよかった。今回のように、二人のあいだに長らく溝が生じたのは久しぶりのことだ。
「アベル……?」
不意に、リオネルがアベルの名を呼ぶ。
その声に反応してベルトランが少女を見やると、彼女は蜂蜜酒の杯を手にしたまま、瞳を閉じ、斜めにうつらうつらしていた。
傾いた銀杯からは、酒がこぼれそうになっている。
「こんなところで寝てしまったのか」
呆れたようにつぶやいたベルトランだったが、その声には自らの従騎士に対する愛情がにじみでている。
「疲れていたのだろう」
リオネルは立ち上がり、アベルのそばまで来てその顔をのぞきこむ。
彼女はもう完全に眠っていた。繰り返される浅い呼吸が、アベルの肩を揺らしている。
細い指から銀杯をひきはなすと、その手は力なくひざの横に落ちた。
アベルの背中とひざの後ろに手を回して身体を持ち上げ、
「布団をよけてくれないか」
と、リオネルはベルトランに指示する。
ここはリオネルの寝室なのだが、ベルトランは黙って主人の寝台の掛け布団をはがした。この青年に何を言っても聞き入れられないことを、彼は知っていたからだ。
腕のなかの少女を起こさないよう、慎重にリオネルは華奢な身体を寝台に横たえる。
その身体は、以前よりもさらに軽くなったような気がした。
柔らかい寝台に降ろされた少女は、気持ち良さそうに小さく身じろぎして、「んん」と小さな声をもらす。
その無防備な姿に、リオネルの胸は締めつけられた。
この少女を守りたい。
さきほどヴィートと話したときの複雑な思いがよみがえり、青年のなかで激しい葛藤が生じる。
寝台のかたわらにひざをつき、アベルのひたいをそっとなでながら、肩まで布団をかけてやった。
「おやすみ、アベル」
ひたいに置いた手をそのまま髪へ滑らせると、さきほどのようにリオネルは、長い金糸の髪を一束手に取り、そこへ唇を落とす。
前回よりもはるかに長いあいだ、彼はそうしていた。
今こうしているあいだだけは、過去も未来も、立場もしがらみもない、大切な女性を愛する、ひとりの男でありたかった。
その姿を、ベルトランは優しさと複雑さがまざった表情で見守っている。
リオネルがアベルを想う気持ちは、中途半端なものではない。
だが、彼らが結ばれるまでに立ちはだかる障害も、並大抵のものではない。
若い二人の幸せと明るい未来を祈りつつ、ベルトランは自分たちが休む準備をはじめた。
堅い床に二ヶ所、毛布を敷く。
ひとつは、いつもどおりに。もうひとつは厚手の毛布を重ねる。今夜は、床に寝るのが自分以外にいまひとり、高貴な身分の青年がいるからだ。
斜め向かいの部屋では、ベルトランが寝支度をする音を、寝台のディルク、そして床に敷いた毛布に横になるマチアスが、無言で聞いていた。
書庫で、ベネデットを読みふけるレオン。
なかなか寝付くことができないヴィートは、ラザールの大いびきを聞きながら、夜の闇を見据えていた。
刻々と過ぎていく時間は、こうして様々なことがあった各々の一日を、それぞれの形で終わらせていった。
+++
――リオネル様こそが、我々が忠誠を誓い仕えるべき、正しいご主君――。
それが、カルノー伯爵の最後の言葉だった。
騎士館に連れて帰ったときにはかろうじて呼吸をしていたが、軍医が彼をひと目見たとき、その顔に浮かんだ色で、カルノー伯爵が助からないことは明白となった。
手の施しようがない。
そういうことだった。
それから伯爵が息を引き取るまで、長い時間は残されていなかった。
苦しそうな呼吸のあいまに、ようやくつむいだ言葉――それが、彼の遺言となった。
カルノー伯爵は、強い信念を持っていた。
現国王に、シャルムの王たる資格はない。
正統な王位継承者たるクレティアンはかつて王権を放棄したが、リオネルはまだどのような意思も示してはいない。
つまり、リオネルこそが次期国王になるべきだと。
夕方になって、カルノー伯爵の長男ティエリーが、シュザンからの知らせを受けて騎士館に到着した。王都近郊にあるカルノー家の別邸から駆けつけた彼が見たのは、無残な父親の遺体である。
首から胸にかけて斬られた傷は深く、死してしばらくしてからも完全に血は止まらなかった。部屋は死の匂いに満ちていた。
まだ二十代半ばと思われるカルノー家の若者は、赤く染まった寝台のかたわらに両ひざをついた。
がっしりとして筋肉質な父親には似ていない、細身のその肩は小刻みに震えている。
家族に対してはなんの言葉も遺さずにカルノー伯爵は死んだ。そのことが、シュザンの気持ちを重くしたが、ティエリーは自分たちへの言葉がなかったことを哀しまなかった。
