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ヴィートが幾度目かの回廊を曲がったとき、居間まで行く必要はなくなった。
そこで、目的の相手と鉢合わせになったからである。
優美であるとさえ形容できるほど端麗な容姿の青年が、ヴィートの姿に気がつき視線を上げた。
同じ娘に惚れている二人の若者のあいだには、友好的ではない空気が流れる。
むろん、憎んでいるとか、敵視しているというほどのものではない。ただ二人はまだ若く、また彼らのアベルに対する気持ちが真剣なだけに、互いに気を許せないでいるのだ。
リオネルの後ろには、影武者のようにベルトランがいる。
その二人の脇を、ヴィートは無言ですり抜けた。
このまま二人は寝室へ向かうだろうから、あえてアベルがそこで待っていることを告げる必要もなかったからだ。
だが、ちょうどヴィートがリオネルの横を過ぎたその瞬間、質問が投げかけられた。
「アベルは?」
共にブリアン子爵を訪ねていたはずなのに、ヴィートのそばにアベルがいないことを、リオネルは気にしたのだ。
けれどヴィートは、質問の答えにはならぬことを返した。
「……あんたは幸せ者だな」
リオネルは無言でヴィートを見やる。
だが、ヴィートは夜の色に染められた絨毯に、視線を落としたままだった。そして言い放った。
「おれはアベルに惚れている」
それは、初めて会った瞬間からリオネルにはわかっていたことである。だがヴィートの口から直接聞くことには、また別の意味があった。
なにも答えぬリオネルに、ヴィートはひとり話し続ける。
「もしおれがあんたを殺したら、アベルはおれを殺して、自らも死ぬそうだ」
はっきりとはわからぬほどの微細な変化が、リオネルの表情に生じた。
ヴィートは顔を上げ、見るともなく見つめていた絨毯から、貴族の青年へと視線を移す。
「思い上がるなよ。アベルはあんたに惚れていない。彼女があんたに抱いているのは、ただの忠誠心だ。――あんたがだれと結ばれてもかまわないと、あの子は、はっきりと言っていた」
窓の外で、なにかの鳥が高い声で鳴いている。このような時分に鳴いているのは、なんの鳥だろう。その声は強かであり、そして哀しげでもあった。
馬鹿にするでも嘲るでもなく、かといって同情するふうでもなく、ヴィートはただ目を眇め、「残念だったな、坊ちゃん」と無感動に言った。
「言いたいことはそれだけか」
対するリオネルも、落ちつき払い、冷然とした態度である。
「彼女がおれに恋心を抱いていないことは、おまえに言われずとも知っている」
「そうか」
わずかに顔をリオネルに近づけ、ヴィートは挑発するように言う。
「ならば、おれがあの子をあんたから奪っても、文句はないな?」
穏やかだったリオネルの瞳に、静かな炎が宿る。
「アベルは渡さない。彼女を強引に奪おうとすれば、こちらも相応の対応をさせてもらおう」
リオネルの声音には、背筋が寒くなるようなすごみがあったが、ヴィートはそれをやりすごして視線を鋭くした。
「あんたのそのやり方は、どんな想いからくるものだ? アベルを従騎士やら用心棒やらにして危険な目に遭わせて、どうして平然としていられるんだ。このままで、あの子を幸せにできると思っているのか」
二人は静かに、だが激しい感情の宿った瞳を、相手にぶつけあった。
「おまえに、アベルにとっての幸せがどんなものか、わかるのか」
問われたヴィートは、突如リオネルの襟首を掴みあげる。そして、ささやき捨てるように言った。
「あんたのそばにいるかぎり、あの子は自分の幸せなんてそっちのけだ。己の命さえ厭わず、あんたの役に立とうとする。あんたはそのことをわかっているんだろう? それなのに、アベルは渡さないだと? アベルの幸せがわかるかだと? あの子の心も身体も傷つけているのは、他でもないあんたじゃないか。――おれは、それが気に入らない」
抵抗しないリオネルの代わりに、ヴィートの手を掴みあげたのは、ベルトランである。
怒りを含んだ声で、「いいかげんにしろ」と警告する。
ヴィートが、ほぼ自分の背丈と同じくらいの相手を睨んだとき、
「あれ? リオネルとベルトラン、それにヴィート。どうしたんだ、喧嘩?」
