89
その数刻後、燭台の炎が揺れる回廊を、ゆっくりと歩む男女の姿があった。
炎が映し出す、繊細な装飾のほどこされた支柱や窓枠に、二人の影がかぶさり通りすぎる。ひとりは片足を引きずるようにしか歩めないようだ。
「いろいろなことがあった一日だったな」
ひとりごとのようにつぶやいたのは、この日、山賊業から足を洗ったヴィートである。
「疲れましたか?」
長身の若者を見上げて、気遣うように尋ねたのはアベルだ。
最上階の壮麗な回廊を歩む二人は、ブリアン子爵の寝室を訪れた帰り道である。
二人を案内したラロシュ侯爵はブリアン子爵の部屋に残ったので、こうして帰りはアベルとヴィートだけになった。
怪我を負ったブリアン子爵は、すでに寝台から起きあがれるくらいにまで回復していた。ヴィートが自ら言っていたとおり、手加減したため傷は浅かったのだろう。
自分を斬った山賊を見てブリアン子爵は眉をひそめたが、アベルの無事の帰還をなによりも喜び、彼女を連れて戻ったヴィートに対しても罪を咎め立てるようなことはしなかった。
『あのとき、きみがアベルを連れていきさえしなければ、こんなことにはならなかった。――だが、あのような状況をつくったのは我々であるし、他の賊から彼の身を守り、ここまで連れてきてくれたことは無視できない事実だ。きみに感謝はしない。だが、罰することもしない。我々やリオネル殿に迷惑をかけないかぎり、共に滞在してもかまわない』
ブリアン子爵は、ヴィートにそう言い渡した。
あいかわらず不遜な態度のヴィートに代わって、アベルは深々と頭を下げた。
『あなたもですよ、ヴィート』
八歳も年下の少女にうながされ、ヴィートも渋々頭を下げた――軽く。
こうして、無事に子爵からも滞在の許可を得て、アベルはほっとした気持ちで彼の部屋を辞したのだった。
「そうだな、子供たちと遊んだのが一番疲れたかな」
疲れたかどうかというアベルの問いに、ヴィートは腕を組んで答える。
正直なヴィートの感想に、アベルは昼間の様子を思い出して笑った。
昼の食事が終わってから夕食の時間になるまで、ヴィートはアベルと共にラロシュ侯爵の子供たちの相手をしていたのだ。常にアベルのそばにいるヴィートは、彼女にまとわりついてくる子供たちと、必然的にいっしょに遊ばざるをえなくなる。
幼い姉弟は、骨惜しみせず遊んでくれるヴィートにすっかりなついてしまった。
「あれは疲れたけど、でも、今日一日のなかで一番楽しかった」
そんなふうに言えるヴィートを、本当に心根の優しい人なのだと、アベルは思う。
自分が大人であるということをわきまえつつ、子供らと共に無邪気に遊べる彼は、きっと心が綺麗なのだ。
温かい眼差しをアベルから向けられて、ヴィートは、ややどぎまぎしてその淡い水色の瞳を見返した。
「……なんだ?」
「きっと、マドレーヌ様もセザール様もとても楽しかったでしょうね。あなたは、山賊より、ああして子供たちと遊んでいるほうが似合っているような気がします」
「そうかい」
照れたように、だが嬉しそうにヴィートはうつむき笑った。
そして、不意に足を止める。
もともとアベルはかなりゆっくり歩いていたので、ヴィートにあわせて自らもすぐに歩みを止めることができた。どうかしたのだろうかと、傍らの長身の若者を見上げると、彼の真剣な瞳がアベルに向けられていた。
「アベル、今度こそ、本気で聞いてほしいんだが」
若者を見上げたまま、わずかにアベルは小首をかしげる。自分が、彼の話を本気で聞いていないことがあっただろうか。
いつだって、自分は真面目に話しているつもりだった。
心外ではあったが、今そのことに言及しても話がすすまないので、少なからぬ不満を抱きながらも、「わかりました」と答える。
「その……おれは、子供が好きだ」
告白するようにヴィートは言ったが、そんなことは、彼が幼い姉弟と遊んでいるときからとうに気がついていた。
アベルがゆっくりうなずくと、
「おれは、自分の子供と、ああやって遊びたいと思う」
顔を赤らめてヴィートは言葉をつむいだ。
なんだか話の方向性がよくわからなかったが、その発言がほほえましかったので、アベルは口元を緩ませる。
「とてもいいお父さんになりそうですね」
「いい父親になるように、そして、いい夫になるように努力する」
相手の強張った声音をどこか不審に思いつつも、アベルはヴィートの宣言に「そうですか」とごく普通に返した。
しかし、ヴィートの次のひと言を聞いてからは、さすがのアベルも通常の心持ちではいられなくなった。
「だから、おれの妻になってくれないか」
思考も、身体の動きも、すべてを停止させて、アベルは立ちすくんだ。
だれが、だれの妻になるというのか――?