「父らしいことです。正統な王家による統治が復活することだけを考えて生きていた人ですから。父らしい最期だったと思います」
なにかを押し殺すように低く、そして、途切れ途切れの言葉だった。
父親の遺体を前に、ティエリーは涙を流した。
それは、哀しみの涙ではない。悔しさと、怒りの涙である。
震える全身は、この不条理に対する憤りの現れだった。
「なぜでしょう、シュザン様」
彼は、父親の血で濡れた寝台のうえに置いた両手を、かたく握りながらつぶやいた。
「なぜ我々は、このような目に遭わねばならぬでしょうか。国王派の諸侯らのように、黙って現王家に従っていればよかったのでしょうか。すべての不正と悪に目をつむり、己が身の安全と私腹を肥やすことだけを考える……シャルム貴族として、それが正しい道なのでしょうか」
若者の質問のひとつひとつはシュザンの胸に重くのしかかる。
王弟派の者たちにこんな思いをさせないために、自分はこの立場でできうるかぎり手を尽くしてきたつもりだった。だが結局、救うことができなかった。
「ですが、こんな結果になっても、私は父が間違っていたとは思えないのです。父は正しかった。このままでは、この国は永久に汚れた歴史に支配されていきます。ジェルヴェーズ殿下の暴虐……あの人が王位を継承すれば、この国は血と醜行にまみれた破滅への道を辿ります」
若者のつぶやきに、シュザンはなにも答えることができなかった。
理由は二つある。
ひとつには、たとえ自分も同様に考えていたとしても、国家の正騎士隊を預かる立場にいる者として、軽々しく意見を述べることができないからだ。
いまひとつは、ジェルヴェーズ王子の性格がいかに破綻していたとしても、政治的手腕とはまた別の問題であるため、権力の座に就いてみないと、本当に彼の統治によりこの国が「血と醜行にまみれた破壊への道」を辿るとは言い切れぬ、というところであった。
「助けられなくて、すまなかった」
余計な言葉は一切排して、短くシュザンが謝罪のみを伝えると、ティエリーは恐縮したように深く頭を下げた。
「いいえ、父を助けようとしてくださったこと、心から感謝いたします。けれども、父を救おうとなさったことで、今度は貴方様が窮地に立たされることにはなりませんか」
「私は、ジェルヴェーズ殿下からすでにご不興を買っている。今更、それが増したところで、大きな違いはないだろう」
ティエリーは浮かない顔で、シュザンを見上げる。
「父も、同じようなことを申しておりました」
「…………」
「ジェルヴェーズ殿下は、無慈悲で残忍な方です。私は、あの方の蛮行にもう耐えられません。私だけではありません。殿下に意見した友人は爵位と領土、すべての財産を奪われました。殿下の機嫌を損ねて怪我を負わされた知人もおります。そして、ついに父まで……。これでは他国に征服され、占領下にいるのと変わりません。だれもがもう限界です」
シュザンは、藍色の瞳を伏せる。
自分の力で助けることのできなかった者が少なからずいることを、彼は知っていた。
ティエリーの言うことは的を射ている。むしろ他国の占領下にいるよりも、ひどい状態である。
他国相手なら剣を握り立ち向かうことができる。侵略者を追い出し、自由を得ることができる。だが、自国の王家が相手となると、それもかなわない。
どれだけ剣技を磨き強くなっても、弱い立場の者、大切な者を、守りきることができないのだ。
ならば、現王家を王座から追い払い、リオネルを即位させればよいのか。
それが容易に叶うのであれば、これほどこの国にとって喜ばしいことはない。
だが、現実は違う。
国王派と王弟派の争いは、国中を巻きこんだ内紛へと発展するだろう。そして、そこにつけ入るであろう周辺諸国……また、勢力を拡大しているエストラダの脅威もある。
もう限界だと言うティエリーの言葉が、シュザンの心に暗い色のインクを垂らす。
この真っ直ぐな若者が、なにかとんでもないことを計画するのではないか、シュザンは懸念した。
「ティエリー殿、大切なものを守るためには、様々な方法がある。黙っているだけでもなく、剣を握り戦うでもない方法もあるはず。貴方にとって大切なものがなにか、それはどのような方法で守ることができるのか、慎重に見定めてみてほしい」
心を見透かされたような気がして、ティエリーは苦しげな眼差しでシュザンを振り向く。
「……貴方様のように、心身ともに強くあれれば、真に大切なものを守ることができるのでしょうか」
「…………」