緊張感のない声が、静かな回廊に流れた。
三人は、はっとして声のほうへ顔を向ける。
そんな調子で話しかけてくるのは、リオネルの幼馴染みであるディルク以外にない。むろんマチアスもいっしょである。
ディルクとマチアスが目にしたのは、リオネルの襟首を手荒に掴むヴィート、そしてその腕を、ベルトランが捻り上げようとしている瞬間だった。
「ヴィートだめだよ、リオネルに乱暴なことをしたら。ベルトランやアベルに殺されるよ」
そのひと言に、ヴィートは苛立つ気持ちまで振り払うように、ベルトランの手を振りほどき、なにも答えず、また、だれの顔も見ずにディルクの脇をすり抜けていく。
足早に去っていく若者の後ろ姿を見送ってから、ディルクは友人である二人へ視線を戻した。
「なにがあったんだ?」
二人は答えない。アベルをめぐって言い争っていたとは、告げることができなかった。
「ヴィートは悪いやつではなさそうだけど……あんなことを言われたら、殴ってやれよ」
回答を得られずとも、ヴィートの最後の台詞はディルクとマチアスの耳に届いていたようだ。なにしろディルクは地獄耳である。
「彼もよほどアベルのことが大切なんだろうね。情に厚い山賊っていうのも、なかなかおもしろいけど……だけど、あんなことを言わせておいていいのか? おまえのそばにいるかぎりアベルが幸せになれないとか、おまえがアベルのことを傷つけているとか。うるさいって、思いきり怒鳴り返してやれよ」
口にする内容は激しいが、ディルクの声にはリオネルを気遣う思いがにじんでいる。
そんな親友の言葉に、リオネルは瞼を伏せた。
「彼の言ったことは、真実だ」
そのつぶやきは淡々としていたが、寂しげな響きを含んでいた。
「そんなこと言うなよ。そんなんじゃないだろう?」
いつもは軽い調子のディルクだが、今は一切の軽薄さをまとっていない。
「おまえのいるところ以外に、アベルの幸せはない。たとえ傷ついたとしても、おまえの役に立てることがあの子の幸せだ。そうだろう? 違うのか?」
「…………正直、わからない」
「わからないって、おまえ」
親友がなぜそんなふうに言うのか理解できず、ディルクは納得できないというふうに眉を寄せる。アベルが求めていることがなんなのか、二人の近くにいるディルクには手に取るようにわかるからだ。
視線を伏せたまま、だが、はっきりとリオネルは言った。
「たとえディルクの言うとおりだったとしても、それが、本当に正しいことなのかどうか――それでいいのか、わらなくなるんだ」
「正しいかどうかなんて、だれにもわからないよ。人にとって幸せの判断基準は、正しいかどうかじゃないだろう? 幸せだったかどうか、それでよかったのかどうかは、人生の最後にアベルが振り返って決めることだ」
「そうだね」
リオネルは小さくうなずく。納得したようではあったが、まだなにか吹っ切れないものはあるようだった。
「ぼんやりしていると、そのうち、あいつにアベルを盗られてしまうぞ」
再びうなずいたリオネルの脳裏には、ヴィートの声が蘇っていた。
――このままで、あの子を幸せにできると思っているのか。
彼はそう言った。
むろん、叶うことなら、アベルに想いを伝え、他のだれでもない自分の手で彼女を幸せにしたい。
だが、自分たちのあいだには、身分だけではない多くの障害がある。
男として生きようとするアベル。
公爵家の跡取りであるうえに、命を狙われるリオネル。
自分が傷つくことはかまわない。だが、アベルを傷つけることは耐えがたい。
この先、自分は彼女を幸せにすることができるのだろうか。
「リオネル?」
物思いに耽ってしまったように見えた親友に、ディルクは心配そうに声をかけた。
「いろいろ言いすぎたかもしれない、悪い。なんとなくおまえとアベルのことが心配で、黙っていられなくて」
「いや、ありがとう」
気にかけてくれたことへの謝意を述べてから、話題を変えるようにリオネルは尋ねた。
「レオンは?」
「あいつは本に夢中になって、書庫にこもったままだよ。今夜は徹夜じゃないかな」
親友の心情をくみとったディルクは、アベルやヴィートのことを、これ以上口にすることはなかった。
「熱心だね」
「あいつの趣味は崇高すぎて、まったく理解できない」