目の前の若者が尋ねている内容が、そしてこの状況が、理解できない。
「ええっと、どなたに言っているのですか?」
「――――」
豆鉄砲を食らった鳩のような反応のアベルに、ヴィートは一瞬、気が遠くなる。
だが、ここで引き下がるわけにはいかない。
言うと決めたのだから。
「おれはきみに惚れている、アベル。初めて女性を愛しいと思った。これは、嘘でも冗談でもない」
アベルはもはや、まばたきひとつできなかった。
ただ大きく目を見開き、そして心臓が早鐘を打つ音を聞いていた。
「きみと結婚したい。もちろん、きみはまだ十五歳だ。今すぐにとは言わない。ただ、おれの気持ちを受け入れてほしいんだ」
身じろぎひとつできないアベルの肩に触れると、そのままヴィートは自分の腕のなかに抱き寄せた。
強い力だった。
――結婚。
それは、どれほど昔に描いていた夢だろう。
ディルク・アベラールの妻になる。
甘く、幸せな夢だった。
……叶わぬ夢だった。
結婚など、女の幸せなど――とうの昔に捨てた。
二年前の嵐。
デュノア邸を追いだされて切った、長い髪。
身体の傷は癒え、髪は再び伸びたが、心の傷が癒えることはない――あの夢が再び蘇ることは、ない。
「ごめんなさい……」
指先が震えた。
なにがこれほどまでに哀しいのか、わからない。
ただ、細い喉からかすれた声が流れた。
「……ごめんなさい――」
抱きしめられ、細められた瞳から涙がこぼれる。
ヴィートが自分に惚れているなど、想像もしていなかったことだ。
――子供をかわいがる、よき夫との結婚。
そんなふうに、無邪気に小さな幸せを掴めていたら、どれだけよかっただろう。
華奢な身体が震える。
「アベル――」
彼女の言葉の意味を理解したヴィートが、苦しげにアベルの名を呼んだ。
「なぜだ……おれでは、だめなのか」
ヴィートのことが良いとか悪いとか、そういう問題ではなかった。
彼を、恋愛対象としては見られない。いや、彼だけではない。男性に対して恋愛感情を抱くことなど、もう自分にはありえぬこと。
「……わたしは、女としての生き方を捨てました」
水色の瞳から、静かに涙があふれて頬を伝い、ヴィートの着る服を濡らしていく。
「わたしの一生は、リオネル様を守ることだけに捧げると誓ったのです」
とうの昔に捨てた夢を、再び思い出す日がくるとは思っていなかった。
愛する人の妻になること。
だがそれは、いくら目をつむっても、もう見ることができぬ夢。
自分には、二度と赦されぬ夢である。
それを思い出すことが、これほど辛いとは。それを再び断ち切らねばならぬことが、これほど苦しいとは……。
幸せな夢も、未来への希望も、生きる理由も失った、そんな二年前の自分を救ってくれた青年。彼のために生きることが、今のアベルが生きる意味のすべてだった。
それが自分の幸せ。
「そんなこと――」
「あなたの気持ちは、わたしにはもったいないくらいです。ですが……それに応えることはできません。赦してください」
腕のなかで震える少女を強く抱きしめたまま、ヴィートは低い声でつぶやいた。
「じゃあ、坊ちゃんを殺せば、女としての生き方を取り戻して、おれを受け入れてくれる余地が生まれるのか」
剣呑さをにじませたヴィートの言葉に、アベルが声を強張らせる。
「リオネル様を害すようなことがあれば、あなたを殺し、そしてわたしも死にます」
「……あいつに惚れているのか」
思いがけないヴィートの問いに、アベルは水色の瞳を見開く。
なぜそのようなことを問われるのか、わからない。