少し驚いたような顔になったシュザンだが、
「私は守りたいものが多すぎて、ここから身動きができないだけだ」
と、寂しげな笑みを浮かべてティエリーに言った。
守ってきた多くのもの。そして、守り切れなかった多くのもの。
完璧な道など、この世には存在しない。
なにかを守ろうとすれば、なにかを失う。
いかにして、失うものを少なくするかが課題となる。
深く考えこむような顔で、ティエリーはうつむいた。その肩に手を置き、シュザンはわずかに力を入れる。
言葉にすればそれは空気中に溶けて終わったかもしれない。だが、シュザンの力強い掌から直接伝わってくる思いに、ティエリーは張りつめていた心を少し和らげる。
若者の肩から力が抜けていくのを感じて、シュザンは心のなかで静かに息を吐いた。
ティエリーは最後にぽつりとこぼす。
「シュザン様、私はこれ以上、ジェルヴェーズ殿下に尊敬する人を殺されたくありません。どうか御身を大事になさってください」
伯爵の遺体を引き取り、ティエリーが騎士館を辞したあとには、赤く濡れた寝台だけが残った。
「大変なことになりましたな」
それを前にして低くつぶやいたのは、鍛錬場から戻った副隊長のシメオンだった。
さきほどまでは涼やかな陽光が照っていたというのに、いつのまにかに日は陰り、窓を叩く風の音は次第に強くなってきている。
「嵐が来ますかな」
シメオンの言葉に、シュザンはなにも答えず目を細めただけだった。
+
騎士館と広大な庭園を隔てた王宮では、この国を統べる立場にありながら二児の父でもあるひとりの男が、臣下からとある報告を受けて重苦しく言葉を吐きだした。
「そうか、ジェルヴェーズがカルノー伯爵を手にかけたか」
最近のカルノー伯爵の行動、そして長男の気性を考えれば、このような事態になることは予測できないことではなかった。いや、実際にそうなることを懸念してジェルヴェーズには王自ら幾度か念を押していたのだ。
カルノー伯爵は熱烈な王弟派であるが、度重なるローブルグ国境での戦において称えるべき功績を残す勇敢な軍人でもあり、人望のある男である。少なくとも正式な手続きを踏んで、嘆願しにきているのであるから、けっして手を出してはならぬ、と。
それをジェルヴェーズは守らなかった。
カルノー伯爵を前にして、かっとなり自分の言いつけなど念頭から抜け落ちてしまったのか、それとも、端から守るつもりなどなかったのか。おそらく前者であろうと思ったのは、そうであってほしいと願う彼の親心だったかもしれない。
だがどちらにせよ、結果は歓迎すべきものではなかった。
「あれも困ったものだ」
そう言うエルネストは、王の座に就いてから備えた独特の落ち着きで、周囲に感情を読ませない。
「シュザンが、まだ息のあるカルノー伯をその場から連れ去り、医者に診せたのはせめてもの幸運であった。さもなくば、貴族らの混乱と王弟派の反発は避けようがなかった」
さきほどから己自身に話しかけるような王に、報告に来た男は跪き頭を垂れたまま無言でいた。
「今はどうしている」
「殿下でございますか」
問われた騎士は、一瞬カルノー伯爵の遺体についてか、それともジェルヴェーズ王子のことかわからず聞き返した。
それに対して王はやや苛立たしげに答える。
「ジェルヴェーズのことだ」
死んだ伯爵の遺体については、シュザンがしかるべき処置をしていることは聞かずともわかる。
「は、かなり機嫌の芳しくないご様子で、さきほどから王宮中が騒然としております」
エルネストはこの日何度目かの溜息をつく。
息子の不機嫌の原因はわかっている――シュザンだ。
宮廷の混乱を未然に防ごうとしたシュザンの行動、つまりカルノー伯爵を救おうとしたことが彼を苛立たせているのだろう。
もともと、父である自分が政敵であるはずのシュザンを重用していることを、おもしろく思っていないこともエルネストは知っていた。
「怒りに任せてネルヴァル製の椅子か、それともオーリクの硝子細工でも壊してまわっているのか」
ネルヴァルはラ・セルネ山脈を挟んだ隣国であり、オーリクというのはシャルムの南東の地方で、こちらは硝子職人の多く集まる場所である。
王に仕える騎士は、やや言いづらそうに頭を低くして報告した。
「私の知るかぎりにおきましては、殿下は、小間使い及び女官をそれぞれ一名ずつ、御手にかけられました」
返事はなかった。
無言になったエルネスト王は家臣に背中を向けて部屋の隅に視線をやったが、感情を読ませぬその背にも、息子に対する呆れと愛情とが混在しているようだった。