小難しい哲学書を好んで読む友人を思い浮かべ、ディルクは顔を引きつらせる。
「ベネデットの書物なんて読んでいたら、徹夜どころか、すぐに寝てしまいそうだよ」
「あれは古語で書かれているうえに、彼の観念論は複雑だからね」
「おまえ読んだことあるのか」
「何冊かは」
一冊も読み切れなかったディルクは、へえと感心したようにリオネルを見る。専らディルクが読み切れなかったのは、難しかったからというよりも、興味が湧かなかったというところが大きかったが。
そんな話をしつつリオネル、ディルク、そしてベルトランとマチアスが寝室に向かっていると、最後の回廊を曲がってすぐに、四人はリオネルの寝室の前でたたずむ細身の人影を目にする。
「アベル――」
ほの暗い燭台の炎に映し出されていたのは、透けるような白い肌の少女だった。
少し距離があったが、アベルは主人らの姿をみとめて一礼した。
「アベル、なぜそんなところに」
足早に歩み寄るリオネルを見上げて、アベルは答える。
「本日はもう休ませていただこうと思いまして、ご挨拶に」
「だれかに言付けしてくれれば、いつでも休んでかまわないのに」
「いいえ、そういうわけには――」
言いかけたとき、リオネルの深い紫色の瞳が、じっと瞳を覗きこんできたので、アベルは言葉を止めた。
なんだろうと思っていると、思いがけないことを彼はつぶやくように尋ねた。
「――泣いたのか」
「えっ」
短く問われて、アベルは己の瞼に手をやる。
たしかに泣いた。だが、それはしばらく前のことだ。人が見てわかるほどの痕跡があるとは、思っていなかった。
泣いたことをリオネルに知られ、アベルはまごつく。
「いえ……あの、泣いていたというか……」
「今回はおれじゃないぞ。マチアス、おまえもおれがアベルと接触していないことは、知っているだろう。声高らかに証明してくれ」
かつて騎士館の武器庫からアベルを連れ出したあとや、ベルリオーズ邸での試合の際など、幾度もアベルを泣かせているように思われているので、ディルクは慌てて言い訳した。
「そんなことは、リオネル様もご存じだと思いますよ」
だが彼の従者は、いたって落ち着いている。
「そうか、そうだよな。――アベル、どうしたんだい?」
ディルクにも顔を覗きこまれて、アベルは顔をうつむける。
「な、なんでもありません」
恥ずかしさに、アベルは頬を染める。
「とりあえず部屋に入らないか。このまま立っているのは、足の怪我によくない」
「いえ、ご挨拶をと思っただけなので」
早々に辞そうとするアベルに、リオネルは寂しさを覚えて瞳を細めた。
ようやくアベルと再会できたのである。
アベルがいない三日間は、身が引きちぎられるような日々だった。あのまま彼女の無事が確認できなかったなら、あとどれくらい正気でいられただろう。
無事に戻ってきたことが言葉にならないほど嬉しく、できるなら、片時もそばから離れたくないのに、今日一日は慌ただしくて、二人でゆっくり話す時間はほとんどなかった。
せっかく今まで待っていてくれたのなら、あとほんのわずかなあいだだけでも共にいたい。彼女の存在を、もっと感じていたい。
「渡したいものがあるんだ。もう少し、おれといっしょにいてくれないか」
切なげな瞳を向けられたアベルは、澄んだ水色の瞳でリオネルを見上げる。
アベルとて、リオネルのそばにいたい気持ちは少なからずあった。
囚われていたあいだ、危険な目に遭ったときも死を覚悟したときも、幾度も思い浮かべたのはこの青年のことだった。
他のだれでもなく、瞼に鮮明に現れたのは、リオネルの姿。
温かく、力強い腕。
紫水晶のような、美しくも優しい瞳。
死にも近い絶望の深い谷間から、アベルを救いだしてくれた、ただひとりの人。
もう二度と会えないかもしれぬという恐怖に、度々苛まれた。
一刻も早く、彼のもとに戻りたかった。
子であり、姉であり、親である以前に、アベルはひとりの人間なのだ。ひとりの人間であるという事実を捨てては、人は生きていくことなどできないだろう。
まだほんの十五歳の、孤独な少女にとって唯一無二の絶対的な存在――それがリオネルだった。
今、自分が彼のそばにいることが、なによりも嬉しい。