「そんなわけがありません。今言ったとおり、女性としての気持ちを捨てたわたしは、男性に想いを寄せることはもうありません。今のわたしが望むこと――それは、リオネル様をお守りし、あの方が幸せになることだけなのです」
「あいつが、だれかと結婚してもかまわないのか」
そう尋ねるのは、押し殺したような声だった。
ヴィートは、どうしてもアベルの真意を知りたい。
本当に、この少女は異性を愛することはないのか、あれほど敬愛するリオネルに対して、異性としての感情を抱いていないのか。
もし、わずかにでもリオネルのことを想っているのなら、むしろそのほうが、自分へも想いを寄せる可能性がある。だが、だれも愛さないというのであれば、彼女の心を得るのはよほど困難なことだ。
「リオネル様が、互いに愛していらっしゃる方と結ばれるのであれば、私にとっても、それ以上の幸せはありません」
きっぱりと答えるアベルに、ヴィートはわずかに腕の力をゆるめた。
「……どれだけ待っても、きみの気持ちはかわらないのか。このまま一生、男としての人生を歩むのか」
「――ええ、そうです」
「…………」
無言になってヴィートはアベルを抱きしめていたが、アベルもそこから自由になろうとはしなかった。
今この瞬間だけは、ヴィートの想いを受けとめていたかったからだ。アベルは、ひとりの人間としてヴィートのことを慕っている。それは疑いようのない事実だった。
二人のあいだには、重たい沈黙が横たわる。
だが、再びヴィートが口を開いたとき、彼が口にしたのは突拍子もないことだった。
「スーラ山の拠点には、三百人以上の仲間がいる」
ささやくような小さな声だった。
なぜ今その話が出てくるのか、アベルはすぐには理解ができない。
「――え?」
「だが、拠点はスーラ山以外に、ラナール山とカザドシュ山にもある。カザドシュ山が本拠地だ。すべて合わせるとどれほどになるかおれにもわからないが、明日スーラ山を襲撃するなら、ラナール山から数百人単位の仲間が駆けつけるだろう」
ラナール山は、スーラ山のすぐ背後に連なる山である。住み慣れた山賊らにとって両者間の行き来はさほど困難ではない。
「それに、山賊はおれたちだけじゃない。おれたちの頭領が束ねている盗賊団意外にも、少人数で行動している連中が大勢いる」
「……なぜそのことを、わたしに?」
諸侯らにはけっして打ち明けなかったことを、ヴィートはアベルに教えてくれた。
驚きと困惑に、アベルの声が揺れる。
「きみの役に立ちたい」
水色の瞳を、アベルは大きくまたたいた。
「きみがおれの気持ち受け入れられなくとも、きみの役に立って、きみのそばにいさせてほしいんだ。おれが話した内容を、諸侯らに伝えるかどうかは、きみの自由だ。おれを利用してくれてかまわない」
「ヴィート」
アベルは混乱しつつも、なにか強い感情に衝き動かされて声を発した。
耳によみがえったのは、リオネルの声。
――たとえ、きみにどのような力もなく、なんの技能や資格も持ちあわせず、この世の一切の役に立たず、この世のだれにも認められなくとも――それでも、きみはおれのそばにいていいんだ。
かつて、彼は自分にそう言ってくれた。
そう言ってくれたときの彼の気持ちが、今ならわかる。
今、アベルが伝えるべきことは、そういうことなのではないだろうか。
「あなたが、なんの役に立たなくとも、ここにいてかまわないのです」
ヴィートの胸に抱かれたまま、アベルは静かに言った。