そんなアベルが、なるべく早くここを立ち去ろうとしたのは、ヴィートから告白されたことに対する混乱があったことと、泣き顔のままリオネルと話すことが気恥ずかしかったからである。
それでも、リオネルの申し出にアベルは小さくうなずいた。
主人の言葉だからではない。
自分がそうしたかったからだ。
そして、彼の瞳。
こんな瞳を向けられて、断れるわけがない。
……ときにアベルの目にリオネルは、常の大人びた様子とは違って見えるときがある。
雑踏のなかで保護者を見失った子供のような、不安そうな瞳。
このように考えるのがおこがましいということを承知でいえば、そんなときのリオネルは、逆に自分に救いを求めているようにさえ見えた。
アベルがうなずくのを確認すると、リオネルはほっとしたように表情を和らげる。
「それじゃあ、おれはもう寝るよ」
親友の表情を目にしてディルクは小さく笑んだ。
「アベルは疲れているだろうから、引きとめるのもほどほどにしておけよ」
冗談めかしてリオネルに向けて言ったあとで、今度はアベルへ真剣に向きなおる。
「アベル、あらためて言わせてほしいんだけど」
少し緊張しながら、アベルはディルクの言葉の続きを待った。
「本当によく無事に戻ってきてくれたね。助けに行けなかったことを、どうか赦してほしい」
「赦すなんて――」
「アベルはおれたちにとって、なくてはならない存在だよ」
元婚約者の青年からそんなことを言われれば、否が応でもアベルの心はじんと温かくなる。
「――それと、リオネルをよろしく頼む」
一瞬どういう意味かわからなかったが、アベルはすぐに納得する。リオネルを狙った刺客はまだ捕まっていない。彼を守ってほしいという意味であろう。
「じゃあ、おやすみ」
笑顔で挨拶するディルクに、アベルは深々と、ベルトランは軽く一礼し、リオネルは短く「おやすみ」と返した。
マチアスもリオネルらに深く頭を下げると、二人は斜め向かいの寝室へ入っていく。
昼間、命を狙われた親友のことがディルクは心配ではあったが、ベルトランとアベルの両名がいるなら心配いらないだろうと判断してのことだった。
「貴方も、加わらなくてよろしいのですか」
寝室の扉を閉めると、マチアスが唐突にディルクに問いかけた。
「加わるって、なにに?」
「アベル殿の争奪戦です」
意外なことを言い出した従者の顔をつかのま眺めてから、その表現のおかしさにディルクは苦笑する。
「なんだ争奪戦って……まあ、そう言えなくもないけど……争奪するとか、なんとかっていう以前に、アベルはリオネルの臣下以外のなにものでもないよ。アベルほど主人に忠義をつくしている者はなかなかいない。奪えるわけがないし、奪う理由もない」
「…………」
「リオネルにはああ言ったけど、あの子がリオネルよりヴィートを選ぶなんて、起こり得ないことだよ。もちろん、おれのこともね」
問いかけてきたわりにはなにも答えぬ従者に、ディルクは訝しげな視線を向けた。
「なんでそんなことを聞くんだ? 本当に、おれがおまえよりアベルを従者にしたがっているとでも思ったのか?」
「いえ、そういうわけではありませんが……」
主人の着替えの手伝いなどをしなくてよいマチアスは、洗面用の盥に水を汲みはじめる。
通常、ディルクほどの身分の者であれば、着替えなどは数人の侍従に手伝わせるのだが、彼は自分の身の周りのことはほとんど自分でやってしまうため、マチアスの出る幕は少ないのだ。それは、従騎士仲間のリオネルやレオンについても同じことが言える。
ひとりで夜着に着替えながらディルクは言った。
「こう見えてもおれは……おれには、おまえが必要だと思っている。それにアベルは、リオネルあってのアベルだと思うからね。すべて――すべてが、このままでいいんだよ」
水差しを傾ける手を止めて、マチアスはそれを卓の上に置いた。
「大変光栄です。貴方の口からそのような言葉を聞くとは、考えもしませんでした」
「二度と言わないぞ」
「では、今のお言葉を胸に留め置きます」
無言でマチアスを一瞥したディルクに、水を注ぎ入れた洗面用の盥が差し出される。
「どうぞ」
なにも言わずにディルクはそれを受けとった。
幼いころからずっとそばにいたマチアスから、あらためてそのように言われると、逆にどう反応していいのかわからなかったからだった。