彼女を抱きしめる腕がわずかに震える。
「あなたという人間が、わたしは好きです。ですから、わたしのそばにいるために無理をしないでください。利用するなど、哀しいことを言わないでください」
「アベル――」
少女の名を呼ぶヴィートの声が揺れた。
「――ありがとう」
今までの人生で、これほど彼の胸に沁みた言葉があっただろうか。
「ありがとう。おれは……おれは、きみの気持ちが変わるまで、一生待ち続けることに決めた」
思わずうなずきかけてから、はたとアベルは顔を上げる。
「え? 今、なんて?」
「いや、おれはなにも言っていないぞ。残念だが、そろそろきみを放さないとな」
ゆっくりと、残念そうに、ヴィートはアベルの身体を解放した。
「あの……待っても、なにも変わりませんよ」
先程の言葉がきちんと聞こえていたアベルは、ためらいがちにヴィートに言う。
「だから、おれはなにも言っていないと言っただろう?」
「…………」
腑に落ちない顔のままのアベルに、ヴィートはそっとかがんで顔を近づけた。アベルのひたいに、長身のヴィートの唇が触れる。
「――――!」
不意打ちのように口づけされて、アベルの白い顔は、瞬時に赤く熟れた。
「ヴィ、ヴィートっ」
右手でひたいを押さえながら、アベルは数歩あとずりする。
「温かい言葉のお礼だったんだけど……いやだったか?」
大胆なことをしてきたわりには、ヴィートはひどく不安そうな面持ちで尋ねてくる。
怒ったようにヴィートを睨んでから、なにも答えずアベルは再び回廊を歩みはじめた。といっても、負傷した足ではそう早くは進めない。
「待って、すまなかった。そんなに怒らないでくれ」
すると、ヴィートの声に反応したかのようにアベルは急に立ち止まる。
やけに素直に言うことを聞いてくれたことを不審に思って、ヴィートはアベルに追いつき、その顔を覗きこむ。
あいかわらず熟れたトマトのようだったが、その瞳は、思ったよりも怒ってはいないようだった。
「わたしは、ここでリオネル様のお戻りを待ちます。最後にご挨拶をしてから休みますので」
アベルが足を止めたのは、リオネルの寝室の前である。
おそらくリオネルはまだ地上階の居間で、ディルクやクロードと共に諸侯らと話しているだろう。戻りがいつになるかはわからないが、彼らの会話に割って入るわけにはいかないし、なにも告げずに休むわけにもいかないので、ここで待つしかないのだ。
ひたいへの口づけをなかったことにしたかのような反応に、ヴィートはほっとしたような、少し寂しいような心持ちがした。
「そうか、じゃあ、おれも待たせてもらおうかな」
「かまいませんが」
少々ぶっきらぼうに、アベルは答える。
ひたいに口づけを落とされたことを完全に赦してないということもあったが、今更ながら、愛を打ち明けられたことが気恥かしいのだ。
視線を合わそうとしないアベルに、ヴィートは、
「やっぱり、おれは先に休んでいるよ」
と告げた。
そうですか、と小さな声でアベルが答えると、ヴィートは彼女に向けて片手を振りながら回廊を歩み出す。
ヴィートは、ラザールやダミアンと同室で寝起きすることが決まっている。
だが彼が向かおうとしていたのは、己の寝室と同じ地上階にある、居間だった。
――リオネルを呼びに行くためである。
足の悪いアベルを、こんなところでいつまでも立たせていたくなかったからだ。
諸侯からの冷たい視線や体裁など、ヴィートにとっては取るに足りないものである。アベルを守ることができれば、それでよかった。